土井隆義「かかわりの病理引きこもりという『自分の地獄』」

自己と他者の社会学 (有斐閣アルマ)

自己と他者の社会学 (有斐閣アルマ)


この本の12章に「ひきこもり」についての論考がある。

土井隆義「かかわりの病理 引きこもりという『自分の地獄』」,2005,
『自己と他者の社会学有斐閣,209-226


約9年間自宅に引きこもった末に04年11月、両親と姉を殺害したとして殺人罪に問われた事件について土井義隆先生が触れている。

 また,土浦市の青年は,犯行後の事情聴取で,「自分が殺される前に親を殺そうと思った」と供述している。しかし,現実には親が殺意を抱いた形跡などないから,「自分が殺される」というこの表現は,自分という存在が全否定されることを危惧したメタファーであろう。その裏には,自分に対する強い不安が潜んでいる。彼は,「自分の居場所が奪われる」とも述べていたように,自らの存在の脆弱さにおののいていたのである。


この事件の加害者が「ひきこもっていた」ことは確かなのだが、同時に、24歳から統合失調症を罹患していたことが判明している。(参考)(参考)
誰かが私を殺そうとしているという妄想は統合失調症では普通にあることである。従って「自分が殺される前に親を殺そうと思った」という妄想には精神障害が大きく影響しているはずである。このような判断をする自分は「社会学者」として失格なのかもしれない。もちろん括弧付きの社会学者という意味である。


土井先生はこの後、土浦の事件から「引きこもりに対する間値の低下は,人間関係の重さを経由しつつも,結局は自己肯定感の脆弱さに由来するということができる」と分析する。しかし、土浦の事件は精神病因が大きく関わっており、この事例からそのような結論を導き出すことには無理がある。


以下がこの論文の結論の部分である。

 かつての青年たちの「私を見るな」という叫びから,現在の青年たちの「私を見て」という叫びへ。私たちは,ここに「まなざしの地獄」の新たな局面をみてとることができる。まなざされることの不満から,まなざされないことの不安へと,彼らの「生きづらさ」の内実は変転している。引きこもりという現象は,このような現代の若者たちのメンタリティを照射した社会関係の一形態である。


「まなざされないことの不安」は精神医学の言葉に変換すると、クラスターBの人格障害自己愛性人格障害境界性人格障害演技性人格障害)となる。これは、精神障害のなかでもハデに行動化するタイプには妥当する。しかし、ひきこもり青年の何割かは社会不安(まなざされることの不安)を持っている。土井の議論とは逆である。ひきこもり青年の心性は極めて古典的な状態にあるといっていいかもしれない。ひきこもり青年たちをみていると、変転があるようにはどうしても思えないのだ。彼らは依然として「私を見るな」という叫んでいる気がする。


付け加えるとするなら、質や量の調査を繰り返している研究者としては「まなざし」はあまり重要なファクターとはどうしても思えないということであろうか。土井先生というと井上先生や大村先生の教えを受けてきた人であり、文学性をもった社会学の後継者である。もう少し正確に言うと、現象を通して社会全体の傾向を素描するというタイプである。彼らにとって、「ひきこもり」という現象を通して「まなざし」の変化を描きたいのであって、主眼は「まなざし」の変化の方にある。


現象に特化して調査研究する研究スタイルの自分とは違うタイプの研究者なのだろう。自分も一応、大村先生の教え子ではあるのだが、いつのまにかどこかで変わってしまった。そういう意味で感慨深く読めた論文であった。