井出草平の研究ノート

addict

アルコール依存症はaddiction to alcohol
ギャンブル依存症はaddiction to gambling


addictionは後ろにtoという前置詞を持っている。ということは、○○依存症というのは単に状態像をさしているというよりも、方向性(to)をもった動作を指す名詞と考えられる。ならば、行為として何かにaddictする動作と、そのaddictを繰り返す状態は分けて考えるべきか。


上の動作と状態の区分を持ち込んで、少しだけ「過食」について考えてみようと思う。


過食をしている最中は、ある種のトランス状態になる。もし、食べてる途中に不快感を覚えることがあるとしても、食べるという行為によるものではない。例えば、これだけ食べたら太る(将来の予期)や、食物が体内に入ることに対する嫌悪感(過食の結果としての状態)や、この後吐かなければならない(過食の結果としての行為)という予測が立つから、不快を覚えるのであろう。


ということは、不快があるとしても、それは「食べる」という行為によって引き起こされる状態や二次的に起こされる行為(例えば嘔吐)における不快であって、「食べる」という行為そのものに「不快」があるわけではないと考えられる。


行為者との関わりで考えると、addictする行為そのものの中に行為者が「不快」を感じることはない。言い方を変えると、行為者にとってaddictする行為が「することができない」という可能性がない。addictする行為とは「できてしまう」行為なのだ。「できてしまう」行為だから、ついつい逃避的にコミットをしてしまうし、モチベーションなどなくても、完遂し切れてしまう。


addictする行為の中では行為者がその行為に拒絶されるということはない。


なぜ、こんなことを考えたのかというと、映画の後の質疑で、食べる事以外に夢中になれることはないのか?という質問があったからだ。


恐らく、摂食行為の代わりに夢中になれる行為をしたとしても、また、それにaddictするだけの結果になる。理由は、行為者が依存傾向を持っているからという答えが一番簡潔だが、おそらく、そう言い表すよりも、行為の中で行為者が拒絶されない行為を望んでいるからといった方が妥当だろう。つまり、一瞬であれ、純粋な拒絶無き世界を体感したいのだと。


addictionがaddictionたり得るのは、addictする行為によって不快が生産され、それが自己を拒絶することに繋がる。そして、その拒絶を打ち消すために純粋な拒絶無き世界へと再び回帰する。そして、これがループする、というところにある。


このように考えると、「ひきこもり」というものも、一つのaddictionであると捉えられなくもない。斎藤学が以前に「引きこもり依存症」という言葉を言っていた(id:matuwa:20041231)が、アルコールや買い物といった特定の依存対象をひきこもりは持たないために、あまり広がらなかった。


「ひきこもり」とは社会関係の拒絶を打ち消すために純粋な拒絶無き世界に居続けることをいう。つまり、他者と接触しなければ、「拒絶」も生まれない。「ひきこもり」というものでは、純粋な拒絶無き世界を体感できることになる。しかし、純粋な拒絶無き世界が、明らかな「不快」もを同時に生みだす。そして、そこから生まれる自己への拒絶が、さらなる純粋な拒絶無き世界を求め、ループが生み出される。結果としてひきこもりは執拗に続く。


addictionの種類によって対処法は異なる。アルコール依存症に有効な手だてが「ひきこもり」にも有効というわけでもない。しかし、そのaddictする行為に介入して、addictionを切っていくというプロセスは共通なのかもしれない。