こんな子どもが親を殺す


こんな子どもが親を殺す (文春新書)

こんな子どもが親を殺す (文春新書)

 だが、世の中に「自己の開花」「自己実現」「自分らしさ」をすべて求めることが許されるような仕事がどれだけあるだろうか? たぐいまれな天賦の才に恵まれた人々やごく一部の特権階級を除けば、多くの人々は、「自分らしさ」をある程度犠牲にしながらも、少しばかりの「自己実現」をめざして、日々の仕事をこなしているのではないか。それを受け入れられず、「自己の開花」「自己実現」「自分らしさ」などを求めすぎた若者が行き着く先がひきこもりであるように思われる。そして、その根底には、「すべて可能である」という自己愛的万能感を助長するような幻想が潜んでいるのである。
 このように、ひきこもりの若者は、自己愛的万能感からなかなか抜け出せずにいるのであるが、それを助長しているのが日本の社会、教育、家族のシステムである。さらに、彼らは、インターネット、テレビゲーム、ビデオなどの仮想現実に没頭することによって、他者が介在しない「自分中心」の世界に閉じこもり、自己愛的万能感を際限なく肥大させていく。


この著者は臨床で「ひきこもり」と接触していると書いているが、果たして本当なのだろうか。もし接しているなら、いったいそこで何をどう見れば、このようなことが書けるのだろうか。不思議でならない。


ひきこもりの当事者や経験者たちは、学校に行けないこと、働けないこと、人並みの人生を送れていないことに焦り、自身を責め続けている。「すべて可能である」のではない。まったく逆である。「学校にさえ行けない」「バイトさえできない」「外出さえできない」ということに彼らは悩んでいるのである。


繰り返すが、ひきこもりの当事者や経験者たちは万能感をもって誇大妄想をしているのではない。彼らが悩んでいることは、学校に行くことや、バイトをすることや、外出をするといった、ごくごく「普通」のことが「できない」ということなのである。


著者の言っていることは「こんな我慢しているんだから我慢しろ」というようなことに読める。確かに学校に行くことや働くことは「普通」のことだから、出来ない人たちは、我慢が足りず、誇大妄想にうつつを抜かしているように見えるかもしれない。しかし、学校に行けない不登校の子どもたちは、もしできるならば、学校に行きたいのである。無理して行こうと思うと、身体が動かない、下痢や頭痛が起こり身体が拒否をし始める。「普通」のことだからといって、すべての人たちが出来るわけではないのだ。みんなが出来ることであっても、出来ないこともある。我慢できることもあれば我慢が出来ないこともある。「学校にさえ行けない」「バイトさえできない」「外出さえできない」と悩む「ひきこもり」の当事者や経験者に「自分らしさを犠牲にしろ」と言うのは、彼らを理解しようという人の言うことではない。


この本は『こんな子どもが親を殺す』と題されている。我慢できない子どもが、誇大妄想を持って、どんづまって、親を殺す、と言う流れで話は進む。「ひきこもり」を理解しようとしないばかりか、犯罪者のレッテルまで貼り始める。このような結論ありきの妄想を書く前に、「ひきこもり」になった人の話を少し聞いてみてはどうなのだろうか。