日本摂食障害学会
http://www.med.osaka-cu.ac.jp/neuropsy/ed/index.htm
岸政彦sociologbook
http://sociologbook.net/log/200510.html#eid171
http://sociologbook.net/log/200510.html#eid172
個人的にいろいろ言いたいことはある(もちろん医者に対して)が、ひきこもりの業界事情と比較すると、状況はやや異なる。理由を考えると2つほど心当たりがある。
まず考えられるのは、ひきこもりは死ににくいが摂食障害は死にやすいということ。「死亡可能性」から医者の介入の根拠が与えられる。そこにおいて、医者の介入が治療的に有効か否かは不問にされている。死亡するから医者が介入することと、その介入が効果的かはまた別の問題であるはずなのだが。
ひきこもりという問題は不登校から出てきたという出自を持つ。精神科医の稲村博が「不登校の予後」として「無気力症」というものを問題化。それに対して東京シューレを筆頭とするフリースクール系の運動体が対立をした。そして、運動体の言説が医者の言説(絶大な権威を持っているはずなのに)を打ち負かしてしまったという世にも奇妙なことが起こった。
そのような対立の中から「ひきこもり」という問題は発見されていく。このような事情から「ひきこもり」では医者の支配がさほど強くない。今でこそ、精神保健医療の枠組みでひきこもりへの支援はなされているが、最初にひきこもりのコアな部分(訪問支援)と立ち向かったのは、不登校のフリースクールの流れを組む支援団体だった。
「こころ」の問題として社会問題化されたかと思えば、今度は就労面がクローズアップされ「ニート問題」に化けたりもする。いろいろな分野がそれぞれの言説を持っていることが逆にバランスのよう状態を作り出しているのだろう。
もちろん今のこの状況を作り出した根本的な主体は、東京シューレを筆頭とするフリースクール系の運動体だった。彼らがいたから、今こうやって「ひきこもり」というものを人文的にであったり、社会科学的に議論することも出来る。東京シューレに対しては、象徴的な意味でのリスペクトを忘れてはいけない。