ギデンズ「身体−摂食、病気、高齢化」


アンソニー・ギデンズ社会学』第6章「身体−摂食、病気、高齢化」より


社会学

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 「テクノロジ」という用語を、ここではあまり狭く理解すべきではない。テクノロジーとは、その最も基本的意味合いにおいて、近代医学に内包されるーたとえば、出産にさきだって医師が胎児の発育具合を示すことができるスキャナー装置のような−−物質的テクノロジーを指している。しかし、また、ミシェル,フーコーが、身体に影響を及ぼす「社会的テクノロジー」と名付けるものについても、考慮する必要がある(Foucault 1988)。フーコーは、この社会的テクノロジーという表現によって、身体が、たんに受け取るだけのものではなく、むしろ次第に「創準する必要があるものになっている点を指摘しようとした。社会的テクノロジーとは、われわれが自分の身体を特定の仕方で変えるために身体の機能にたいしておこなう、あらゆる種類の定期的介入である。一例が、拒食症の中心的要素となるダイエットである。


拒食症に対する言及。ギデンズの著書には量はさほどおおくないが、数多くの摂食障害への言及がある。その一つ。
身体へのコントロールの話。フーコーを参照していることからも分かるように、これは規律訓練との関連で論じられている。つまり、権力という言葉を使うかは別にして、近代における秩序構築の方法論であった「規律訓練」と、その方法が立ちゆかなくなった現在を比較した上で、現代においては、規律訓練が破綻を来しており、その端的で象徴的な例として「摂食障害」は取り上げられる。

 この数年間、英国等の先進社会では、ほとんど《誰も》がダイエットをおこなってきた。このことは、誰もが必死になって痩せようとしているという意味ではない。むしろ、すべての食べ物をはとんどいつでも入手できるときになってはじめて、われわれは、何を食べるべきかを《決める》−−「ダイエット」がわれわれの決まって消費する食べ物を意味しているとすれば、献立を組み立てる−−必要性に迫られている。


選択とは自由と関連した言葉である。
「自分で選択ができる」という言葉はバーリンでいうところの「積極的自由」に相当する。ただ、これは、自由とは名ばかりの「不自由」を生み出すものでもある。自由であるということはなんと不自由なことであるのか。自由のもたらす皮肉な結論である。

 現在生じているのは、社会学者が自然の社会化と名付けるものの一部である。自然の社会化という表現は、かつて「自然な」現象が、つまり、自然のなかで付与されていた現象が、いまでは社会的−−われわれ白身の社会的決定に左右される−−現象になってきたことを指している。


マルクス的な分け方をすると、今までは下部構造的な決定があったが、現在では、上部構造的な決定に任されてしまっているということになる。フーコーの仕事というのは、ネグリなどが述べているように、マックス・ヴェーバーの延長線上にある。つまり、ヴェーバーは上部構造(プロテスタンティズムの倫理)が下部構造(資本主義経済)への起動因となったというものであり*1フーコーの権力論も基本的には同じロジックを採っている。


社会学理論で摂食障害を扱う場合には、このようなヴェーバーフーコー=ギデンズの議論の流れを踏襲するものが多い。



以下は、この章から、摂食障害以外に興味深かったところの引用。

 ジュイク。ナジマンは、近年、健康と経済的不平等との関連件を実証する研究をおこなってきた。ナジマンはまた、社会の貧困層の健康状態を改善するための最善の方策にどのようなものがあるかについても検討している。数多くのさまざまな国のデータを分析した結果、所得水準で見た場合、全体の二割に当たる最貧層の死亡率が、全体の二割に当たる最富裕層層の死亡率の一・五倍から二・五倍に及んでいる、とナジマンは結論づけた。この差は、小さくなるどころか、むしろ拡大しはじめている。同じことは、平均余命−−その人が出生時に何歳まで生きることを期待できるか−−にも当てはまる。


保健サーヴィスを受けやすくすることは助力になるが、その成果はおそらく限られている。富裕層と貧困層の所得格差を減らすための真に有効な政策上の選択肢だけが、貧困そのものを攻撃できる、とナジマンは論じている(Najiman 1993)。


健康格差社会

*1:上部構造「のみ」の決定ではない