江戸時代の識字率

江戸の教育力 近代日本の知的基盤

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 一方、識字率について見ると、高橋敏「村の識字と『民主主義』」は、駿河国駿東郡御宿村(静岡県裾野市)の安政三年(一八五六)二月と同四年正月の付役人選挙においで、名主51枚、百姓代44枚の入札の筆跡がすべて異なることから自筆とし、識字率は一〇〇パーセント近いとしている。
 前沢哲「幕末・維新期における民衆の文字習得について」は、明治五年河内国大阪府志紀郡内15か村の入札から、村により一〇〇パーセントから六一パーセントまでの差がありつつも、全体の識字率は約八〇パーセントとしている。
 高尾善希「近世後期百姓の識字の問題」は、武蔵国人間郡赤尾付(埼玉県坂戸市)の名人主欠員に対する天保五年(一八三一)の意見聴取のさいの入札についで、全45人中九五パーセントを自筆としている。
 これらの数値は、戸主による入札という点で限界をもつが、八鍬友広「一九世紀末日本における識字率調査」は、より広く6歳以上の人民を対象に、自分の姓名を書ける者を基準としで文部省がまとめた調査結果をもとに、地域差が大きいものの、識字率滋賀県が約七五パーセント(男子約九〇パーセント、女子約五〇〜六〇パーセント)、岡山県が約六〇パーセント(男子約七〇パーセント、女子約六〇パーセント弱)としている。八鍬友広「滋賀県伊香群における一八九八年の識字率」は、滋賀県が独自に6歳以上の住民を対象として、自分の姓名を書けることを基準としでまとめた調査をもとに、伊香郡13か村の平均として識字率約七三パーセント(男子約九三パーセント、女子釣五〇パーセントとしている。
 さらに、天野郁夫『学歴の歴史』では、明治三〇年度の徴兵適齢受験者を対象とする壮丁教育程度調査をもとに、姓名が書けない者二四パーセント、姓名のみ書ける者一七パーセント、姓名・住所を書ける者一八パーセント、姓名・住所・職業を書ける者一五パーセントすべての項目を書ける者二六パーセントの数字をあげ、識字率七六パーセントとし、江戸後期から幕末期の簡単な識字率を約八〇パーセント前後としている。(101-2頁)


簡単な識字率は80%あたりにあったという。もちろん文章が書いて読めるというような高度な言語・文章能力ではなく、自分の名前や住所簡単な文字が認識できるというものなので、現在の感覚で言う識字率とは違うものと受け取った方が良いだろう。


ともあれ、江戸・明治期の識字率は海外に比べると高い。その背景にあったのが藩校・郷学・私塾・寺子屋などの教育施設の普及だった。

 中泉哲俊『日本近世学校論の研究』によれば、江小町代の卿学は118、私塾は1076、寺子屋は1万0202を数える。その後の研究により、これらの数字はより大きくなると思われる。いずれにしても、江戸町代、教育施設は急激な増加を見せたのである。
 次に就学率について見ると、利根啓二一郎『寺子屋と庶民教育の実証的研究』は、関東地域の手習所の就学者は、純農村で2割、商業的農業が展開した村で4〜5割、宿駅農村では4割くらいとする。ただし、手習所以外でも、日常的に家で教えられており、残りの人々すべてが、まったく字が読めない、書けないというわけではなかった。
また、篭谷次郎「幕末期北河内農村における寺子屋の就学について」は、関西の北河内地方で就学率8割としている。石山秀和「江戸近郊農村にみる手習塾の展開と地域社会」は、下総国葛飾郡藤原新田(千葉県船橋市)の手習塾安川舎の場合、文化八年(一八一一)以降、32か村896人が就学し、柏井村では村民の4割以上が入門しているとする。(100-1頁)


都市部はもちろん農村部でも教育施設がかなり普及していたようである。江戸時代の庶民は無学だったが、明治時代になって文明開化と共に学制が発布され、国家の命令によって学校教育が始まったという歴史観はやはりおかしいことがわかる。国家が命令しても社会が準備をしていなければ政策は失敗するものである。明治期の学制の礎は江戸期に既にできあがっていたと考えるのが妥当なのだろう。