井出草平の研究ノート

ウルリッヒ・ベック『危険社会』


危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)


読書会関係で読む。
この本は、解説によると次のような時代に書かれたものであるようだ。

旧西ドイツで一九六〇年代末期から芽を出していた住民運動が、一九七二年の石油危機を受けて一九七〇年代半ばには環境問題ことに原子力発電所建設問題に目を向けるようになった。そして、反原発運動やエコロジー文化(サブカルチャーとして展開していく。それの政治的表現である「緑の党」の全国組織結成と国会進出が一九八〇年前後である。この緑の党の急成警の相互影響の中で急激な広がり見せた平和運動が、西ドイツに配備されていた核ミサイルの配備の「危険」を問題にするようになる。
 このような情勢の中で、一九八六年四月二十六日に世界中を震撼させたチェルノブイリ原発事故が発生し、ヨーロッパを放射能の雨が襲ったのである。原著がドイツで出版されたのは、まさにこの一九八六年であった。


第1部はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(ISBN:4105197037)に非常によく似ている。科学によって起こった事態は科学によって乗り越えるべきであるという主張も類似している。


沈黙の春』というとDDTの有害性を指摘した書物として有名である。『沈黙の春』は害虫駆除のために農薬散布したことによって、その農薬が食物連鎖をたどって生態系全体を破壊し、沈黙をもたらすという話である。レイチェル・カーソンの指摘したDDTが有害性であるという説は科学的根拠が薄い。DDTは自然界で分解され、沈黙は起きないことは判明しているし、発ガン性もない。基本的にはデタラメの啓蒙だったわけだが、レイチェル・カーソンはいまだに環境活動の英雄的地位にとどまっている。


問題なのはDDTの有害性の指摘がただデタラメであったわけではなく、有害な告発であったことが分かっていることだ。DDT規制によって5千万とも1億人とも言われる人命が失われたというのである。レイチェル・カーソンを糾弾する動きがもう少しあっても良さそうなものである。

 スリランカでは1948年から62年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数は31人にまで激減しました。この数はDDTが禁止されてから5年のうちに、もとの250万人まで逆戻りしています。DDTによって救われた人命の数は5千万とも1億ともいわれ、これは他のどんな化合物をも上回るものです。
http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/DDT/DDT.html


このような誤解が蔓延しているのはDDTだけではない。環境のリスクというと真っ先に浮かぶダイオキシンは無害であるし(参照)、環境ホルモン報道が生殖器異常のワニと精子の少ない男性を集めて捏造されたものだったことが分かっている。現代社会はリスクに充ち満ちているかのように思えるのだが、よく調べてみると根拠のないリスクであることがしばしばある。特に「環境」の名の下に主張される「正義」はひとまず疑ってみる必要があるように思う。


ベックの『危険社会』で主に言われるリスクは原子力放射能のリスクである。これは執筆された時期の影響だろう。あと、もちろんお決まりのDDTの危険性も語られる(61頁)。序文からベックは煽りに煽るのだが、リスクと危険と大量に書き不安を感じさせた後に、以下のような記述がなされる。

危険社会では、危険を予見し、危険に耐えるとともに生活経歴上どのように危険とかかわり、政治的にどのように危険を扱うかが最も重要となる。社会的におちぶれはしないかという不安、階級意識、社会的上昇志向などは、どう処理したらよいのか多少ともわかってきたが、次のような根本的な問題がこれに取って代わる。われわれは割り当てられた宿命としての危険やそれから生じる不安と不確実性をどのように処理したらいいのだろうか。不安の原因を解決することができないとしたら、われわれはどうやって不安を克服したらよいのだろうか。


ベックは人の手によって作られたリスクは人を不安に突き落とすと書く。そして、本書の最後でベックは近代の方法をそのまま延長していればなんとかなるという人々を楽観論として退けている。しかし、リスク社会の説得的論拠として使われていることが真実でないならば、ベックの言う「不安」というのは、流言飛語によって起こされたモラルパニックのようなものでしかないのではなかろうか。リスクは人の手によってつくられるのみならず、流言飛語が科学的な姿を装う=捏造されたリスクがモラルパニックを引き起こす可能性について検討すべきではなかったかと思う。グローバリゼーションやリスク社会というのは雰囲気やノリではよく分かってしまう話なのだが、少し冷静になって一つ一つ事物を点検していく必要があるのではないだろうか。あと、忘れてはいけないのは、そもそも、大正時代までは1000人のうち成人までに400人弱くらいは死んでいたので、現代は非常に安全な社会になっていることだろう。現代がとんでもない時代になってしまった訳ではない。


あと、気になったのは以下の部分。

 危険を生産しておきながら、それを正しく認識できない大きな理由は、科学技術の合理性が「経済しか見ない単眼構造」にあるからである。この目は生産性向上に視線を向けている。同時に、構造的に見て危険には盲目なのである。経済的に見合うかどうかという可能性については、明確な予測が試みられ、よりよい案が追求され、試験が行われ、徹底的に各種の技術的検討が行われる。ところが危険については、いつも暗中模索の状態で「予期しない」危険や「全く予期し得ない」危険が出現して初めて、心底怯え、仰天するのである。


資本主義批判の典型のように読める。環境への配慮と資本主義が対立するというのは必ずしも正しくはない。最近の中国製の品質が問題にされていることをみても分かるように、体に悪いとされているものが含まれている製品には需要はないし、汚染物質の垂れ流しは経済の持続的発展を阻害する。経済的に見合うかどうかということを考えることを通しても、環境的配慮はなされる(というか、だから環境的配慮はなされるのだと思うのだが)


この部分と呼応するように少々不思議なのは、第六章の職業労働の脱標準化(完全就労から部分就労へ)の話である。失業が社会の宿命であるかのように書かれているのが不思議なところである。失業率が高いのは、正規雇用者への賃金が高いことや、最低賃金が高いことや、失業給付の問題というのが教科書的な回答であるが、そういうことには触れられない。また、ドイツでは労働組合の組織率が高い国なので、労働組合の存在にも言及が欲しいと思う。ドイツ経済についての知識がないのだが、常識的に考えると高い労働組合の組織率が長期的な高失業率の一つの要因になっているはずである。であるならば、論理的には脱標準化は起こっていないことになる。つまり、ベックの言う完全雇用正規雇用であり、労働組合に守られた雇用形態である。彼らの存在が、若年や高卒者や女性の雇用環境を劣位にしていて、劣位に置かれた人たちの就労が脱標準化を引き起こしている。要するに、標準化された雇用形態が、脱標準化された雇用形態を生み出しているのである。脱標準化という方向性で労働市場を描くのではなく、そこには年齢・学歴・性別ごとに違った傾向があるはずである。


また、規範経済学的にも問題があるように思う。循環的な理由ではなく、構造的に長期間の高失業率が存在するならば、構造的に賃金をもらいすぎている人たちがいるはずであって彼らの賃金を減らすなどして、再分配を考えるべきである。累進課税の強化を行ったり、負の所得税をつくるという案もある。低所得者には国民年金、健康保険、雇用保険の免除を行ったり、教育費補助など出すことによって再分配をする手もある。第6章で書かれる、教育レベルが低かったり、女性であったりすることによって、就労で劣位に置かれるというのは事実であるのだが、現代においてもやり方さえ間違わなければ、失業率を下げられるし、社会的に劣位置かれる人たちがいても、彼らの生活を保障することはできるはずである。


不平等は政策によって改善されるべきであり、ドイツが抱える問題は政策の不備によるものである。にもかかわらず、現代ドイツの現状が後期近代の特徴だと記載すると、それは一種の宿命論になってしまう。政策の不備を宿命論として書き換えることは、現状を宿命だから受け入れよ、と言っているように等しい。個人的にはこういう書き換えはすべきではないと思う。


以上、読書会の予習として。