村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』


勘定奉行荻原重秀の生涯―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (集英社新書)

勘定奉行荻原重秀の生涯―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (集英社新書)

 荻原重秀(一六五八〜一七一三)は、五代将軍・徳川綱吉治世の元禄八年(一六九五)、江戸幕府勘定吟味役として、日本史上初めての大規模な貨幣改鋳を指揮した人物として名高い。高校の日本史の教科書には荻原重秀と、太字ゴチックで書かれているから、受験勉強で暗記した覚えのある人も多いだろう。教科書や概説書では、荻原重秀の名前のあとには必ず、「幕府は改鋳による差益で莫大な収入を得たが、物価騰貴を招き、経済を混乱させた」などといった否定的な記述が続いている。教師の説明ではしばしば「グレシャムの法則」(悪貨は良貸を駆逐する)が持ち出され、改鋳の不当性が説明される。
 しかしこの説明は少しおかしい。悪貨が良貨を駆逐して(良貨が退蔵され)市場に出回る貨幣量が減少したのなら、物価は下落するはずである(デフレ)。もし物価騰貴を引き起こした(インフレ)のなら、良貨退蔵の影響はそれほど深刻ではなかった、ということになる。いったいどちらなのだろう。


荻原重秀は田中圭一の著書で初めて興味を持った。そこにはインフレなど起こしていないと書かれていた。この本では、丁寧に証拠に基づきながら論証されている。

十一年間の平均米価は、七十四・三四匁となる。その上で、改鋳前と改鋳後の名目米価を比べてみると、その上昇率は一・三三倍であった。三三%の上昇というと、一見、大きいように思えるかもしれない。しかし、両者の最終年は十一年開いているのだから、年率に換算すると三%の上昇にすぎない。仮に元禄十二、十三年に五年間ではなく四年間の平均データである五〇・三を入れてみると、年率上昇は二・八%である。
 江戸米価の場合について同じような計算をしてみると、改鋳前の二十五年間の平均は百俵=三十一・七二両。改鋳後十一年間の平均は四十一・四五両。平均価格間の比率は一・三一倍。年率換算すると、やはり二・七%の上昇でしかない
 年率三%〜二・七%。この程度で、「激しい物価騰貴」と言えるだろうか?


経済学の基本的な理解として景気とインフレ・デフレはひとまず関係のないものとして理解する必要がある。デフレ=不景気という巷にあふれる理解は誤りである。ただ、景気拡大には緩やかなインフレが良いとされている*1。インフレ率は目安としてだいたい3%程度がよいのではないかとされているが、現代の経済学が考える最適なインフレを荻原は作り出している。非常に驚くべきことである。

 しかし、では、幕府が得た五百万両(新井白石による推定)もの出目は、いったいどこから生み出されたのだろうか? それほど巨額な財が、無から生じるはずがない。どこからか、価値の移転があったはずだ。それはどこか。これまで述べてきたように、大衆の犠牲の上に出目を稼いだとする説は誤りである。庶民は、別に改鋳に苦しんでいなかった。では誰が、改鋳の被害を受けたのか。
 自明であろう。それは、慶長金銀を大量に保有、退蔵していた商業資本や富裕層である。(中略)商人の中には、蓄積した富で、高利貸しを営んでいた者も多い。江戸時代は現代から見れば、恐ろしく高金利の時代で、年率一五%程度は普通だった。いかに貨幣需要が逼迫していたか、金利によく表れている。これはちょうどケインズが、「金利生活者の貨幣愛」を批判した、第一次世界大戦後のイギリスの状況とよく似ている。当時ケインズが書いた処方箋は、緩やかなインフレによって、金利生活者の過剰貯蓄を投資に振り向けさせることだった。貨幣改鋳はまったく同じ役割を果たしたといえる。


綱吉が贅沢をしてその穴埋めをするために悪貨改鋳をしたとされている。その説明の「お金を刷ればそれだけお金が増える」という非経済学的な考え方があり、基本的には間違いである。改鋳によって財を減らしたのは、改鋳前の慶長金銀を保有していた人たちである。改鋳は過剰貯蓄を防ぎ、投資へのインセンティブにもなっている。市場のさらなる拡大を後押しした施策であったことが分かる。


以下は、荻原が貨幣の名目主義者であったことを示す言葉である。

 貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙妙に勝る。これ遂行すべし。


国家が保証をすれば貨幣は瓦礫であっても良い。現在の貨幣の名目主義に立つ言葉である。当時としては斬新な考え方だったかもしれないが、この考え方に立つ改鋳に対して市場は拒否する態度を示していない。当時の市場にも名目主義を受け入れる素地がある程度あったのだろう。


以下は、著者による金本位制への批判。

 しかし金属貨幣の最大の間蓮は、貨幣発行量が金属生産という自然条件に制約されることだ。国内の貨幣経済も貿易もまだ小規模で、かつ金鉱フロンティアが無尽蔵にあった時期はそれでもよかった。しかし国内経済も貿易も活発化し、さらに金鉱フロンティアが枯渇してくると、金属貨幣は経済活動にとって大きな制約要因になる。貨幣の不足が高金利を招き、高金利ほ投資不足と失業をもたらすからだ。二十世紀に二度も世界大戦が起きた原因の一つは、金属貨幣制度(金本位制)であった。ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』の中で、金本位制が、国内の繁栄を金属獲得量に依存させてしまうため、隣国を犠牲にした金属輸入に狂奔させ、各国間の利害対立を煽ると、激しく非難している。


元禄当時の市場経済規模は日本の金産出量ではまかないきれないものだった。当時、日本は世界の3〜4割の金を算出する巨大産出国だったが、その巨大産出国の金をもってしても、元禄時代の市場経済の拡大に対応することはできなかった。足かせの多い金本位制から貨幣を名目主義化していことによって、市場を拡大することに成功したのである。荻原にはその経済思想のもならず日本を資本主義化した大きな実績が認められる。


荻原は後年、新井白石によって失脚させられる。新井白石は有名な儒学者・思想家だが、経済に関しては無知であった。荻原とは違い金銀を神聖視し、家康が定めた幣制を守るべきだと考えていた。また、デフレとは物価が下がることなので、ものの値段が下がって暮らしやすい世の中になると考えていたようでもある。新井白石は次のように述べている。

近江守(荻原)が申すところも理由があるように見えるが、初めに改鋳のようなことをしなければ天災も起きなかったかもしれない


社会科学的な論理を思想で論駁しようとしたものはとんでも言説に与することがしばしばある。新井白石の言動もこの種のものである。歴史で偉大だと書かれている人間もこの程度のレベルなのである。

*1:理由は、借入金(資金調達)の際の利子がインフレ下では軽減されるためである。また、インフレ下では貨幣を持ち続けることは損を出すので更なる投資をするインセンティブになるという理由にもよる