井出草平の研究ノート

うつとひきこもり

津田均「青年期の「抑うつ」と社会変化」
『精神科治療学』21(11);1218−1221,2006


「ひきこもり」と「うつ」についてとの精神分析からの論文。ここ1年ほど、ちゃんと「ひきこもり」について考えて来なかったなという反省も込めて。


抄録

臨床現場では,メランコリー型性格を基盤とするうつ病よりも非適応的要素のある青年期のうつ病が目立ってきたという印象がある。いくつかの論考からは,気分と一体となった自己がある目的へ牽引されていることと,社会適応のための現実的努力へ自己の活動が向けられることとの齟齬が,たまたま覆われていたのがメランコリー型であったという可能性が浮かび上がる。現代の社会変化は,患者の力動を社会の要請に応える努力へ転導しかつそれに庇護を与えるシステムを失いつつあるので,この齟齬を青年期から露呈せしめていると推論される。適応の不全なうつ病と「ひきこもり」との間には,症状学的にも人間学的にも大きな断絶があるが,社会の要請を認知している自己とそれに関わらない態度をとる自己が併存しているように見えるというところには共通点があり,これは現代の社会,教育情勢を反映していると考えられる
精神科治療学 21(11);1218−1221,2006

 もう1点両者の間をつなぐ共通要素として考えてみたいのが,先に触れた,社会規範的要請に対する本人の異なった態度が,お互いがあまり影響し合わない形で並存している点である。この考えはわれわれを,Freudの自我分裂(Ich-Spalyung)の概念にまで遡るように導くかもしれない。Freudは,去勢の脅威に対し,その現実性を知っている自我がある一方で,もう一方にそれを否認し,たとえば女性のペニスの不在を認めずにフェティシズム対象を作り上げているような自我があって,両者が並存し続ける場合があることを指摘した。Freudは,このような分裂の考えを,はじめフェティシズムの領域に指超し,後に精神病や神経症一般にも広げようと試みた。ここで述べておきたいのは,これに類似する分裂を,現代の社会情勢,教習風潮が,社会観範的要請や期待に対する自我の態度に引き起こす傾向があっで,その点については,非適応的な画の目立つ気分障害と「ひきこもり」に似たところがあるのではないかという仮説である。