渡辺健「ひきこもりと訪問カウンセリング」

渡辺健,2004,
「ひきこもりと訪問カウンセリング」
『現代のエスプリ』(445),45〜51.

 訪問と心理的援助について歴史を撮り返ると、宗教家を思い浮かべる人は少なくない。筆者自身ここ十数年訪問の道すがら、さまざまな現代の辻説法に出会った。何か自分が鎌倉時代にタイムスリップでもしたかのような錯覚さえ覚えた。


宗教的で道徳的な説教をすれば「怠け」は直る(治るにあらず)系というのは、良くありがち*1

場面で取り扱ったのは、確か一九八九年だったと思う。当時はまだ不登校と言えば「待ちましょう」が大方のコンセンサスであり、親自身もその言葉を頼りにした。しかし「黙り続けること」と「汲み取ること」の差異には気付かないままだったように思える。こうした親が「待てなくなった!」理由にはいくつか原因が考えられる。


基本は「待つ」だが、「待つ」ですべてが解決するわけではないというのは、ひきこもり支援の常識。これは不登校支援との対立点でもある。


対立の理由は、互いに見ている当事者像が異なるということからきている。
フリースクール適応指導教室に通うのは不登校児童の1割強。その他の児童はフリースクールなどには通わない。フリースクールの支援者は全体の1割の子どもたちを見ていて、彼らが不登校児童だと認識している。


フリースクールに通う児童は、たとえ以前に閉じ籠もり状態になっていたとしても、今はフリースクールなどにつながっている。だから、フリースクールにいて支援を行っていると、待てばフリースクールをはじめいろいろな所に子どもたちはつながっていくように見える。


ただ、これはあくまでもフリースクールにいてその中で支援している時に見える風景である。


不登校児童の2割はその後ひきこもりかそれに近い状態になることが調査*2から判明している。彼らは、フリースクールには行かない人たちであったり、行ったけども馴染めなかった人たちである。


ひきこもり支援団体というのは、そのような人たち(フリースクール適応指導教室にも馴染めず、自力社会参加もできなかった人たち)に日々接している。「待つ」で解決しなかった人たちに接していると、「待つ」という対処法の限界が見えてくるのである。


「待つ」をめぐってひきこもり業界と不登校業界が対立をしてしまうのは、どちらかがウソを言っているのではなく、互いに自身が認識し、考えて導き出した最適解を主張するからだ。「見ている「不登校」が違う」ために認識も、対処法も違ってくる。ここに対立の原因があると思われる。


以下はひきこもり訪問活動における留意点である。

  1. 対象者全てに「ひきこもり」というネーミングが受け入れられているわけではない。ラベリング(レッテル貼り)への配慮に欠けると、アプローチは「あばき」になる。
  2. 「……療法」にはデリケートであり、専門用語の多用は禁物。
  3. 情報不足により初回の訪問で重篤な精神症状に出会う可能性は否定できない。つまり後方支援(精神医療)の確保は必須。
  4. 臨床環境は即住環境であり、対象者と家族の「恥」をさらす可能性がある。「出で立ち」に配慮が欠けると、「ものものしい来訪者」となる危険性がある。
  5. 訪問カウンセリングの 「倫理基準」は未確定であるが、自らそのモラルについて考え続けることが、現在のモラルと考える。「玄人のような素人」ではなく、「分からないことに向き合える素直な玄人」であるべきであろう。


その他、この論文には当事者に使うと拒絶感の出る言葉や使うと橋渡しになる言葉などがリストアップされている。