井出草平の研究ノート

鈴木謙介『サブカル・ニッポンの新自由主義』の仮説を量的実証するためのメモ書き


このエントリでは『サブカル・ニッポンの新自由主義』で示された仮説の実証可能性について少し考えてみようと思う。この本の世間的評価はアマゾンの書評などをみると、評価している意見もあるが、一方で、「情報量が多いが」であったり「自分の中のもやもやをストレートに出したような本」などの否定的意見もあり、個人的にはいろいろと示唆に富む記述が多かったと思うだけに、少し残念だと思ったので、書評のような形ではない角度からこの本で示された仮説について考えてみたい。


本書では「インターネット」の話と「新自由主義」の話の2つの事が書かれており、結論部分にジモトについてなどの考察が書かれているが、このエントリでは終章の前までに展開されている理論の実証可能性について考えてみようと思う。本の評価ではなく、自身の研究も兼ねたメモ書きである。


理論の要約は著者自身によって166ページにまとめられてある。

 本書ではずっと「既得権批判」による改革要求、つまり現在の不遇は既得権を保持している奴らがどこかにいるせいだ、彼らの不当な取り分を奪うために、より改革を進めて流動化せよ、という発想を扱ってきた。そして、その個別の要求の正当性を問題にするのではなく、なぜ背景も時期も地域も異なる状況で似たようなロジックが噴出し、より一層の流動化という帰結をもたらしてきたのかについて考えてきた。


(1)「流動化」は「安定/平等」とのアンビバレンツな関係の中で要求されているものだということ
(2)その背景には情報化によって個人の能力に焦点が当てられるようになったことがあり
(3)メディア環境の変化は、その両方を推し進める


という三点だった。
特に情報メディアの発達は、個人が自らの能力を自由に発揮できるようにするという理想を持ちながら、他方でその恩恵にあずかれる人間をはじめから選別しているという点で欺瞞を抱えていたのであり、その理想に裏切られた人々にとって、発達した情報メディアがもたらす新世界は、あこがれの対象であると同時に破壊の対象にもなり得るようなものなのだった。(pp166-7)


1と2で言われているのは「個人化」に分類される話であり、前後に書かれているものは「相対的剥奪」に分類される話である。かなりざっくり言ってしまうと、自由の保証が進み、誰でも自分が椅子に座れると思える状況(情報化によって知ることができてしまう状況)が出てきたことによって、座れなかった者が「得られた物が得られなかった」という剥奪感を持つということになるだろう。


このような議論はベック、バウマンなどの後期近代論の文脈であり、特にヤングの『排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異』がかなり意識されているように思われる。彼らの比較して、鈴木仮説のオリジナリティは「情報化が推進的役割を果たしている」ことにある。情報化と格差の問題で言うと、デジタルデバイド仮説というものがあるが、鈴木仮説とは異なる。デジタルデバイド仮説はインターネット等のデジタルデバイスを手にした者と手にしていない者は情報など手にする量も効率も異なってくるので、デジタルデバイスを手に入れた者が社会的・経済的有利になるというものである。このようなデジタルデバイド仮説と異なり、鈴木仮説は情報化そのものが剥奪感が生みだし、インターネットはその後押しをするのだということになる。


現在までの研究でハードウェア(技術)が意識を変えた明示的に結果を示した量的研究は知る限りあまりない。先のデジタルデバイド仮説にしても計量的に否定されている*1


数理社会学では相対的剥奪はBoudon(1982)がモデル化をしていて「払ったコスト」と「得た結果」を要素として想定している。ただ「得たコスト」が完全に認識されるか、部分的に認識されるか、行為者の目に入らないかといったような事は検討されない。Boudon以降もそのような理論的発展はない。鈴木仮説は従来のモデルに「結果の見えやすさ」について加える必要がありそうだ。モデル化に成功すれば、結果もたぶん出てくるはずである。理論的に面白いのは、相対的剥奪は準拠集団を基準にして、自分は恵まれているかどうかと考えることだが、情報ツールが完備されて、完全情報状態に近づくと、準拠集団は明確ではなくなる(身近な集団から社会へと比較基準が拡散する)という点だと思う。ここを重視すると、Merton(1957)が言うような準拠集団がキーになる相対的剥奪ではなく、情報認知度によって剥奪感が変わってくるという別のモデルにした方がいいのかもしれない。


計量で量的実証をする場合は、情報ツールを持つこと(より完全情報状態近づくこと)と剥奪感が強いことの相関が高いことを示せばよい。被簒奪意識とネット使用の相関である。加えて、個人化が関わってくるので、新自由主義との関連性について検討する必要もありそうである。


剥奪感の指標は連続変数でとるか、離散変数でとるかという選択ができそうだ。連続変数にする方だが、剥奪感は以下のように定義することができるのではないかと思う。


D=log _e(A/B)


Dは剥奪感(deprivation)、Aは望む配分、Bは実際の配分とする。eを底にした自然対数であるので、A=Bの時に値は0になる。恵まれているという場合(A>B)は負の値を取り、恵まれていないという場合(A<B)は正の値を取る。


この方法で一番明確なのは年収を使う方法だろう。「自分に相応だと思う年収/実際の年収鈴」を対数化して従属変数にする。鈴木仮説では「主観」を元にしているので、自分に相応だと思う年収は本人申告でよさそうである。ただし、従属変数に収入が入るため、独立変数に収入が入れられないという欠点はある。


離散変数でとる方法は、最近、太郎丸先生が入れているエントリから拝借すると以下のようなものがあるようだ。


非常勤の研究者に対しての質問項目(5件法)

  1. 一般的にいって、私は今よりももっとよい労働条件 (job situation) を欲している。
  2. 一般的にいって、私は今よりももっとよい労働条件ではたらくべきだ(ought to)。
  3. 一般的にいって、私は今の労働条件に腹を立てている (angry or upset)。

Daniel C. Feldman and William H. Turnley, 2004, "Contingent Employment in Academic Careers: Relative Deprivation among Adjunct Faculty," Journal of Vocational Behavior, Vol.64 No.2, pp.284-307.
http://dx.doi.org/10.1016/j.jvb.2002.11.003


子どもに対しての質問項目(5件法)

  1. あなたの親の経済状態は悪い。
  2. あなたの親は車を持つことができない。
  3. あなたの親は、食べ物、家、電話などの生活必需品を賄うことがほとんどできない。
  4. あなたの親は、スポーツや音楽のようなあなたが一番したいタイプの余暇活動をするお金を持っていない。

Jon Gunnar Bernburg, Thorolfur Thorlindsson and Inga Dora Sigfusdottir, 2009, "Relative Deprivation and Adolescent Outcomes in Iceland: A Multilevel Test," Social Forces, Vol.87 No.3, pp.1223-1250.
http://dx.doi.org/10.1353/sof.0.0177


それぞれリッカート尺度を加算して剥奪感を数量化している。もう少し一般化した項目に直した方がいいかもしれない。ただし、相対的剥奪を測るわけではないので、あまり準拠集団にこだわらなくてもいいためDaniel(2004)のような形でもいいようにも思う。リッカート尺度を加算する方法の優位な点は、独立変数に収入を入れられることにあることだろう。


新自由主義については定義が難しい。橋本努は『日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)』でネオリベラリズムについて以下のように述べている。

 こうした政策理念を主張するなら、本当にラディカルなネオリベラリズム批判になるんですが、そういう論客は今のところ誰もいません。批判はすべて、部分、部分で行われ、ある箇所を批判する人は、他の箇所を認めるというかたちになっています。
 つまり、批判はすべて、ネオリベラリズムに対する全面批判ではないということです。(pp295)


橋本努ネオリベラリズム批判として以下のような典型例を出して批判の不可能性を示している。ここではこの典型として出されているものを別の文脈で用いる。つまり調査者が主観的な新自由主義を定義するのではなく、新自由主義と指されるものをカバーした項目を並べて主成分を抽出する方法だ。こうした方が回答者が新自由主義のの中でどの部分にコミットしているかということを明確にできる。

 ネオリベラリズムとは、
(1)市場経済グローバル化によって生じた先進諸国(民主主義と福祉国家の建設において歴史的に成功した諸国)の体制が持つ一特徴であり、それは、
(2)結果としての所得不平等を容認すると同時に、
(3)公的サービスの提供の仕方に貨幣原理や選択原理などを導入しようとする。またこの体制は、
(4)地域−国家−国際機関の民主的運営を目指すよりも、多国籍企業の支配力を優先するものであり、そこにおいては、
(5)物質的な充足を追求する画一的な消費文化というものが支配的な影響力を持ち
(6)企業が収益性を求めて行動する結果として、人々の社会的紐帯が脆弱化すると同時に、
(7)労働者たちが解雇をおそれて企業に忠誠を誓うという「従順な主体化」を促している。さらにこの体制は、
(8)社会階層の分断化と階層間移動の非流動化を容認しつつ、
(9)人的資本を高めるような訓練の機会を十分に提供できないでいる。(pp292)


これは以下のような質問項目に変化させられる。

(1)市場経済グローバル化の認識と是非
(2)市場経済グローバル化によって所得不平等が起こるのかという認識と是非
(3)民営化(道路・郵政・教育・年金・福祉等)についての是非
(4)大きい国家か小さい国家かの認識と是非
(5)物質的な充足を追求する画一的な消費文化の認識と是非
(6)人々の社会的紐帯が脆弱化についての認識と是非
(7)労働者たちが解雇をおそれて企業に忠誠を誓う傾向にあるかという認識と是非
(8)社会階層の分断化と階層間移動の非流動化についての認識と是非
(9)人的資本を高める事に対しての認識と是非(能力の高い者は他の者よりも収入が多いことは・・・・納得できる−やや納得できる−あまり納得できない−納得できない)


これらの項目を主成分分析することによって、能力主義や民営化等の主成分を作成できるはずである。


鈴木仮説は以下の二点を確かめることで実証できるように思われる。

  1. 情報化によって「流動化」と「安定/平等」との相関がより高くなることを示す(「流動化」と「安定/平等」の相関が情報化された層で高いことを示す)
  2. 情報化によって個人の能力に焦点が当てられるようになる(情報化度−能力主義主成分)


この2つの仮説を実証できれば鈴木仮説は実証できると思われる。

  • Boudon, K. 1982. The Umitended Consequences of Social Action. The Macmillan Press.
  • Merton, R.K, [1949] 1957. Social Theory and Social Structure. Free Press (=1961.森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳『「社会理論と社会構造』みすず書房. )

*1:太郎丸博「社会階層とインターネット利用--デジタル・デバイド論批判」『ソシオロジ』48(3) (149) pp.53〜66 2004/2 http://ci.nii.ac.jp/naid/40006240015