ピュシスからの追放

読書会のためにプラトンの国家を第2巻まで読む

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

以下、自分が考えるために書いたメモ


やはり近代論理学などと比較すると、プラトンはヒドく杜撰な論理展開をしている。否定式が採用されるべき所で、なぜか肯定式が採用される、途中で立てられる仮定が前提と矛盾している、などなど。ありえない・・・


各所ふんだんにそういう箇所があってこだわるとひどく気持ち悪い。論理などを期待せずに、思想を期待して読むべき本か。


プラトンソクラテスに語らせてる方法は、アリストテレスによって「例証」という帰納法の一形態として整理されているものに相当する。「例証」という方法にはパースのいう「アブダクション」とは違った説明が与えられるが、根本的に差はあるのかどうか。このあたり不勉強で違いを明確に説明することができない。


『国家』では国家とノモスについてがメインテーマとなるので、ノモスに対置されるピュシスについて少し引用を。引用は浅田彰『構造と力』から。

 生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。これこそ人間と社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンスを持ち合わせない、言いかえれば、過剰なサンスを孕んでしまった、反自然的存在なのである。(31頁)

 象徴秩序は絶えず再生産されねばならない。このことがすでに、それが「自然」な秩序ではないことの証である。ピュシスが、いわば自然の中に書き込まれたシナリオをもつのに対し、それをもたない象徴秩序は、絶えざる反復的再上演によって急ごしらえのシナリオを再確認し続けるほかない。(47頁)


現代思想でいうところの「ピュシス」とプラトンが使用する「ピュシス」は明らかに指す範囲が異なるが、一定の見取り図にはなるのか。「追放」というタームが使われていることに象徴的なように、『構造と力』は「疎外論」として書かれている。そして、もちろんプラトンイデア論に見られるように疎外論がベースである。


プラトン対話編におけるソクラテスは、一個人の記録として読むべきものではない。あくまでも象徴的な寓話だ。ソクラテスは戦いと祝祭以外ではアテネを出ず、一文字も書かなかったという。しかし、これが事実かどうかなどたいして問題ではない。


重要なのは、アテネから出ないというソクラテスの存在を通して「ノモス」が代理表象されていること。「ソクラテス、この書かぬ人」(ニーチェ)と言われ、それ故に「西洋の最も純粋な思考者」(ハイデガー)として、疎外され得ぬ人=パロールの人を示すこと。そのことが、逆説的に「疎外」を表象していることなのだ。


ソクラテスは「例証」を行う人としてプラトンの対話編に登場するが、ソクラテスの存在自身もプラトンのテクストにおいては「例証」なのである。


だからこそ、プラトンのテクストにおいてソクラテスは死ななければならなかった。つまり、昨日のエントリバーリンがプラトニズムの論理的帰結は「死」であると言っていたところを引用した。「死」というプラトニズムの論理的帰結を表象するために、ソクラテスプラトンのテクストの中で死んだのだ。


ソクラテスの弁明』というプラトンの始点のテクストのなかで、終点が既に示されている。西洋哲学の終着地点だ。終着地点から西洋哲学は始まっていたのだろうか。