- 作者: 粕谷なち,草薙和美
- 出版社/メーカー: 新宿書房
- 発売日: 2004/06
- メディア: 単行本
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これは良書だと思う。誤魔化しがないし、伝わる言葉で書いてある。また、一部の人にとっては治療的でもある。「ひきこもり」の本にこういう本があればよいのにと思った。ひきこもり関係本はだいたい読んでるはずだけど、このような本は見たことがない。
もちろん「ひきこもり」を記述する人間の能力が低いということではない。原因は現象そのものに起因している。
ひきこもりという状況では社会的行為が縮減されるため状況を記述する言語も縮減される。食べる、寝る、テレビを見るという行為の記述は可能だろうが、これでは、非常に単調で貧弱な言葉で綴ることになってしまう。
また、自己の形成も非常に単調になる。自己を記述するためには、インタラクショニストが言ったように、鏡となる〈あなた〉が必要だ。自己と他者の交わり合いの中で、自己は発見されていくのである。しかし、「ひきこもり」という状態は、他者のいない空間へ退くことであるから、そのような自己の形成が阻害される。
具体的な他者のいない空間では自己の記述は不可能に近い。そういう現象の特性は、ずっと「ひきこもり」という現象の記述の貧弱さにとなって現れている。
さて、再三感じてることだけども、感想としては、「摂食障害」と「ひきこもり」の類似点は多い。もちろん、相違点はたくさんあるのだけれど、やはり気持ち悪いほど似ている。
そうすると、自分のやるべき作業は、相違点のピックアップとなる。おそらく。共通点ではなく。
今後考えることをいくつか記述。
- 「摂食障害」ではピア・カウンセリングが可能なのに、「ひきこもり」では非常に難しい。なぜ?
- この本に限らず、摂食障害は「病気」であると書かれる。書かれるというか、この問題に取り組む上での「前提」ですらある。死亡の危険性が圧倒的に摂食障害の方が高いために、医学的な必要性から来たという説明でなんとなく納得できなくもないが、「病気」だと見なされる理由はそこにはないはず(と社会学者なら考えるか)。周知の如く「ひきこもり」は「病気」と捉えないということになってる。
- 「ひきこもり」を通して、摂食障害を見た時に違和感を感じるのは、家族で取り組むべき問題である(むしろ家族が一丸とならなければ解決できない)と書かれること。摂食障害はそんなことしなくても回復するとか、そんなことを言いたいわけではなくて、そうなのだろうし、その是非を判断する知識はそもそも自分にはない。が、「ひきこもり」問題とのアナロジーで捉えると、この点をやや考える必要があるように思う。
- いろいろな条件を鑑みて、最終的に判断を保留しなければならないと思ったのは56頁の記述「親がそれをを聞いて、「あくまでおまえの問題だ」と取り合わない場合は、ほかに「親」を作るしかありません」。これは以後の自分への課題として。