根來秀樹「不登校・ひきこもり考える」

根來秀樹,2009,
「不登校・ひきこもり考える」『こころの科学』146:114-9

 ここ数年、不登校やひきこもりの子どもや青年が外来を訪れるたびに、その背景にある疾患を診断することにかなりの比重を置いてきたように思う。
 その一番大きな理由は、社会不安障害と診断できたことで薬物療法が奏功し、バイトができるようにまでなったあるひきこもり状態の青年との出会いであった。彼とご両親にはたいそう感謝され、こういう経験は臨床家にとってまさに「蜜の味」であった。
 それ以降、不登校やひきこもり状態を呈している子どもや青年に出会うたびに、背景に社会不安障害を含め何か疾患が隠されていないかという姿勢で診ていくようになった。彼らと出会った時に何もできない無力感を抱いていた頃に比べ、はるかに先の見通しがつくように思い、精神科医としては診療がしやすくなった。
 そうこうしているうちに、『不登校の児童・思春期精神医学』(金剛出版)という書籍と出会った。その中で著者の齋藤万比古氏は、一九九二年からの約一〇年を評して「……医療関係者が、不登校を示す子どもを規定する方法として、DSM診断やICD診断による疾患の規定のみに注目し、不登校という側面を過小評価する、あるいは回避するという傾向を強めていった期間」であると述べていた。
 まさに自分もこの言葉どおりのことをしていたわけで、この書籍との出会いは衝撃的だったと同時に、自分の未熟さを改めて思い知らされることになった。


齊藤万比古の著書とは以下のものである。


不登校の児童・思春期精神医学

不登校の児童・思春期精神医学


小児期のうつ病に対しては抗うつ薬の反応率が低いこともあり、また他の症状との併存も確認されている。傳田ら(2003)によると不安障害や摂食障害との併存率が高いようである。

 一昔前までは不登校の子どもに対する支援とは「登校刺激を与えない(つまり、学校へ行け! 行け! と言わない)」ということをまず第一に親にアドバイスするのが主流だった。
 たしかにそのアドバイスによって、いったんは子どもたちの精神的な重荷のようなものはとれることも多く、次に会った時には子どもたちの表情ははるかによくなっていた。しかし、だからといってその子どもたちがその後登校しだしたかというと、ある日突然学校に行きだすほんの少数の子どもたちを除けば、やはりほとんどの子どもたちは延々と不登校の状態を続けていた。
 そしてその一部がいわゆる「ひきこもり」の状態になっていくのをみるにつれ、たしかに子どもたちのストレスは減ったが、果たしてこれでいいのだろうか、という何か納得のいかないいやな感覚をずっと抱き続けていた。そういういやな感覚の根本は、勉強が遅れることではなく、まさに青木の言う、同年輩集団のなかで「もまれる」体験ができないということであったと思う。
 今、学校外での「居場所」およびそのシステムができつつある。そのようなシステムが彼らの選択肢の一つとして一般的になれば、彼らの息苦しさを少しでも和らげることになるだろう。


同年輩集団のなかで「もまれる」体験が重要というのはまったくその通りだと思う。不登校の増加、高校での退学という現象に対して通信制などの私立高校が主とした受け入れ先になってきた。しかし、通信制というのは、同年輩集団のなかで「もまれる」体験という観点からするとあまり適切ではない。
少し文脈から外れるが、同年輩集団でなくても、大きく歳の離れた人などの交流を持つことも「もまれる」体験として効果的なはずである。そう言う意味では定時制の縮小は残念なことだ。
また、フリースクールも減少傾向にあるため、これから先、どういったサービスをどういった枠で提供していくことが良いのか、考えて行かなくてはならないように思う。