デュルケムの「密度」について


自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)


読書会で喋ったことのメモ。


デュルケムのキー概念の一つに「密度」というものがある。


社会分業論(上) (講談社学術文庫)』では「密度」に関連する概念は3つ提示されている。

  1. 社会の容積(volume de la société)
    人口。
  2. 物的密度(densité matérielle)
    人口密度(容積[人口]/面積)+通信・交通路の発達
  3. 動的密度(densité dynamique)
    道徳的緊密性。『分業論』では接触と交通という言葉によって表されている。動的密度は物的密度によって計測できる。


「動的密度」とは何であるか? 『分業論』ではあまり明確な定義がなされていないので『社会学的方法の規準 (岩波文庫 白 214-3)』を見ると次のような記述がある。

もしも諸個人、いなむしろ諸個人からなる集団が精神的な空隙によってへだてられているならば効果をもちえないような、純然たる物質的な意味での集合の密接性ではなく、こうした密接性を補助手段、そして一般的には帰結とするにすぎないような精神的密接性を指すものと解されなければならない。(宮島訳 223頁)


ここで、「精神的密接性」と訳されているのは、"le resserrement moral"であり、「精神」と訳すよりも、後年の「道徳教育論」との一貫性を優先して「道徳」と訳した方が良い気もする。つまり、『道徳教育論』で言われる道徳の第二要素である「集団への愛着」というもの*1の強弱が『分業論』や『規準』で語られている「動的密度」という繋がり方である。


社会学的方法の規準 (岩波文庫 白 214-3)』では、デュルケムは「物的密度」を「動的密度」厳密な表現として示しすぎたというように述べている(宮島訳224頁)。ここでいう「表現」とは「物的密度」は「動的密度」の代理表象物だという意味である。つまり、「動的密度」を観察したい場合は、「物的密度」を代わりに見れば良いという意味である。


『分業論』ではこのような位置づけであった2者は『規準』ではやや変化している。端的に言うならば、「物的密度」は「動的密度」の必要条件でもあると言い換えられている。

人口中のさまざまな部分が接近しようとする傾向にある以上、この接近を可能にする路は必然的にかれらによって切り開かれるし、他方、社会全体のへだたった人びとのあいだには、この距離が障害であることをやめるとき、すなわち事実上それが消滅するとき、はじめて諸関係がうちたてられるからである。(『規準』宮島訳224頁)


物理的に隔絶された空間では接触も交通もできないから連帯なども出来ようがないということだ。「物的密度」は「動的密度」の「表現」のみならず、「基体」でもあると解釈するのが妥当であろう。


この3つの概念は以後も保持されることになるが、やや例外として扱われるのは「家族」についてである。『規準』の中にはこのような一文が存在している。

たとえば、家族の容積が大きいか小さいかによって、また、その生活が内部に向けられる度合の大小によって、家内の生活はまったく異なったものとなろう。(宮島訳 226頁)


『規準』では、家族の容積(人数)は家族の質である「動的密度」と密接な繋がりがあると記述されている。この知見が『自殺論 (中公文庫)』の中で実際に応用されている。


該当箇所は『自殺論』第二編第三章「自己本位自殺(つづき)」で家族と自殺の関係が語られるところである。デュルケムは家族成員の規模(数)と自殺が関連していることを示す。

 自殺が少なくなるにつれて、家族の密度は規則的に増大していく。(宮島訳234頁)


ここで言う、家族の密度とは家族の成員の数なので「容積」に相当する。この「容積」が大きいと(=家族規模が大きい)と自殺は少なく、逆に「容積」が小さい(=家族規模が少ない)と自殺は多くなるという。


もちろん家族の人数によって、自殺率が変わるのではない。家族規模の大きいところでは集団凝集性が高く、その集団凝集性によって自殺が抑制されているという理路である。


集団凝集性というのは「動的密度」であるので、説明変数は「動的密度」になる。しかし、その「動的密度」は直接的に観察することが出来ないため、他の変数をもって代用する必要がある。


『分業論』『規準』では、「物的密度」は「動的密度を測定するのに役立つ」(『規準』宮島訳224頁)と書かれていたので、本来ならば「物的密度」を代用の変数とすべきである。しかし、デュルケムは次のように言う。

家族構成が実際にどうなっているかがわからなけれは、家族集団の相対的な密度を多少正確に測ることもできない。(『自殺論』宮島訳233頁)


「物的密度」を測りたいが測れない。従って、代替案として、家族の人数である「容積」で「動的密度」の尺度として採用したのである*2

家族のばあいには、集団の規模が小さく、結合している個々人はたがいに実質的に関係しあっているので、容積と密度に区別をつけることはあまり意味がない。(『自殺論』宮島訳、524頁)


デュルケムのこの言表は、指標がとれなかった言い訳やその正当化ではなく、「密度」の理論的示唆と考え合わせれば、理論的整合性をもったものになる。


家族ではなく国家規模で考えてみた場合、国家の人口(容積)と精神的密接性(動的密度)は必ずしも比例しない。なぜならば、国家の人口は多くても、互いに行き来をする交通網などが発達しておらず物理的に遮断されているならば、「動的密度」は増大しない。人口は多いが、互いに切断されており、互いが互いに独立した環節化された社会というのも想定できる。


しかし、同じ家族であるならば、物理的に遮断されているということは考えづらい。想定できるのは単身赴任をしている父親が遠くにいるという場合であろうか。しかし、単身赴任という形態が例外として考えられるので、この想定はひとまず無視をしてもよいだろう。


このように、家族の場合はひとまず「物的密度」は見る必要がないのである。従って、家族においては、成員人数である「容積」を見ることで「動的密度」を見る代用の指標としての正当性が与えられるのである。


さらに、突っ込むならば、家族内別居などの場合が想定できよう。つまり、一つ屋根の下に暮らしながらも、家族が反目しあったり、別居状態であったりする場合である。しかし、理論的に指摘できたとしてもデュルケムが当時入手できたデータで、この点を考慮することはまず無理だと考えられるので、これは指摘にとどめる必要がある。


追記:
太郎丸先生のブログによると、コリンズのデュルケム読解は物質的基盤を強調しているという。「物質的基盤」はこのエントリでは「物的密度」に対応し、マルクスの「下部構造」と言い換えることもできるだろう。また、「動的密度」はマルクスで言うと「上部構造」(の中の一つ)になると考えられる。確かに唯物論的と表現できる記述はデュルケムの著作の中に散見されるように思う。
少なくとも、(マルクス的表現で言うと)上部構造の前件(条件)として下部構造の必要性をデュルケムが認識し、そのことを繰り返し述べていたことは確認できる。ただ、それがデュルケム自身の強調点であったかどうかという点、また、下部構造を上部構造の前件だと考えていたとしても、上部構造の変化を下部構造に因果遡及できると考えていたのかという点に関しては疑問である。





*1:規則はそれ自体に拘束力はない。規則の拘束力は規則以外のものに求められるべきである。デュルケムによると、規則の拘束力を保証するのは「集団への愛着」である。なお「集団への愛着」は「集団凝集性」のことである。

*2:注意が必要なのは『自殺論』で採られている統計が「属性」に当たるものばかりであるから、デュルケムは「属性」を説明変数にして自殺を説明していると考える向きもあるが、彼の説明変数は集団凝集性の大小であるとか規制の大小であり、統計で採られる属性変数は、それらの代理変数として使われている