鈴木啓嗣「不登校やひきこもりへの援助(1)社会参加をめぐって」

鈴木啓嗣,
「不登校やひきこもりへの援助(1)社会参加をめぐって−−子どものための小さな援助論(9)」
『こころの科学』132〜138,2004/7.


未読の鈴木啓嗣の連載が資料の中から出てきたので読んだ。非常に示唆に富む内容だ。

私たちは当たり前のように「社会参加をしている」だの「していない」だのと使っているけれど、「社会参加」ということばの勢いにのせられて、知らないうちにある特殊な「社会」の意味だけをもって社会として代表させてしまってはいないだろうか。「社会参加」の意味する「社会」について考えることには、十分な意義があるはずである。


「社会参加」と呼ばれてるものは非常に狭い範囲のものなのだという指摘。
その通りだと思う。

人々が「社会参加」と言ってるものは、おそらく「会社参加」でしかない。「会社」では有能だが、プライベートでは挨拶ひとつできない男性は非常に多くいる。彼らは「会社」に適応しているだけであって、環境が少し違えば、たちまち適応できなくなるのは目に見えている。

 不登校やひきこもりにかかわろうとするとき、どこか息苦しい想いを感じるとしたら、あるいは痛々しいものを感じるとしたら、それは限られた範囲の社会参加というものに無理やり自分たちをはめこむ落とし穴に入り込んだためではなかろうか。彼らへの手助けを考えるとき、社会活動の目安として私たちが現在使っているような意味での「社会参加」がふさわしいとは筆者には思えない。


社会の多様性を明確に示すことが一つの解決策になるか。


追記:
「会社参加」のネタはもう書いてるよと指摘のメールが。

ダジャレみたいですが、「”カイシャ参加”は、必ずしも”社会参加”ではない」。世の多くのお父さん方にも当てはまる話だと思います。これを言われて、私は「自分がいやがっていたのは、”社会参加”ではなくて”カイシャ参加”ではなかったろうか」と思いました。(上山和樹ISBN:4062110725:』184頁)


ほんとだ。確かにガイシュツだ。