『ひきこもりの社会学』に関する再言及


拙著の『ひきこもりの社会学』に再度言及いただいたようだが、前回同様、論文・評論の作法を守らない書き方で書かれている。

トラバをいただいたid:iDESさんへ
http://d.hatena.ne.jp/K416/20070905/1189000024
読み終えた。『ひきこもりの社会学http://d.hatena.ne.jp/K416/20070906/1189095082


> 今回も「お前が書いてることは目配りしてるわ」って指摘をもらってしまうかも。
前回のエントリで書いたこと(参照)は「お前が書いてることは目配りしてるわ」と書いたのではない。エントリの最後の3行を読めば分かることだが、本に書いてあることを書いていないことにして、ブログで指摘してみせるのは、論文や評論を書く時の作法の違反であるということを書いたのである。


何を勘違いしたのか「目配りをするかしないか」の話になってる。こちらが書いたのは、論文や評論を書くという基本的な作法の話をしているのである。3行程度の文章も読めないのは、とても残念なことである。


今までの専門教育でどのように教わってきたかは分からないが、論文・評論を書く上では最低限守る作法がある。作法を守った上で論文を書いたり、評論をするというのは研究者としての最低限の倫理である。


>とりあえず、「底辺校」でワーキャー騒いでる学生さんを「ひきこもり」(あるいは不登校)の対照的な存在と見るのは間違ってる気が。
そう主張するならば、とりあえず、根拠を出す必要があろう。他の記述にも根拠が無いものが散見される。「とりあえず○○だと思う」というのは研究では根拠とは見なされない。


> 関連しそうだが、よく分からないのが不登校とひきこもりの関係。
本文41ページから1節分を使って4ページにわたって説明している。「わからない」と不平を言う前に、本を良く読む作業が必要だろう。論文や評論を書く時にはまず対象になる本を良く読むことが必要である。これも作法の一つである。


> これも実感で申し訳ないが
登校改善「データ」に対して「これも実感で申し訳ないが」と感覚的なコメントが述べられる。「データ」に対して「実感」で反論である。こちらは論文の作法というよりも、社会学者としての作法としてだが、これも褒められたものではない。


> 結局、「規則」の内容が違うだけで、ひきこもった人も「底辺校」の学生さんもどっちも「規範的」なんじゃないかと見えてきて。
『ひきこもりの社会学』で使用している「規範」という言葉については注92(229頁)を読むと書いてある。「規範」と言う言葉と「規範的」という言葉の峻別については注91を読むと書いてある。
やはり今回も本を良く読まずに書いている。論文や評論を書く時にはまず対象になる本を良く読むことが必要である。

「理念的な『ひきこもり』は『社会的行為の喪失点』として捉えられる」(p.93)

という『ひきこもりの社会学』の記述に対して

で、現実的にも、ひきこもりしてる人〜
http://d.hatena.ne.jp/K416/20070820/1187618644


というコメントが続く。「理念」についての記述に「現実にも」と続けることの問題に気づいていないからこのような批判をしようと思ったのだろう。「理念」という言葉の理解がまったく出来ていない。「理念」というのは、あまり知られていない用語ではなく、社会学における基本概念の一つなので、社会学専攻の院生がこのようなことを書いているのは非常に残念である。


「理念」の意味を知らないというところから、おそらくヴェーバーとホマンズの定義の違いがどうのこうのという話を書いているのだろう。「理念」というものが理解出来れば、ヴェーバーとホマンズの問題も理解出来るようになると思われるし、今後、社会学の世界で生きていくならば、こういう恥ずかしい記述を繰り返さないようにカントの『純粋理性批判』(ISBN:4003362535)などを読むといいのではないかと思う。社会学のプロパーであるならば、最低限の知識と最低限の倫理は持つべきである。


「ひきこもり」の定義について一つ付け加えておこう。


社会学では人の生きるところには数々の社会的行為が存在することを前提としてきたが、ひきこもり状態ではその数々の社会的行為が激減する。社会学が当然の前提したことを覆すように現象が「ひきこもり」という形で現代日本で現れているのである。このことが社会学という学問にとって「ひきこもり」というものを扱う意義である。


精神医学の定義した「ひきこもり」の定義は、治療を目的とした「診断基準」に相当する。斎藤環定義*1などがその典型である。精神医学は治療という問題関心から、このような定義を行うが、治療は社会学の問題関心から外れる。社会学者は直接当事者に向き合って治療を行う主体ではないからである。


精神医学と社会学の問題関心・問題構成は別個のものであり、あくまでも斎藤環定義が有用なのは治療においてなのである。このことに自覚的にならずに精神医学の定義を社会学へそのまま流用するのは、社会学の固有の問題構成がないという表明と同義になる。このことに社会学において「ひきこもり」を扱った研究は無自覚だったのではないだろうか。


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書くべきことは前回とあまり変わりがないので、同じ文言をコピペしておこう。

論文ではなくブログであっても「本には書いてないこと」で論じるのは作法としてあまり褒められたものではない。同じく「本には書かれていないこと」にしてしまって、わざわざ指摘するというのも同じである。
読書会をやっていただけるということなので、その時には本に書かれた内容で議論していただきたいものである。


内容面でも、文脈を切断した引用を繰り返し、論を展開しているように見せかけて、根本的な読解に関して上記した誤りのパターンが数限りなく繰り返されれている。脳内『ひきこもりの社会学』が作り出されていると言ったところか。脳内では、作法とかとやかく言う人もいないし、倫理の問題にもひっかかるということもないから、こういうことは脳内でやる方が本人も幸せになれるのではなかろうか。


余談だが、K416さんがエントリした記事を読んでると『学問とは何か』の著者の掛谷英紀さんのコメントがあった。K416さんが掛合さんの『学問とは何か』を書評した記事である。

掛合


拙著をお読みいただいたようでありがとうございます。ただ、書評を見る限り、突っ込んだ読み方はいただいていないようで、いささか残念です。
http://d.hatena.ne.jp/K416/20070905/1188984860#c1189173834


同じブロガーに取り上げられて、同じことを感じてた人がいたようだ。掛合氏の言っていることは、ともかく本をちゃんと読めということだろう。


なぜ同じことが起こるのかを考えることは控えることとして、とりあえず、同感なのでコピペのコメントで。

*1:「20代後半までに問題化し,6ヵ月以上,自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており,ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」斎藤『社会的ひきこもり』25ページ