近世における奉公の変化

近世、江戸時代には移動の自由がなかったということはしばしば聞く(そのように書いている教科書もある)が、実際には移動の自由があった。本音と建て前の文化が移動の際にも使われ、奉公という形(一時期土地を離れる)をとる。そのまま生まれた場所に戻ってこない人もあれば、数ヶ月や数年で帰ってくる者もいる。

森嘉兵衛「近世農村年季奉公人の研究」
『岩手大学学芸学部研究年報』 10(1), 99-136, 1956-11-00  

近世の奉公形態が,厳密に譜代--質物--居消--年季--日雇と展開したものではない.又年季奉公の場合でも,債務的年季奉公から,純枠年季奉公に,更にその内部に於て前者は利付前借--利付前借--無利息前借へ,又後者が給料の全額前払制--一部前払--全額後払制と厳密に展開したのではない.これ等は地域的に比較して錯雑しており,同一村内に於ても,同一家の手形に於ても錯雑している.それにも拘わちず,一般的傾向としては,近世の奉公人は前述のような進展を見せていると言い得る.ここに近世封建社会に於ける農村構造の変質を,雇用労働組識の変質を通じて把握出来る理由がある.しかも雇用労働のこのような展開は,第1に労賃の高騰,商品経済の進展と結合して,奉公人給料による生活の可能と関聯し,第2には契約期間の短縮,労働の自由は,奉公人を土地及び身分的隷属から解放することと関係している.

封建的隷属関係から次第に労働力の売買へと変化をしていくようだ。18世紀にはいわゆる水呑百姓という石高を持たない百姓がおり、本百姓が減少していった。これは封建的制度の一つの特徴のように考えられるが、19世紀になりその数は減っていくようである。

同郡保日羽村の場合は,1716年(正徳6年〉から1868年(慶応4年)までの村内に於ける隷属人口を見ると,総人口の3.3%を占めていたものが, 30年後には11%に減少し, 70年後の天保6年には僅か1人となり,慶応長年にはOとなっている.下人中でも譜代的隷属下人と見られる水呑,名子・被官・門前の数は,雇用労務者たる下人数と比較すると, 1716年には隷属的下人は会下人中87%,30年後には71%に下っているが,依然圧倒的比率を占めている.それが共に天保6年にはOになっていることは,上述の諸村と同ーの現象で,本郡の一般的変質であった事を示している.

封建的隷属から労働力の売買に主軸が移っていくのは手工業の発達が関与していたと述べられている。

手工業の発展によって,農民が職人化し,商人化するために農村奉公人が減少していることを指摘している.東磐井郡も同様の事情にあったことは既に指摘した所であるが,最上紅花の産地では,栽培のために女子の賃労化が進み,奉公人減少の一因となっている

まとめ。

再言すれば,近世末期の年季奉公人は,完全に農地から遊離して賃銀だけで生活する労働者者となったのではなくて,零細な農地を経営しながら,兼業的に年季奉公人となったり,職人化したり,小作経営を兼ねる兼業的零細農化することによって,農村構造の変質に対応した.

奉公は当初は封建的な隷属であったが、賃金の上昇と兼業農家の増加(産業の多角化)によって、隷属的な性質を失い、労働力の売買へとその姿を変えていったようだ。その変化は18世紀後半から19世紀初頭にかけてのことのようだ。