モース『贈与論』


社会学と人類学 (1)

社会学と人類学 (1)


復刊記念として再読。2部「贈与論」のみ。
すごすぎ。他の社会学文献より頭一つほどぬきんでてる。


今回気になったのは、次のような注の一文。

注16
マセットのハイダ族の神話(⑯四三番)は、ポトラッチを十分にしなかった老酋長の説話を伝えている.すなわち、他の者たちは、かれをもはや招待しなくなり、ために、かれは死亡する。かれの甥たちがかれの像を作り、かれの名前で一〇回もの饗宴を行なったので、かれは生き返る。マセットの他の神括(同書七二七頁)の中で、精霊がある酋長にたいしてつぎのように言う。『なんじの財産は多すぎるようだ.ポトラッチをしなければならぬわい』(ワル(wal)は分配。ポトラッチを指すワルガル(walgal)ということば参照)と。(309頁)


何を思いだしたかというと、ドゥウォーキンの『権利論』である。


権利論

権利論


ドゥウォーキンは社会を構成する原理は一義的に決定できないとする立場を取る。

原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」もの(33頁)
原理の権威や重みを「証明」することは一般的にいって不可能(33頁)


ドゥウォーキンは長い歴史のなかで蓄積され発展されてきた「適正さの感覚」が原理であると考える。この「適正さの感覚」が法の論拠になり、諸行為の正当化をするとみなしているのだ。


そして、ドゥウォーキンは今日の「適正さの感覚」は「平等」に相当し、「平等」というものは長い歴史の間に培われたものだと考える。


「平等な顧慮と尊敬への権利」(the right to equal concern and respect)という言葉は非常に有名である。


ドゥウォーキンの言うように「平等」が正当である(他の原理よりも重い)というのは根拠がない。「平等」が良いというのは説得力があるかも知れないが、「なぜ?」と問うと、途端に答えに窮する。


また、金持ちの財産を奪い取って、貧乏人に分け与えるのは、正しい行いのように思えるが、それは「財産権」の侵害以外のなにものでもない。取られる側からみると、自分で働いたお金を、他人のために奪われてしまうのである。たまらない。


従って、「平等」というものには、取られる側のたまらなさ(権利の侵害)を越える正当性(重み)がなくてはいけない。


一つは、「国家による暴力の独占」というマックス・ヴェーバーの定義にも関連するが、超越的存在としての「何か」を作り出すことによって、国民国家が成立するということが上げられる。デュルケーム的に換言するならば、国家への帰属(愛着)が権利の侵害を許容すると言い換えられよう。


社会秩序の成立要件として、「権利」というもの(ここで言うと金持ちの財産権)は侵害されなければならないのである。


もう一つが、さきほどのモースの「なんじの財産は多すぎるようだ.ポトラッチをしなければならぬわい」という箇所である。つまり、多すぎる財産はポトラッチ(贈与)をしなければ、秩序が崩壊するのである。


『贈与論』を読んで考えたのは、贈与論と平等論の間である。社会学の交換理論は秩序問題と非常に親和性があるのみならず、政治哲学とも親和性が高いのではないかもしれない。そして、さらに言うならば、上にあげた2つの説明は実はさほど変わらないのではないかということだ。社会学では「近代」(国民)国家というように「近代」を特別のものとして、他の時代と区別する。しかし、ポトラッチとヴェーバーフーコー的な国家観がよく似た原理を持つならば、社会学が問題にする「近代」とは何かという問題に立ち返らざるを得なくなる。それは、しかも、社会学よく行う再帰的なものではなく、その再帰性を否定するような形での再帰性を持ったものではないかと思うのだ。