斎藤環「ひきこもり現象と他者性の介在」

斎藤環,2004,
「ひきこもり現象と他者性の介在」
『現代のエスプリ』(445),32〜44.

 川上らの調査において、「ひきこもり」経験を持つ九人が現在はその状況を脱していることは、ひきこもり事例のすべてが長期化するわけではないことを示しており、その意味では希望もある。


抜け出した例ばかり見ている自分にとっては当たり前のことのように感じられる。ただし、抜け出した人がいたとしても、自力脱出してきた人が抜け出した人の大半であったとしても、支援が不必要性であるとか、待てばすべてのケースが解決するという根拠にはならない。長期化する人、自力脱出が出来ない人がいつづける限りは、支援は必要である。

「真の対象」が存在せず、すべてが鏡像となる空間では、ひとは原始的な自己愛にしがみつくほかはない。ひきこもり事例がしばしば陥る万能感はそこに起因し、そこから時に誇大な言動が派生することもあり得る。

万能感は、無力感にさいなまれながら、日々を無為に過ごす人にも存在する感覚である。むしろひきこもり事例では、こちらのケースのほうが多いかも知れない。さきほども述べた通り、万能感と空虚感は、双子のような存在なのだから。


他者との社会的関係が切断されてしまっている状態では、参照対象がなく、自身を評価することが出来ない。クーリーの「鏡に映った自己」が無い状態であるため、自己評価が正確ではなく、他の人から見ると「万能感」を抱いているように見えることがある。


しかし、このような「万能感」は参照不在が原因となるので、その根拠はない。従って、無力感も同時に発症するのである。

それゆえ筆者のひきこもり治療の目標が、最終的には「親密な仲間関係の獲得」であると述べても、もはやそれは奇異には響かないだろう。つまり、就労や就学がゴール、ではないのだ。それがしたいものには協力するが、積極的には勧めない。なぜならそれらは、治療ではなく趣味の問題でしかないからだ。


就労は「趣味の問題」発言の該当箇所。



参考まで以下引用。

本人がどのような自堕落な生活をしていようと、それを責める権利は「他人」にはない。
ひきこもりの青年達は、世間的価値観からは最も批判されやすい存在であるだけに、この当たり前の節度こそが、厳格に守られる必要がある。訪問活動がたとえ親からの懇請によるボランティア的なものであろうとも、「お節介にも訪問させていただいている」という謙虚さは、けっして忘れるべきではない。

強引に長時間会うことよりも、むしろごく短時間(おそらく数分間でよい)、繰り返し「会いに来る」(実際に会う必要はない)ことのほうが、有効な「他者」たりうるのではないか。