斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート


上山和樹氏による、大阪大学で行われた斎藤環氏の講演イベントのレポート。このイベントには、井出も参加させていただいた。


発達障害についての質問に対する斎藤氏の答え。

私はひきこもりの中に発達障害の人はほとんど見たことがなくて、むしろ発達障害という診断名が濫用されていないかなという懸念のほうが強いです。 というのは、発達障害という診断がいちばん下されているのは、私の印象では学校現場なんですね。 学校の先生が「診断」という役割を担いすぎているという傾向があって、それを聞いて安心感を得る母親というのもいる。 「共犯関係」というと失礼だけれど、過剰に診断されている可能性がかなり高い。 たとえば自治体によっては、そういう診断を一部の精神科医が握っていて、その精神科医がたまたま発達障害に関心の高い人であったために、不登校である人が全員「発達障害」と診断されてしまうというようなとんでもない事態も現に起こっているからです。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070318#p1


発達障害をどのように捉えていくかということは「ひきこもり」問題を考える上で重要なことである。80年代に起こった医療化とその失敗の教訓を生かす形で取り扱っていかなければ、いつか見たあの風景がまた甦るのではないだろうか。


上山和樹氏(id:ueyamakzk)の質問に対する斎藤氏の答え。

 あるいは、欲望がないというふうにかなり実体化させられてしまった主体といえるかもしれない。 通常、欲望のコンテクストに参加している主体というのは、常に自分が自分であることを意識しながら生きているわけではない。 自分の主体性をいちばん強烈に認識するのは、「自分は不完全だ」「欠けたものがある」ということを意識する主体だが、――ひきこもりの主体は、自己放下していいはずのところで過度に「自己という実体」に縛られすぎるゆえに、流れに合流しそびれ続けてしまうのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070318#p2


このあたり、非常に重要なところである。外に出なければ、人と接することもなく、交通事故に遭うこともなく安全である。「ひきこもり」は安全な状態だと言える。ところが、そのような安全な状態を何年も続けていると、社会に出ようと思っても出られないという事態に陥る。「安全」を優先したことによって、極めて「危険」な状態が現れるのである。「自己」についても同じことが言え、自宅にいて社会参加しなければ、自己は揺るがず安全な状態で居続けられる。しかし、そのことが、自己そのものを危機にさらすことになるのである。