最低賃金の引き上げによって格差は縮まらない


JMM村上龍、金融経済の専門家たちに聞く』【メール編:第408回】より。「経済格差」についての質問に対する土居丈朗(慶應義塾大学経済学部助教授)の回答。

 政府・地方自治体の支出によって、「経済格差」を解消すべきかどうかについては、当然ながら、財政の機能の1つとして所得再分配機能がありますから、政府・地方自治体の支出によって格差是正が期待されるところではあります。


 しかし、実際に、政府がうまく格差是正に成功するか否かは自明ではありません。経済学で有名な例として、最低賃金制があります。一見すると、最低賃金制は、賃金の下限を定めて、働いている人が不当に安価に雇われないようにし、所得格差を是正するしくみと見えます。しかし、経済学的に見れば、最低賃金制がもうけられることによって、最低賃金以下しか労働の限界生産性がない人は、ほとんど雇われなくなってしまって、所得を稼ぐ機会が奪われてしまい、かえって所得格差を助長する可能性が高いということなのです。政府が、こうした経済学的な論理を完全に無視して、最低賃金を引上げて格差を是正できると思いきや、実はかえって格差は拡大しかねない(旧来の最低賃金以上で引き上げ後の最低賃金以下に相当する労働の限界生産性しかない労働者は、最低賃金が引上げられることによって早晩就業機会を失ってほとんど所得がなくなり、結局所得格差が拡大する)のです。
−−土居丈朗(慶應義塾大学経済学部助教授)


上記は、最低賃金をめぐっての経済学的見解だ。最低賃金の引き上げによって格差は縮まらないというものである。


「ひきこもり」「ニート」問題の周辺では、最低賃金は非常に重要な問題となる。なぜならば、「ひきこもり」の当事者性の高い経験者にいわゆる「労働」は難しいからである。昨年の1月に中国新聞に次のような記事が掲載されていた。

引きこもりがちな青年の就労を支援する東広島市の「翼の会」の取り組みが実を結んできた。スタートして一年半、これまでに九人を受け入れ、うち四人が自立の道を歩み始めた。仕事に就かず学校にも行かない「ニート」が社会問題化する中、会の活動は解決に向けたヒントを与えてくれる。(治徳貴子)

 同市高屋町杵原の高屋福祉センターにある三十五平方メートルの一室。三十歳代の男性二人が、市内の車の部品工場から請け負った部品の不要物をニッパーで取り除く作業を黙々と五時間こなす。翼の会が毎週月、木曜の午前九時から開く「仕事体験講座」だ。

工賃は一個一円。一人が一日に仕上げるのは約六百個という。「一カ月でわずか四、五千円。ただ、収入よりも一つの作業を根気強く長く続けることを学ぶのが狙い」。指導する妹尾敏昭さん(71)は説明する。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200601300004.html (リンク切れ)


これに対して上山和樹氏は次のように述べていた。

ひきこもり的心性においては、「自分の存在がかけてしまうかもしれない迷惑」が極大の不安になっている。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20060429#p2


「ひきこもり」の当事者性の高い経験者に「常識的」な労働の効率性を求めることはできない。労働市場では「使えない人」であることが多いのだ。本人もそのことを分かっている場合には、平均賃金などもらってしまうと、上山氏の言うように「自分の存在がかけてしまうかもしれない迷惑」が極大の不安となって本人に覆い被さってしまう。


「ひきこもり」は長期化していくと、社会復帰は「働く」ということと同義になっていく。しかし、ひきこもり状態から復帰したとしても、社会階層でいうと、上位に食い込む確率は低い。大体の場合は下位の階層になるだろう。なぜならば、不登校からの移行グループであれば学歴と職歴が欠損している場合が多いし、就労からのひきこもりであったとしても、キャリアの欠如の問題がある。


「ひきこもり」の当事者性が薄まって、最低賃金周辺の労働に耐えられるようになったとして、そこからさらなる上昇を目指すということも、あまり望めないことが多い。学歴の欠損、キャリアの欠損が原因で最低賃金周辺で就労をし続けることは珍しくない。
そうした時に、最低賃金の引き上げをしてしまうと、「ひきこもり」の当事者性の高い経験者はその労働力を買ってもらえないという事態が起こってくるのである。


ひきこもり問題が労働問題であるとするならば、そこで問題となっているのは、旧来の労働争議や労働問題が行っていた賃上げや最低賃金の引き上げではない。もし、「ひきこもり」を階級問題として定義して、旧来の階級闘争を行うと自分で自分の首を絞める結果になる。


上記のひきこもり支援団体で行われている労働の工賃は1個1円で、月給が4〜5千円になるとある。これは労働基準法に違反するかのように見える。しかし、このような労働環境でなければ労働力を提供することが出来ない者もいて、労働基準法が徹底されたり、最低賃金が引き上げられたりすると、その人の労働力そのものが全く買ってもらえないという状態になるのである。


結果として、格差を是正するための法整備が新たな格差を生み出すことになる。労働基準法の徹底と最低賃金の引き上げは、ひきこもり状態からの社会参加のハードルをさらに高くし、一回落ちたら、そのまま落ち続けなければならない現状がさらに強化される皮肉な結果になるのである。