井出草平の研究ノート

オヤジのきもち「ひきこもり」

オヤジのきもち「ひきこもり」(2006.03.26朝日新聞・大阪北摂版)

 あれは8年前。息子は当時20歳、「ひきこもり」でした。
 息子は関西の大学をやめ、四国の実家に戻っていました。食事以外はずっと2階の白分の部屋。そんな息子を見るのがいやで、毎晩私は深夜2時、3時まで飲み歩いていました。
 たまたま早く帰宅した日、息子の部屋に行って、つい言ってしまったんです。「おまえのような役立たずは死んでしまえ」
 息子は私の顔を殴り、羽交い締めにして、ベッドにたたきつけた。妻が「親を殴るなんて」と、泣きながら息子を止めました。
 30年以上まじめに仕事をして、家族を支えてきた。何でわしがこんな思いをせなあかんのか。生かしておいても意味がない。息子をバットで殴り殺し、刑務所に行こう……。


斎藤環家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』の読書会チャットをする予定。それも見据えて引用。




オヤジのきもち「ひきこもり」
8年前、殺そうと・・・。本当の気持ち、気づいてやれなかった。
「息子との時間」少しずつ
2006.03.26朝日新聞(大阪北摂版)


 自分の子どもを殺そうと思ったこと、ありますか?
 あれは8年前。息子は当時20歳、「ひきこもり」でした。
 息子は関西の大学をやめ、四国の実家に戻っていました。食事以外はずっと2階の白分の部屋。そんな息子を見るのがいやで、毎晩私は深夜2時、3時まで飲み歩いていました。
 たまたま早く帰宅した日、息子の部屋に行って、つい言ってしまったんです。「おまえのような役立たずは死んでしまえ」
 息子は私の顔を殴り、羽交い締めにして、ベッドにたたきつけた。妻が「親を殴るなんて」と、泣きながら息子を止めました。
 30年以上まじめに仕事をして、家族を支えてきた。何でわしがこんな思いをせなあかんのか。生かしておいても意味がない。息子をバットで殴り殺し、刑務所に行こう……。
 何度も考えました。でも、できなかった。息子は親思いのやさしい子だったという思いが、胸のなかに残っていたからでしょうか。


私は今67歳。測量事務所を経営しています。息子が生まれたときは「これで後継ぎができた」と大喜びでした。
 勉強もよくできて国立大付属中学に入学、陸上選手としても活躍しました。
 高校では登山部に入って、親子で山登りをしたこともあります。仕事も手伝ってくれたので、「後を継いでくれる」と当たり前のように思っていました。
 関西の私大に入学。その秋に大学から電話がありました。「入学当初から、息子さんがずっと学校に出てこない」と。
 息子のアパートへ飛んで行った。玄関を開けて驚きました。ビールやウイスキーの空き瓶がごろごろ。
 「男はな、勉強して、社会に出て、仕事をする。嫁さんをもらって、子どもを育て、親の面倒をみる。これが男じゃ」。こう言ってしかると、息子は黙ったままでした。
 ひきこもり生活が2年を過ぎようとしたころでしょうか。ひきこもりの若者らをサポートする大阪のNPOから、青年が自宅を訪ねてきました。妻がお願いしたんです。青年はNPOが運営する寮に入るよう説得し、息子は大阪へ行った。
 寮に入って半年後の夏、妻といっしょに息子を訪ねました。おだやかな表情になっていた。介護のアルバイトを始めた、と話していました。そのとき、息子がつぶやくように言いました。
 「おやじ、おれ中学は、みんなといっしょに公立に行きたかった」
 付属中学を薦めたのは私でした。息子の将来のため、と思ってのことだったのですが、あいつにとっては重荷だったんですね。
 本当の気持ちに気づいてやれなかった。息子のやさしいところ、弱いところも、ちゃんと受け止めてやるべきだった。


 いま、止まっていた「私と息子の時間」を少しずつ取り戻しています。
 「バイクを誘ってほしい」と息子にお願いされました。10年以上前に買ったカワサキの250CC。「免許取れたらええで」と言ったら、本当に取ってきた。
バイクにまたがっている息子の後ろ姿を見て、「あなたによく似ているわ」と妻はうれしそうでした。


 私の仕事に定年はありません。でも70歳で辞め、牧場をやるつもりです。そしてそこに息子のような問題を抱える子どもを迎え入れる施設を作りたい。できれば、息子といっしょにね。