学制の発布による小学校の設立

梅村 佳代
近世後期〜明治初期、但馬地域の教育の歴史的考察--出石藩の藩校から「学制」期の小学校創設までを対象として  
奈良教育大学紀要 人文・社会科学 56(1), 1-12, 2007-10-00 


まずは、民衆の手習による社会的な変化から。

民衆が文字を獲得し、そのことが新たな変化をもたらした。まず民衆は農事書を学習することにより生産用具の改良や農業技術を改善したり、肥料の工夫を試み、農業生産力を向上させてきた。そのことにより農民は生産への意欲を喚起したであろうし、余剰の経済力も徐々に高めてくることとなった。さらに連動して農村内の村方役人の不正を糺したり、年貢に関しての計算方法を自ら行って間違いを発見したり、村内の改革を促すこととなり、幕末には村方騒動へと発展させてきた。これらは小農民の主体的力量が著しく向上したからである。

こうして幕末頃には男児女児にかかわらず村のどの子も六歳から七歳ころになると手習い稽古に入門し読書もおこない、ある子は家業を継ぎ、他の子は年季奉公のため都市に出て働いた。女子は修了すれば裁縫塾や芸事、礼儀作法などが躾られた。このような民衆による文字獲得は近年の研究により文字社会としての近世社会の基盤を形成した。農村内の多数の小農民が文字を学習し、文字の学びが読書文化の階層を形成することとなったということは通説化されつつある。

17世紀から幕末へかけてのざっくりした変化が記述されている。梅村の指摘するように、農村における文字の学びがいまだに通説となるにはもう少し時間がかかるかもしれけない。


明治に入り、学制が発布されると寺子屋・手習塾が基礎となり、村の有力者が動く形で小学校が作られていく。
下記は但馬地域の伊福学校のデータである。

男女別の就学率をみると男児総数に対する入学男児比率は53.8%、同じく女児は18.5%である。男児は学校創設当初で半数以上の就学者があった。しかし女児は18%という二割にも達していない。女児の就学の低さが全体の就学率を低調にしているのも全国的な傾向である。

等級制により半期毎に八級から一級に昇級することとなるが7年12月15日に入校した八級生徒7人、六級生徒10人、五級生徒は6人、三級生徒1人が判明しているが、三級生は翌年二月には退校している。この時期の入退学は頻繁であり日々出席率は低く在学期間は不確定である。

どうやら小学校に入ると、そのままずっと学生を続けるといったようなものではなかった。頻繁に学生の出入りがあり、かつ出席率がそもそも低かったようだ。


1970年代に中学校・小学校への長期欠席率が1%台になり、誰もが通う義務教育となるのだが、最初の小学校は今想像する学校とはかなり異なっていたようだ。