奉公人の給金の男女格差

近世の関東畑作農村における雇傭労働の変質過程 : 武州平山村・斎藤家の年季・日雇奉公人を中心に  
青木 美智子 
社會經濟史學 51(4), 455-489, 584-585, 1986

武州平山村・斎藤家の年季・日雇奉公人の給金について年代別にその特徴をあげた論文。
もちろん、斎藤家という一つの家の給金の推移なので、この結果がそのまま日本全体に当てはまるわけではないが、歴史学実証主義というのはそもそもそういうものなので、他の地域の論文を読み合わせて日本全体の傾向をつかむことが重要である。

さて、まず寛政〜文化期。

給金高の推移をみると寛政期に男性と同時的に上昇し、文化期以降は特に実質給金が急騰する。文化期中頃には女性給金の対男性比は九一・五%という高値を示すのである。

この91.5%という値はかね(38歳)という特殊な技量の持ち主によって引き上げられた値であって、実際には女性の給金は男性の80.3%程度であったという。相場としては「悪くない」という気がする。つまり、力作業が多い農業を中心とした産業において女性の労働力の売価が男性に比べてさほど低くないということだ。

天保期以降になると家族内の男性労働力の減少によって(1)無理を押しても一定の男性奉公人を確保すること、(2)そのうち最低一人は作業責任を果せられるような有能な奉公人であるこ、の必要性がさらに大きくなった。全般的に男性給金が上昇傾向を示すことと併せて、経験や技量豊かな壮年の男性奉公人の給金が急騰し男性間の給金較差が拡大するのはそのためであろう。ところが女性の実質給金の方はしだいに低落し、男女の給金較差は従来にないほど拡大して、対男性比は三〇%台になるまで落ち込む。開港後、関東畑作農村での一般的状況として養蚕・糸とりに従事する女性の給金は高騰した。ところが斎藤家では文久年間に一時的に養蚕に関わるものの、横浜と直結した養蚕業を拡大するととができなかったから、女性奉公人は相変わらず「作奉公」に留まった。


天保期には男性の給金の30%台まで下落している。それは養蚕産業に乗れなかったためだとしている。養蚕産業は叩かれることが多い(ああ野麦峠など)だが、女性の給金を高騰させ、男性の給金に近づける、もしくはそれを超える給金を発生させていた。もちろん農村での働きが楽なわけではないので、養蚕産業は女性の労働力の価値を男性並に近づけた産業だと評価した方がよいだろう。


次に男性労働者の労働力売買のルールが次第に明確になるという話。

天明期頃に住じた若干の変化は、寛政期に入ると促進され、商品経済の進展に伴う奉公人の貨幣要求と購売願望、斎藤家の経営の経理的厳密化とあいまって、給金支払(請取)方法は大きく変化し、それと同時に休日の扱いも厳密を期するようになるのである。そのため雇傭主は、労働条件から給金支払状況・貸金高、休日の種類や日数・理由等に至るまで詳細に帳簿に記載するようになるが、一方、奉公人の中にも「給金受取帳」を作成して自分の給金高を確認する者もでてくる。

天明期に現在の雇用条件が明確になるようだ。その原因はやはり商品経済の発展によるものであったようだ。18世紀の農業資本主義の成立のこでは、労働者を身体的隷属から抜け出させるほどの力は無かったと考えられる。近代的な雇用条件の明確化といっても、日本型経営のモデルの一つとして終身雇用制度という身体的隷属の項目があったが、天明期の労働とさほど違うかというと似たようなものでは、という気もする。

もう一つ重要なのは、奉公人自身が「給金受取帳」を作成していたということだ。つまり、読み書きと計算が出来たということである。


そのような変化はあるものの、男性に限ってのことであったと筆者は指摘している。

文化期以降になって、女性の待遇の変化は非常に緩慢にささやかなかたちで進んだ。農作業への進出が現実的なテコとなって女性にも遊日が保障され、給金のごく一部を小遣銭として渡される者も現れて、幕末期頃までには形式的には男性とほぼ同一の待遇に近づいていく。しかし、それでも尚、女性給金は原則としては人主に渡されたのであり、奉公人の手元に直接渡された額はあまりにも少なかった。休日にしても、遊日があったとはいえ、男性と全く同等であったとは認め難い。男性が着実に賃労働住を強めていく時、女性は男性と近世の関東畑作農村における雇傭労働の変質過程同様に「作奉公」に従事しながらも、依然として身体的・経済的拘束が強く、実質的には男女差はかえって拡大していくのである。このように、寛政期以降に実質的な意味での男女較差が拡大していく乙との理由として、まず、男女奉公人の年令差が挙げられよう。寛政期以降の奉公人の年令をみると、男性の多くが20代から4O代であるのに対し、女性は1O代後半〜2O代前半が圧倒的に多い。年令的にみて女性の方が、親や雇傭主の拘束を受けやすかったといえよう。また、男女とも「作奉公人」であったとはいえ、労働内容や経営内での男女の位置や役割には一定の相違があった様子で、女性の方が雇傭主から日常的な拘束や指図を受けやすい立場にあったものと思われる。さらに本質的には、近世間有の女性観に基く社会的規制力と、寛政期以降急速に展開された合理的経営観との関連を挙げるととができよう。近世の「男尊女卑」や「家」思想とそこに立脚する親権や当主の家長権などは、生きる事さえ覚束ない奉公人放出層や奉公人自身にとっては、さしたる力を持たなかった。しかし「家」思想が、女性に対する抑圧と差別を強化しながら定着していった時、慣習化した女性観は奉公人をも強く規制することになった。相変わらず給金は親が前請し、わずかな小遣銭の用途は衣類の染賃等に限定されて、使いに出なくても良いように日常の消耗品は雇傭主から現物支給される場合が多かった。


雇用の形態自体は男性と女性は同じようになってきたが、そもそも「家」制度(つまり奉公に出す親)によって搾取されていたとのことである。文化期というと1804年からなので、19世紀になって男尊女卑の思想とともに、男女の収入格差を生み出すようになってきたようである。ちなみにこれは年季奉公の場合である。

もはや一年季の給金は一年間奉公人を丸抱えする代価としてではなく、奉公人の日々の労賃=日雇賃の年間累積高とみなされたのである。こう
して年季奉公人は、多分に前近代的性格を有しながらも寛政期以降には、労働の一居傭契約に基いた給取奉公人としてしだいに賃労働性を強めていく。その際、奉公形態や奉公人の待遇等の変化は、まず男性奉公人に現れ、その後非常に緩慢に女性奉公人にも及んだ。しかし依然として男女差は大きかった。幕末になるほど実質的な差違が拡大していくことからみて、男女差は、本質的には、封建的女性観と合理的経営観の相乗的作用に起因するところが大きいのではないかと思われる。
一方、天明期に出現した日雇は、当初から賃労働性の高い奉公形態であった。一日の労働力のみが間われ、雇傭主の拘束力他に及ばなかったし、日雇賃は日雇自らが受けとった。この現象は化政期に女性日雇が多出した場合にも変らなかった。日雇奉公人の場合は労働内容と労賃以外には男女の差違は認められないのである。


日雇いは男女ともさほど変わらないものだったが、年季奉公の方は、幕末になるにつれて男女差が次第に広がっていったようである。封建的女性観と資本主義が結合していくのである。