自由を希求する故の自死

自由論

自由論

バーリンからやや長めに引用。

禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉ではあるかもしれないが、どうしてこれが自由の拡大と呼ばれうるのかは理解しがたい。もしわたくしが室内に退却し、一切の出口・入口の鍵をかけてしまうことで敵から免れたとした場合、その敵にわたくしが捕えられてしまった場合よりはたしかにより自由であるだろう。しかし、わたくしがその敵を打ち負かし、捕虜にした場合よりも自由であるだろうか。もしもそのやり方をもっと進めて、自分をあまりに狭い場所に押しこめてしまうとしたら、わたくしは窒息して死んでしまうであろう。自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。わたくしが自然的世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないのだ。この意味における全面的な解放は(ショーペンハウアーが正しく認めていたように)ただ死によってのみ与えられるのである。(訳書334ページ)


「ひきこもり」は「自由」なのだろうか。確かに、「社会」という敵に蝕まれるよりもはるかに「自由」なのだろう。しかし、「社会」や「他者」というものを飼いならすことができた場合よりもは「自由」であるだろうか。


確実な「生」と不確実な「ノイズ」を排除し続けるためには自室に閉じこもる。なぜなら、他者との接点をゼロにしてしまうことができれば、不快な信号も排除できるからだ。


しかし、皮肉なことに、「確実とは不確実なこと」でもある。なぜなら、世の中には100パーセント確実なことなど存在しないからだ。確実だと思われたものの中に、一見すると分からないような形で、不確実が潜んでいる。


確実なものも、それが確実であるがゆえに実は不確実なのである。そして逆も真なり。不確実なことは確実なことでもある。


「確実」な生を求めることは同時に「不確実性」をもたらす。「自由」を求めて自室に閉じこもることは、予想に反して「不自由」を帰結するのである。


耐え難きノイズから逃避し自室に閉じこもること。このことは非難されるべき事ではない。なぜならば、それは一つの「自由」であるからだ。社会の中でのどうしようもない「不自由」から逃れる「自由」である。


しかし、その「自由」は「自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆく」という道でもある。不確実なノイズを排除したことが、確実性さえも無残に奪い去っていく。絶対的な「自由」は絶対的な「不自由」をもたらす。

幸福なり正義なり自由(いかなる意味のものであれ)なりを求めているびとが、やりたいことをする道があまりに塞がれてしまっているために、ほとんどなにひとつできないという世界にあっては、自分自身へと引き籠ってしまう誘惑は抗しがたいものとなってくるであろう。(前掲書333頁)


バーリンは「どうしてこれが自由の拡大と呼ばれうるのかは理解しがたい」と疑問を呈する。ショーペンハウアーのいう自死や現代日本の「ひきこもり」が「自由の拡大」というように意味づけられるとしたなら、バーリンがいうように、理解し難い。そこにあるのは「不自由」でしかないからだ。


私たちが考えるべきは、かくも「不自由」である生の中での「自由」である。そして、その「自由」とは他者というノイズを排除したものではなく、他者という「不自由」を抱えることによって、逆説的に帰結されうる「自由」なのであろう。