ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法


ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチのすべて

ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチのすべて


出たそうです。

最新の成果を盛り込んだ改良版M-GTA、理解しやすさに配慮した入門編の決定版。
分析の手順と技法、考え方を、分析例を交えた講義スタイルで解説。


以前に書かれた本(例えばISBN:4335550898)より、さらに読みやすくなっているようだ。
この方法の欠点は言っている人が少ないような気がするので2点だけ。


第1にグラウンデッド・セオリーは過程において、概念をカテゴライズして上位概念に統合していく特質を持っている。これがこの方法の良いところでもあるのだが、方法が統合する手順を踏むからと言って、実態が統合しやすい形で存在しているとは限らない。方法の前提となっているものが実態にそぐわないことがしばしばある。グラウンデッド・セオリーはあくまでも一つの方法であって万能ではない。最近流行ってるぽいからとか、指導教官の方針であるとか、グラウンデッド・セオリーは最も科学的だという宣伝文句(この方法だけが科学的方法ではない)に踊らされずに、実態に合わせた方法をとることが必要であると思う。


第2にグラウンデッド・セオリーの基本的な作業はカテゴライズ(分類)であるので、出来ることは「記述」に属する。実態を分類して、把握するところにその目的がある。したがって、必然的にグラウンデッド・セオリーは因果律を含まない。グラウンデッド・セオリーは「記述」の過程を事後的・遡及的に見ることができるので、「記述」の確からしさを示すことは出来るが、原因と結果の関係=「説明」に関しては確からしさを保証しない。結局の所、グラウンデッド・セオリーは「記述」と「解釈」を積み重ねることになるが、狭義の社会学とは「説明」を行う学問であるため、実は狭義の社会学とそれほど親和性がある方法ではない。おそらく、社会学者が提唱者であったにもかかわらず、社会学ではいまだにマイナーな位置にある原因はここにある。


理論的にはグラウンデッド・セオリーからは2つの論文のタイプが生まれる。一つは「記述」と「解釈」を「説明」と誤解する論文。これは学術としては問題がある。もう一つは、「説明」を捨てた「記述」と「解釈」の論文である。「説明」を捨てるため、ミクロな状況の把握や記述に徹するものになる。個人的に読んだグラウンデッド・セオリーを用いた論文は後者のものだったと思う。ミクロな状況を記述することには秀でるが、「理論」と結びつけることが非常に難しくなる。グラウンデッド・セオリーには「理論」*1に結びつけるのが難しいのは、そもそも方法が「記述」の確からしさを保証するものであって、「理論」を作り出す原理を含んだものではないからである。


グラウンデッド・セオリーが最終的には理論化を目指し、理論化のために必要であるプロセスを提供しているとしても、グラウンデッド・セオリーが理論を作り出す訳ではない。


結論としては、グラウンデッド・セオリーは発見原理として使うのはあまり懸命ではないということになる。グラウンデッド・セオリー関係の本を読んでいると、この方法さえ使えば後は自動的に論文ができあがるという大船に乗った気分になってくる*2。しかし、根本的にグラウンデッド・セオリーは新しい理論を発見するものではないので、グラウンデッド・セオリー・アプローチを行えさえすれば何かが分かるというわけではない。この方法をとる前に、「自分は何がしたいのか?」という質的調査一般で行う目的設定と、「現象の因果関係はこのようなものではないのだろうか?」という因果的な現象の観察が必要である。


このような目的設定と因果的な観察視点を持たずに、グラウンデッド・セオリー・アプローチを実施したとしても、出てくるものは「当たり前のこと」にならざるを得ない。見たものをそのまま記述したものは「当たり前」を越えるものにはならないからである。もちろん、「当たり前のこと」をアカデミックな世界に情報として持ち込んでくるのは重要なことであり、このことが意味がないと言っているのではなく、その持ち込んだ後に新しい展開(情報収集者以上の作業)をする「壁」がグラウンデッド・セオリーには宿命的に組み込まれているのである。ミクロで起こっていることを上手く記述してその確からしさ保証はできるが、その後には「理論化」という「壁」がある。これはグラウンデッド・セオリーではどうにもならないものである。


「グラウンデッド・セオリーは理論化を目指す」というスローガンの後ろに、理論化はグラウンデッド・セオリーが本質的に含んでいる原理ではないことや、理論化の前に「壁」があることが隠れてしまっているのではないだろうか。また、加えて言うならば、様々な概念を統合していったとしても、複合性が存在するのには変わりなく、そこから「理論」を作り出すのが本当に可能なのか個人的には判断がつかないし、少なくとも自分の能力をはるかに超えることであることは言える。


ヴェーバープロテスタントの中からプロテスタンティズムの倫理、資本主義の中から資本主義の精神をという単一性質を抜き出し、その間での因果帰属をした。これは、単一性質に注目する「理念型」と付随する理論化のプロセスだが、このようなシンプルさがなければ、少なくとも個人的には理論化という作業は完遂できた試しがない。ヴェーバーは最終的にはキリスト教と資本主義の関係を論じることを企画したが、人生でその企画を終えることは出来なかった*3。資本主義という大きなテーマであったから、ヴェーバーの能力をもってしても寿命が尽きる前に研究が終えられなかったということだろう。このヴェーバーの研究途上での死というものは、単一性質に注目したとしても、理論化というのはそうそう生易しい作業ではないということの証左だと個人的には思っている。グラウンデッド・セオリーは単一性質ではなく、概念を統合していき複合的な概念群の下で理論化を行おうとする。変数が概念の数と対照群の数だけ増えるため、検討すべき変数は指数的に増加する。従って、難易度や研究に必要な時間・リソースも指数的に跳ね上がる。グラウンデッド・セオリーの理論化が、理念的には可能であったとしても、果たしてそんなことが現実的に出来るのかは疑問の余地があるところである。少なくとも、自身の能力を超えたことであることは確かであるし、テーマいかんによってはヴェーバーの能力も超えた能力を要求するものであるので、個人的にはグラウンデッド・セオリー・アプローチは行わないことにしている。グラウンデッド・セオリーが理論化を目指していたしても、自身の能力では目指すだけで、完遂できないことは目に見えている。この方法は、理論化能力が天才的に高い人のみが行うべきだと個人的には判断している。自分のような凡才がやったところで、理論化の前の壁で立ちすくみ、一生を終えることはおそらく間違いないことである。


社会学限定で考えているので他の分野では理論との結合や理論的展開が不必要であったりとか、医療系や心理学ではミクロな相互行為での理論があるはずなので、上記のような問題は生まれてこないのかもしれない。従って、グラウンデッド・セオリーの問題点として書いた上記の文章は、社会学で考えた時のことである*4


また、グラウンデッド・セオリーの欠点だけを書いたので、批判をしている文章になっているかもしれないが、基本的にはグラウンデッド・セオリーの方向性を支持しており、適切な場所で適切な使い方をすれば非常に有用な方法であると考えている。つまり、グラウンデッド・セオリーの欠点を知った上で、適切な場所で適切な使い方をできることが、グラウンデッド・セオリーを使う上での前提であり、それがグラウンデッド・セオリーを支持することなのだろうということである。そういったことから、個人的にはグラウンデッド・セオリーの特性や有用性と同じ分量の欠点と限界と失敗例の記述が入門書にあれば良いのにと思っている。

*1:ここでいう「理論」とは「説明」を含んだもの。「説明」を含まないものが「理論」になるのは個人的には支持できないし、そのような認識は間違いである。それはわざわざ「理論」と呼ぶ必要のないものである

*2:あくまでも個人的な感想としてそう感じることが多い

*3:因果連関での証明までは完遂していないと個人的には解釈している

*4:他の分野のこと語れるほど他の分野の知識があるわけではない