高塚雄介「青少年における「ひきこもり」の心理と「切れる」心理に関する考察」

高塚雄介,2001,
「青少年における「ひきこもり」の心理と「切れる」心理に関する考察」
吉川武彦『厚生科学研究費補助金(特別研究事業)分担研究報告書
 社会的問題行動を起こす新たな精神病理に関する研究 平成12年度総穂・分担研究報告書』


「ひきこもり」と「キレる」の関連性について述べた論文。科研の報告書より。

 「切れる」心理を解明する上で注目しておかなければならないのが、いわゆる「ひきこもり」を呈する青少年の増加である。教育相談・学生相談事病院における心理鯨床などの現場から見ると、「ひきこもりj の心的状態と「切れる」心的状態とは裏表の心理として感じられることが少なくない。両者に共通するのは、対人関係に困難と偏りを示す者が少なくないという点である。


この視点は臨床での体験に基づいている。

ひきこもる人達とのカウンセリングを続けていくと、彼らの心の中には何らかの怒りにも似た感情が存在しており、周囲に対する反発や抗議の意思が隠れ潜んでいることを感じさせられることが少なくない。


一方で自信のなさを示しているように見えながら、他方で激しい攻撃性が潜伏しているように感じられるのが、ひきこもる人達に多く見られる臨床像である。実はこの相反するように見える心の動きこそが「ひきこもり」の重要な点であると筆者は認識をしている。一見すると生きるための闘う意欲を喪失して現実から逃避しているかのように見える「ひきこもり」の裏側には、実は激しい紛争心が渦巻いており、真に出る機会を覗っていると考えられることが少なくない。


 「ひきこもり」の状態にある人間の内的世界には、表に出ないはずの怒りの感情であるとか憎悪的感情が堆積しており、それが外に向かわずに、内なる世界にとどまっている状態にあることが推測される。その内的世界に堆積したものが、何らかのきっかけにより外に向かって引き出された時は、身近な組織や人に対する激しい敵意を伴う攻撃性となって吐き出されていく。
 そうなると、いわゆる「切れる」状態になることになる。つまり、「ひきこもり」をもたらす心の動きと「切れる」心の動きとは実は表裏一体の関係にあると見てさしつかえない。「ひきこもる」人というのは、何時「切れる」伏態になってもおかしくないことになるし、逆に「切れる」人というのは「ひきこもり」になってもおかしくないということになる。


「ひきこもり」には「攻撃性」がある場合がある。これは間違いない。家庭内暴力も頻発することがある。
ただ、この場合、精神医学的な視点に限ってだが、「対人恐怖症」と呼称した方がしっくりくる気がする。ようするに「ひきこもり」の固有の問題は何かという問いに対して、高塚は「キレる」という行動に結びつく「潜在的攻撃性」を見たが、自分はそれを固有の問題とは考えない。

 「ひきこもり}の様相を呈する人が限られた空間にとどまろうとするならば、それは閉じこもり状態にあると解釈できるが、必ずしもそうした状態にはならず、日常的な生活を保持しつつも、他者との関わりを避けようとする者もある。生きるために必要とさわる最小限の行動は維持出来るのだが、きわめて自閉的・自己完結的に行動しようとする。それもまた心理的な「ひきこもり」として分類しておくことが必要と考えられる。


「ひきこもり」までには至っていなくても、心理的な「ひきこもり」は存在するという指摘。それはそうなんだろうし、だからこそ「ひきこもり」という言葉は根強く残るのではないかと思う。

 このように見ていくと、従来「ひきこもり」を見せる若者たちに対する見方として強かった、甘やかされて過保護に育てられた結果、白分で考え主体的に行動することができなくなってしまった人間が陥りやすいとか、耐性力の育っていない弱い人間がひきこもりやすいといった捉え方は根本的に間遠っていると考えざるをえない。


この考えには賛同できる。「甘え」で「ひきこもり」になった人は個人的には見たことがない。出会うのは規範的な人ばかり。


ただ、以下の2点に関しては支持できない。

 最近しばしば言われる「生きる力」とは、筆者の考えでは自律能力ということにつきる。あらゆる知識や技術の習得はその後に磨かれるべきものである。「生きる力」=「自律能力」を育むことをおろそかにし、知識や技術を詰め込むことを重視してきたのが、この数十年間の日本の教育であったのではなかったのか。

幼い頃から心の中にわいた不安を、これまで信頼出来る大人によって解消してもらったという体験がない分、あらためて誰かに相談することが出来ない。そうすることは主体性のないことだから良くないという否定の感覚のみが強く刷り込まれている。そこには他人に頻らないというきわめて「自己完結的」な世界が肥大化していくことになる。


心理学は何か不都合が起きると生育歴やアタッチメントの失敗に結びつける作法を持っている傾向があるが、社会学はそのような作法を取らない。むしろ、大事に育てるだとか、信頼出来る大人とか、江戸期や明治期にはそんな育て方をしなくても、ひきこもりにはならなかったはずだということを社会学者ならばおそらく指摘するだろう。高塚は「例えば子どもが抱っこして欲しい思っているのに、泣けばただ哺乳瓶をくわえさせることしかしなければ、子どもは不満しか残らない。そうした微妙なズレが子どもの心に他者への不信感を醸成させることになっていく。信頼感を前提とする対象関係がもろくなっていく背景がそこにはある。」というが、子供がぐずってほいほいと親が駆けつけることが出来る世の中になってから、むしろ、不登校やひきこもりが増え始めたのではないかと思う。もちろん、甘やかしているから「ひきこもり」になるという因果関係を主張したいわけではなく、関係がないということを言いたいのである。江戸期や明治期の子育ては結構適当だったのだから。

研究要旨

 近年、思春期かち青年期における青少年の呈する間接行動の背後に潜む心理状態として、解明を待たわるものが、「ひきこもり」と「切わる」と呼ばれる心理メカニズムであろう。両者に共通するのは、人間関係に対する不安や怯え、不信感を抱えている者が少なくないという点である。本研究は双方の心理株制は重なるものであるとの認識のもとに、以下の五つの仮説を設定し、その背景を類推した。

 ①自立社会二自己強化型社会がもたらす病理
 ②子育ての歪みからもたらされる対象関係のもろさ
 ③親世代の意識変化による影響
 ④ギャング・エイジ集団の喪失による発達課超の未習状態
 ⑤学校社会における競争原理の強化
  今後この仮説に基づく事例収隻とさらなる分析を進めていきたい。