井出草平の研究ノート

中垣内正和氏よりのコメント


中垣内正和氏よりのコメント欄への書き込みがあった。

  1. 長期間家から出ないひきこもり、拒否的なひきこもりに、臨床心理士はかかわることはできません。
  2. ひきこもりは個人病理であるという考えは否定したうえで、医療には社会精神医学、集団療法自助グループとの連携などの分野もあります。脱医療化した「医療」というのもあるのです。
  3. 「ひきこもり」には医療の必要な例、精神疾患との鑑別を要する例が多いといえます。全分野が連携した取り組みが最も効果を挙げるでしょう。

エントリがメモ書きになっていて、不正確だったので、id:hotsumaさんの整理を「正確」と表現した理由について再度エントリしたい。


中垣内氏の実践は「全分野が連携した取り組み」を形にしたものと考えることが出来る。中垣内氏は連携のために「ひきこもり学会」も提唱をされている。

引きこもり学会設立に向け、その研究会を、関係医、専門家とで設立してゆきたいと、執行部会に意志表明


このような全分野が連携した取り組みが一番望ましいし、クライアントにとっても望ましいものだと考えられる。では、なぜ「脱医療化」についての議論が必要なのか。


ひきこもり問題は不登校問題に出自を持っている歴史的経緯がある。稲村博に代表される医療言説に対抗して、選択の物語を出したのが東京シューレなどの不登校運動だった。この不登校運動によって脱医療化はなされた。むしろ脱医療化がなされすぎたのではないかとも思えるのだ。斎藤環は次のように述べていた。

不登校の子どもが集まるフリースクールの草分け的存在である「東京シューレ」のあり方とか、一部の精神科医のあり方もそうですが、稲村的な言説に対して徹底的に叩いてくれたのはよかった。でも、イデオロギー的に「不登校」を持ち上げていき過ぎたところはなかったか、と思うのです。いまの制度としての教育の誤りを示してくれる存在として、「不登校はすばらしい」であるとか、「不登校にならない感性の鈍い子たち」とかいうような言い方はいきすぎがあったのではないか、と。
−−斎藤環藤井誠二・山下英三郎「本当ですか!? 「不登校の子は,ひきこもりもする」」『月刊子ども論』9月号.


この言表に対しての奥地圭子の反論という構図がある。奥地は「不登校にならない感性の鈍い子たち」とは言わなかったが、それは大した問題ではない。運動が社会に対してどのようなメッセージを発していたかということが重要なのだ。


運動の言説は不登校の外部に対しては、斎藤環が言ったように機能していたと考えて問題はない*1吉本隆明不登校の子どもたちに接した感想を次のように述べている。

かれらは普通の子どもたちよりよほど鋭いという印象で、判断力もありました。当時のぼくは、そのことにちょっとした驚きを感じました。やはり、かれらはあまりに勘がいいというか感覚がよすぎて、先生や親の考え方や授業のやり方を馬鹿馬鹿しく感じたのではないか。

−−吉本隆明『ひきこもれ』72-3ページ


吉本隆明がどれだけ不登校の実態を知っていたかはよく分からないが、不登校になるのはむしろ正常なのだという言説は流通していたと言えよう。そして、常野雄次郎が指摘するように、不登校をする子どもたち、選択の物語がある種のハッピーエンドを持った物語であるかのように語られてきたことも、そのような流れに寄与していると考えざるを得ない。(参考:id:toled:20041204)


フリースクールと選択の物語は多くの当事者と親を救ってきたことは疑いようのない事実であり、その成果は断じて否定されるべきではない。しかし、その枠組みからこぼれ落ちてしまった不登校当事者もいたことも事実である。それが「ひきこもり」として90年代末に再問題化されたのである。


このような言説の流れは、脱医療化された問題が再び再医療化の道を辿ったと見ることも出来る。しかし、単に振り子が戻っただけではない。その振り子が振れた間に多様な立場と集団が生まれ、全分野が連携した取り組みが可能になる素地が生まれ来たのである。


摂食障害の分野では医療言説の支配力が強い。全分野が連携した取り組みが可能にする素地がやはりまだまだ出来ていないように感じる。そのためには脱医療化を目的しない、手段としての脱医療化が必要とされるのではないだろうか。


ひきこもりの分野では、不登校問題の歴史があるために、多様な立場と集団が存在する状況にはなっている。従って、ひきこもり問題においては手段としての脱医療化はあまり必要がない。既に全分野が連携した取り組みを標準化する時期にある。


足りないことがあるとすれば、社会の中でのひきこもり問題という視点ではないかと思う。自分たちとは違う世界で起こっている関係ない出来事のように、ひきこもりは依然として描かれている。本人が悪い、親が悪い、受験が悪い、学校が悪いなど犯人捜しが行われ、自分とは関係ないものが原因かのように語られる。


しかし、ひきこもりという現象は、私たちが生きているこの社会が必然的に生み出す現象以外のなにものでもない。自分とは関係のない問題としてではなく、自身が生きる社会の問題として「ひきこもり」を問題化していくことの必要性がある。そのような必要性に対して、社会学という学問は寄与できる。そのように考えている。

*1:かといって不登校運動がそのような責任をとる必要はない