井出草平の研究ノート

パイドン


id:x0000000000:20060407:p3で取り上げられている小泉義之の『病いの哲学 (ちくま新書)』でソクラテスの死=尊厳死という解釈が示されているらしい。小泉義之の本を未読なため、これに関しては何も言うことが出来ないが、確かに何らかの接点にはあると思う。特に関係しているのはプラトンの『パイドン』である。


パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)


例えば以下のくだり。「哲学」とはどういうものかを説いたところである。

もしも、魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引きずっていない。なぜなら、魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、むしろ、肉体を避け、自分白身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、また、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。(79頁)


哲学は魂が純粋な姿になる練習であるとソクラテスは説く。このパラグラフから分かることは、「死」というものによって「もたらされるもの」が現代の考え方とは全く違っているということである。現代では「死」とは「無」である。しかし、プラトンでは魂が最も純粋になる状態=好ましい状態として捉えられている。この捉え方の違いは『パイドン』を読む際の前提である。


そのパラグラフの後、次のようにくだりが続く。

それでは、魂が以上のような状態にあれば、それは、自分自身に似たあの目に見えないもの、神的なもの、不死なるもの、賢いもの、の方へと立ち去って行き、ひと度そこに到達すれば、彷徨や、狂愚の振舞いや、恐怖や、狂暴な情欲や、その他の様々な人間的な悪から解放されて、幸福になるのではないか。そして、秘儀を受けた人々について言われているように、残りの時間を真実に神々と共に過ごすのではないか。(80頁)


「死」という状態は「生」における諸悪から解放されるという意味での「幸福」であると説かれている。もちろん、この文を読む際には幾つかの予備知識が必要である。まず、プラトン(ソクラテス)は必ずしも犬儒学派的な価値観を持っているわけではないということ。このことを明示的に確認するには『パイドロス』を併読する必要がある。また、もちろん「生」とは苦痛だから「死ぬべきだ」とプラトンが言っているわけではないということも指摘しておく必要があろう。


加えて、先ほども書いたように「死」というものの捉え方が現代とはずいぶんと違っている。岩波版『パイドン』の翻訳の副題が「魂の不死について」となっているように、プラトンにおいては魂は不死であって、転生するものなのである。


これらのことを踏まえると、プラトンが現代的な意味での「尊厳死」を説いていたのではないということは確認できるように思われる。現代的な意味での「尊厳死」の論点は、魂の不死であるとか、輪廻転生にあるわけではない。


その上で、プラトンの思想から現代的な意義を抽出するならば、「生」は絶対的な価値ではないということであろう。「生」とは別のものが「生」以上に重要である。だから、その重要なものが侵される際には、「生」を放棄しても構わないのだ。このような「判断」である。


その「生」よりも重要なものが、ソクラテスプラトン的に「魂」であるとか、「死は悪からの解放である」となると、正直ついていけない。


しかし、一方で、「生」以上に重要なものが存在するということは否定することは出来ない。なぜならば、物事の根拠を遡及的に辿っていくと、必ず無限後退が起きるからだ。「生」が最も重要なものであるというのは、「あたりまえ」のことかもしれないが、それは、今の自分の人生がとても幸福であって、自分の人生が幸福だから、他人の人生もまた幸福だろう(幸福であるべきだ)と思いこんでいるだけなのかもしれない。突き詰めて「生」の価値を考えるとその価値を最上のものだと根拠づけるものは存在しないはずである。


かといって、「生」以外で、「生」よりも重要なものを探し出したとして、それが最上であるという判断を下すことも出来ない。尊厳死とは一般に「QOL」が「生」よりも重要視されるということになろうが、「QOL」が「生」よりも重要であるという根拠は(客観的に)存在しない。


これはアリストテレスの言葉でいうならば「問答法的推論」の取り扱うべき問題である。アリストテレスは推論を「論証」「問答法的推論」「論争法的推論」の3つに分けたが、上記の状況において、必要なのは「問答法的推論」である。つまり、「生」が絶対的優越になることはない。また「生」以外の何かが絶対的優越になることもない。このような明確な答えのない推論の取るべき方法は「問答法的推論」になる。そして、それは「倫理」の仕事となるのであろう。