井出草平の研究ノート

ふたつの〈当事者性〉をめぐって


10日に開催された阪大での「当事者性」に関する研究会。

開催日時:2006年3月10日(金) 13:30〜16:30
開催場所:人間科学研究科東館404講義室
シンポジスト:杉野昭博氏(関西大学社会学部)・山田富秋氏(松山大学人文学部)・土屋葉氏(日本学術振興会特別研究員)


野崎さんがすごい速さで報告を上げられています。(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060310)

なんか、「そんなの常識」ってことと、「えっ、ここまでしか考えてないの?」とか思った。もうちょっと刺激的な話をして欲しかったかな。
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060310


こんな所をピックアップすると、お叱りを受けそうだけど、刺激不足は確かに否めなかった。勉強になった点は、野崎さんが既に書かれてる通り。イギリスの議論の流れは知らなかった。とても、勉強になった。


疑問点をいくつか。


「当事者」という言葉にどのような意味づけをして使ってるんだろうとイベントの間中ずっと考えていた。「当事者」とは調査者からみて自分とは違う人たちという意味だったのだろうか?とかなんとか。違うはずなんだけどなぁ。


あと、定番といえば定番だけど、フィールドワーカーがフィールドに入る時に、「入る理由」を表明しなければならないという問題。調査の許可を得るには、運動体なり、当事者なりへのベネフィットを提示することが非常に好ましいものの、なかなかベネフィットを説明できる人はいない。それはそうなんだろうけど、その話を聞きながら2つほど考えたことがある。


当事者と呼ばれてしまう人にも色々な立場がある。○○障害にしろ、ひきこもりにしろ、不登校にしろすべて同一の性質を持った人が集まっている訳ではない。誰かの利益になることでもその他の人の不利益になることがある。これは、たまに起こることではなく、ほぼすべてのケースで起きるはずなのだ。その辺りの葛藤について言表がもう少し欲しかったように思う。


2つ目は、誰かの利益になることを公言できない場合に、研究者は正当性をどこに見出す傾向にあるのかということ。


研究の政治的・運動的意義を含んだ研究ができれば問題はなく悩みもないのだろうけど、そうそう利害が合致するということはないようなのだ。調査を受けてもらった人からの反発が来る場合もある。そういった場合に、研究者は「手続き」にこだわる傾向にあるのではないかと思う。「手続き」さえちゃんと踏んでれば、ということなんだろう。でも、手続きを踏むことは、倫理的な要請の代替にはならない。


手続きというのはあくまでも調査における「技術」の問題。「技術」は「倫理」の代わりとはならない。「調査」について語るということは「倫理」について語るということなのだと思う。


以下は今日の研究会とは直接は関係ない話。


「調査者と被調査者の権力構造」ということが言われることがある。「権力」というと、強いA集団が構造的に弱いB集団に圧力をかけるという話になるけども、そんなに人間って一致団結しているものなのだろうか?とも思う。 


「権力」という言葉は社会学者がよく使う言葉だし、何気に便利なので、使いがちだが、本当に安易に使ってしまって良いのだろうか? 


調査について「権力」が登場する場合、まずは「被調査者」への構造的な権力性ということがトピックになる。


しかし、被調査者にもいろいろな立場があり、打算があり、政治性があるはずなのだ。当事者と呼ばれる人たちの間でも、バトルがあり、利害の対立があったりする。だから、当事者という枠組みを使うことで、自覚的に政治性のアピールもよくされる。なのに、研究者が当事者の体験情報を簒奪する=「権力性」なんてことに議論を回収しがちなのだ。


ここに欠けているのは、調査者は調査をした時点で既に当事者なんだという視点ではないだろうか。ある特定の立場の被調査者の声を、第三者へと伝える作業をすると言うことは、ある特定の立場の政治性を代弁していることに(意図しようとも意図しなくても)なる。


情報を簒奪する存在(=加害者)として調査者を描くことは、この政治性に巻き込まれることを看過することになる。もしかしたら、未だに透明な存在としての「研究者」を想定しているのではないのだろうか? 客観的だ、透明だと自己定義しようが、実際には何らかの政治性に巻き込まれているものなのだ。


いや、そもそも巻き込まれるべきだと言った人がいた。マックス・ヴェーバーである。ヴェーバー社会学が必然的に持つ政治性に非常に敏感であった*1ヴェーバーの価値自由とはそういうことを言明した宣言のはずだった*2。研究者は何らかの価値にコミットし、何らかの政治性に最終的には行き着く。そういう必然性は、自身の政治性に敏感にならざるを得ないという要請を生みだすのだ。


しかし、当事者の政治性を隠蔽し、被調査者の能動性をなきものとして考えられている。いや、そのようには考えていないんだ、と調査をしている人間なら必ず答えるだろう。でも、「権力」という言葉を使っている以上は、「そう」考えてしまってるのだ。


「権力」という言葉を使えば、調査者は加害者として構築される。加害者であれば、神妙にならざるを得ない。しかし、その神妙さが曲者である。


調査者が政治性について敏感であれば、そもそも神妙な言表にはならない。自身の研究の政治性と問題における自身のポジショニングについて語ることになるはずなのだ。その語りは、情報を奪っていく外部の人間というものではなく、社会問題とその政治性にコミットした内部の人間としての言明になる。


「権力」という集合的対立を持った含意した言葉である。その言葉で関係性を語るということは、意図しようと意図しまいと、当事者という括りを作り出し、調査者と別個の存在として構築することになる。つまり、調査者は加害者の役割を引き受けることによって、自身が透明だという立場性を暗黙裏に滑り込ますことに成功する。いや、成功したという表現は正確ではない。正確には失敗してしまって、何らかの政治性に巻き込まれているにもかかわらず、それから目を背けているのか、もしくは、まったく鈍感に政治性をまき散らしているか。


権力性の指摘と研究者の自己批判は、否定して根絶やしにされるべき(とされる)批判対象である権力性を実は延命させてるのではなかろうか。そう思えてならない。

*1:ヴェーバーのこの面の話は樋口明彦さんに教えていただいた

*2:「価値からの自由」ばかりが強調され、「価値への自由」はどこかへ飛んでいってしまっている場合が多い。「〜からの」「〜への」という表現はバーリン=向井守