野村佳絵子「自助グループの有効性--摂食障害の場合」

野村佳絵子,2003,
「自助グループの有効性--摂食障害の場合」
『龍谷大学社会学部紀要』(23),25〜33,

 では,摂食障害に対する社会学的考察として,どのようなアプローチが考えられるだろうか。アルコホリズムの社会学研究の第一人者である野口によると,その社会学的考察の可能性として次の4つがあげられる。すなわち,逸脱論的アプローチ(社会病理とみなす考え方それ自体を問う),医療社会学的アプローチ(どのような歴史的経緯のもとで病気とみなされるようになったのか,あるいは,いまだ病気になりきれていないのかを問う),臨床社会学的アプローチ(医療や福祉などの臨床実践に社会学の理論や知見を応用する),そして,近代社会論的アプローチ(近代と脱近代という文脈において検討する)である。


野口裕二氏のアルコホリズム研究(『アルコホリズムの社会学―アディクションと近代』)を参与して、野村氏は摂食障害社会学的アプローチには4つの可能性があるという。野口氏いう逸脱論はラベリング論が構築主義的なものだと思われるが、伝統理論で捉え直すことも可能ではないかと思う。少なくとも「ひきこもり」に関してはラベリング論・ドラマツルギー論・構築主義よりも、伝統理論の方が妥当であろうと個人的には思っている。

摂食障害の原因や誘因を自分なりに分析している者にとって,誰かと競ってこうなってしまった,あるいは,過去の自分と競って長引かせている,ということはすでに自覚済みである。それゆえ,わざわざまた競い合いの場に自ら足を踏み入れるというのは,症状を悪化させる一因になるのではないか,ということも予測できる。


非常に興味深い指摘。「痩せ願望」を男性の要望(女性は痩せていた方がよい)というものを女性側が態度取得して、そのように振る舞った結果として摂食障害は起こっているわけではない。視線や相互行為ならば「女性による女性の値踏み」の方が重要である。このことを自認しているから、同性(女性)同士の相互行為にある種の恐怖感情を持つことになるのだろう。


個人的には「ひきこもり」の自助グループは「摂食障害」より成り立ちにくいという判断をしている。もちろん「ひきこもり」の自助グループは存在しているが、摂食障害と比較すると温度差を感じざるを得ない。


自助グループは有効であると野村論文は述べている。野村論文は自助グループの「直接会うこと」の重要性を指摘している。同じ悩みを持つ人と悩みが肌で共有できるという点は何物にも代え難いものだ。また、摂食障害自助グループは「非匿名性」の方がよいのではないかと述べられている。これは、摂食行動というのは日常行為であり、1回限りの関係性よりも継続的な関係性の中で話あった方が良いからという理由による。


以下、野村氏の研究動機にあたる部分。

摂食障害者とつきあっていくにあたって,筆者は,命を落とした人,病院で闘病生活を送っている人を目の当たりにしてきた。その家族,周りで見守る人々の悲痛な叫びも開いてきた。それゆえ,やはり筆者個人の意見としては,このような形での自分探し,自分の基地作りは,できることならしてほしくない。もちろん,摂食障害を「貴重な経験だった」と振り返って言う人は多々いる。しかし,それは事後解釈。話を聞かせていただくたびに,ため息と悲しさがこみあげてくる。もちろん,摂食障害は一人一人の問題ではあるけれど,そうせざるを得ない何か,見えない力(=権力)とでもいうのだろうか。それはやはり社会全体の問題として考えないといけないのではなかろうか。


自分が「摂食障害」を通して「ひきこもり」を語ることを試みているのも同じ理由だと思う。両現象は性別が鏡の位置関係にあるとはいえ、その鏡の関係を指摘して終わりたいわけではない。現代日本の「生きづらさ」というものがジェンダーというフィルタを通ることによって、男性には「ひきこもり」という現れ方で、女性には「摂食障害」という現れ方をしていると捉えたいのである。