ADHDと暴力性

平気で暴力をふるう脳

平気で暴力をふるう脳


本書の主旨の主旨は次のようなものである。暴力性を生み出すのは「生まれ」(遺伝子)か「育ち」(環境)かという対立が長年あった。しかし、「脳」という概念がその対立を統合して、整合的に説明することができるという。紙片のほとんどは脳と暴力性の関係性について書かれているが、最終的に主役になっているのはADHDである。後半の部分からADHDについての抜き出してみよう。


児童精神科にとっての最大の問題は「攻撃」だという。

「攻撃は、児童精神科における最大の問題です」と、スタンフォード大学医学部の児童青少年精神科臨床サービス部長カール・ファインスタインは言う。子どもの問題行動を扱っているほかの専門家も同じ意見だ。フィラデルフィア児童ガイダンス・センターでADHDの子どもの治療にあたっているトニー・ロスティンによれば、「子どもたちがここに連れてこられる原因の七五パーセントは、注意欠陥ではなく攻撃行動」だという。ペンステート大学で問題児総合対策評価チームを率いている心理学者カレン・ビアマンは、執拗な攻撃性が「青少年の精神的な問題のなかでも、いちばん多くて厄介なもののひとつ」であり、十代の非行と成人の反社会的攻撃性が「子ども時代の予兆なしに起こることは……めったにない」と考えている。(p339)


診断名でいうと、反抗挑戦性障害行為障害にあたるものである。こちらで紹介したようにADHDは単なる注意散漫な子や多動の子というだけではなく、暴力性・犯罪と非常に親和性が高い。ADHDの子どもの攻撃性を緩和するには、医学的治療(投薬)と環境調整の両面で対応する必要があるという。

 「環境に脅威を感じれば、子どもはそれに対応した、しかし非適応的なメカニズムを発達させる」とADHDの専門家トニー・ロスティンは言う。こういう子どもたちの攻撃性を緩和するには、注意欠陥の治療と環境(親子の関係)の改善を同時におこなって脅威を低下させ、葛藤とは別の選択肢を生みだしてやらなければならない。
 注意欠陥に社会性学習の障害が加われば、社会学習に不可欠のツールはすべて消滅してしまう。反応が鈍くてしかもADHDの子どもの攻撃性を緩和するには、両方の問題と取り組む必要がある。ADHDを治療しても社会的技能を教えなければ、注意欠陥で失われた基盤を回復できない。だが、聞く準備ができていない子どもに社会的技能を教えようとしても、失敗は目に見えている。
 ADHDで攻撃的な子どもは、誰かが内的なノイズのレベルを下げてやらないかぎり、別の行動様式を学習することはできない。このノイズを下げるために、リタリンADHD治療薬として選ばれている。ドーパミン活動を最適化することで、りタリンは無関係な情報を抑制する能力をとりもどし、前頭葉皮質を「オンライン」に呼び戻す。青斑核の神経細胞の発火を抑えるアドレナリンが放出され、騒がしすぎるノルアドレナリン系の皮質へのインプットを鎮める。こうして背景から細部がくつきりと浮かびあがると、平板で騒がしい世界もようやく筋が通って見えてくる。この静かなスペースで、子どもは人づきあいの新しい方法を学べるようになる。(p345-6)


ここで登場するのはやはりメチルフェニデート(リタリン)である。メチルフェニデートの早期投与の根拠になっているのは、対応が遅いと介入の効果が著しく減じるということである。早期対応の方が効果が高いというのが理由である。

 子ども時代に見過ごされているうちに攻撃的な対応パターンができあがり、やがて当人が思春期に入って思春期固有のストレスや社会的な再編、ホルモンの変化にさらされてしまえば、成人犯罪者並みの実刑宣告も紛争解決法も、このパターンをなかなか変更できない。たとえばADHDの専門家ラッセル・バークレーは、12歳以前なら、攻撃的なADHDの子どもの90パーセントが薬物治療と環境からの介入で改善されると指摘する。しかし12歳を超えてしまうと、この率は25パーセントから30パーセントに低下する。(p347)


ラッセル・バークレーとはADHDの研究者として有名でニュースレターADHD Reortの編集長でもある。(サイト)



心理学を批判している所が面白かったので引用しておこう。

 テレビのトークショーに電話をかけてきた母親は、ゲスト出演している地元の児童心理学者に必死に訴えた。問題は、すでに暴君と化している二歳半の息子なのだ、と。
「とにかく手がつけられません」と彼女は嘆いた。「二歳半の子どもがかんしゃくを起こすことぐらいはわかっています。でも、何をさせようとしても抵抗して騒ぎになるんです。お願いね、ありがとう、とやさしく言い聞かせようとしても、あの子はわたしをたたくんです。罰として椅子にすわらせようとすれば、それでまた大騒ぎです。厳しくしてみたり、強く言ってみたり、もので釣ろうとしたことさえあります。でも、あの子はとにかく泣き叫んでどうしようもないんです」「二歳というのは、やんちゃな年頃ですからね」心理学者は相手の機嫌をとるように言う。「息子さんは、いろんなことが自分でできるようになりましたけど、でも、まだお母さんが必要なんですよ」
 たしかにそのようだ。電話口では、母親を必要とする問題のおちびさんの金切り声がスタジアム・コンサート並みの音量で聞こえている。
 その声が聞こえているのかどうか、女性心理学者は反応を見せず、したり顔で続ける。「息子さんは、自分の力を試したいわけ。もっとたくさん遊んであげて、楽しんでください。ショッピング・センターのようなところに連れていき、新しい世界を見せてあげるのもいいですね。子ども時代を大事にして、心緒に喜んでくれる誰かがいるってことを敢えてあげなくちゃいけませんよ」
 街の反対側では、ローレルの両親が二年間に三人の専門家に相談に行き、なぜ八歳の娘は五歳の弟をひっぱたいたり蹴ったりして、ひどくいじめるのかを理解しようとしていた。ある心理学者には、両親が「権威的すぎる」と言われたが、「甘すぎる」と言う専門家もいた。両親は「一貫性がなくて」「厳格すぎ」「ほったらかしすぎ」であり「過干渉」だというのだ。親としての技術をみがき、「動機づけプログラム」を実行するよう助言も受けたが、悪いことをしたらしばらく椅子にすわらせる方法も、ごほうびのシール集めも、いうことをきかないとプレゼントがもらえなかったり遊びに行けなかったりするという約束も、ローレルの敵対的で乱暴な態度を一向に変えることができなかった。姉弟喧嘩をやめさせる方法だけは、誰も散えてはくれなかったのだ。ローレルにしてみれば、専門家が敢えてくれたのは両親が無能だということだけだった。「いまでさえ、こんなにいうことをきかないんですから、十代になったらどんなことになるんでしょうか」と母親は嘆く。
 こうした例は、わたしたちが問題児の扱いに失敗ばかりしていることを示している。子どもの攻撃性をありのままに見ようとしない。攻撃性が見過ごせないほどになっても、どんなレッテルを貼ればいいかとまどう。やっと攻撃性を把握したとしても、今度は解決方法が見つからない。対策の多くは親を教育しなおすことに重点がおかれ、なぜこの子は社会的に未発達なのか、両親と子どもの関係はどうしてうまくいかなくなったのかという問題は放置される。(p341-2)


この本ではCBT(認知行動療法)がべた褒めされているので、ここで批判されているのは心理というよりも、主に分析の方だろう。加えて家族や環境ですべてを説明しようとする者への明らかな敵意がある書き方がされている。