ホモ・エコノミクス


再び『贈与論』


社会学と人類学 (1)

社会学と人類学 (1)

ごく最近になって、われわれの西欧社会は人間を≪経済的動物≫に変えてしまった。しかし、これまでのところでは、われわれのすべてがこのような存在になっているわけではない。民衆のなかでも、また、選良の間でも、純粋の非合理的な消費が日常の普通事である。それはなおわれわれの貴族特級の若干の遺風の特徴でもある。ホモ・エコノミクス(homo oecomomicus=経済人)は、われわれの過去にあるのではなく、品行方正な人、義務をつくす人、科学的に考える人、理性のある人と同じように、われわれの将来に存する。人間は久しきにわたって、まったく別個のものであった。人間が自動計算器で複雑にされた機械になったのは、それほど以前のことではない。(386-7ページ)


人間がアダム・スミスのいう「ホモ・エコノミクス」になったのはそれほど古いことではないという。『贈与論』が書かれたのは、今から100年ほど前の1902〜1903年。モースの認識では、100年前のフランスは交換秩序(『贈与論』のなかで考察されるポトラッチ)から法と市場の秩序に移行する中間地点だという。(しかし、どちらかというと、ホモ・エコノミクスに近い)


現在の日本は、モースの認識よりも、さらにホモ・エコノミクスの社会に近づいてきている気もする。「ホモ・エコノミクスであらずば、人にあらず」と言ったところか。「働かざる者食うべからず」という言葉があるが、「食うべからず」というレベルを越して、もはや「人にあらず」という人格否定にも近いレベルになっている気がする。


働かないニートが食えずに飢え死にするとしても、それは自己責任だとして放置しておけばいい。しかし、働かないとは何事か!と説教が始まる。「人にあらず」と言わんばかりに。


これはお節介おばちゃん的な感覚でなされているのではない。他者を気遣った老婆心から来たものではなく、社会の規範が破られている憤慨の感情なのだ。「ホモ・エコノミクスであらずば、人にあらず」。このような規範が破られていることに我慢がならないから、ニートや「ひきこもり」に説教が始まる。


しかし、そのような規範は普遍的なものではなく、特殊なものでローカルなものでしかない。いや、むしろ、そのような規範が逆説的に「ひきこもり」を生み出していると言うことに気づくべきなのだ。