幕末期京都の人口構造

浜野 潔 
幕末期京都の人口構造とライフコース  
關西大學經済論集 56(4), 383-402, 2007-03-00 


この論文では幕末京都(1959年まで)の出生率を推定するという趣旨のものである。その際に使用されているのはchild-womanratioという指標である。

京都のように移動率が非常に高いところでは、正確に京都市内で出生した者を確定することは困難であり、通常の宗門改帳のように出生率を計算することは難しい。そこで、出生率の簡便な推定方法として静態人口統計からchild-woman ratioを求める方法が考えられる。

京都は大都市であり、奉公人を含めて人口移動がきわめて高いため、宗門帳で人口移動を推定するができない。その代替指標がchild-woman ratioというものである。


child-woman ratioは以下のように定義される。

{child-woman ratio}={Age_{1-5}}/ {Female_{16-45}}\times{100

サンプルでは数え年5歳以下の子供は195人であり、数え年16-45歳の女子(奉公人を含む)は588入であるので、child-womanratioは、195/588*100=33.2と計算される。この指標を最近、黒須ほか(2005) によって計算された近世の農村の事例と比較する

興味深いことに、京都町方のchild-woman ratioは、近世農村の事傍よりも高くなっており、一般的な予想とは逆に出生率が高かったことを示唆している。京都の場合、11-25歳の年齢階層では女子の奉公人がかなりの数に上り、その中には農村などからの一時的移動がかなり含まれていることが予想される。奉公人の流入があると分母がその分だけ大きくなるので、child-womanratioは引き下げられるはずである。それにも関わらず、京都のchild-woman ratioが農村の値を上回るという結果は、京都の出生率水準が意外に高かったことを示しているように思われる。ただ、し、史料として選んだ、期間は、安政年聞の人口増加期産後の時期であり、一時的な出生率上昇を反映している可能性も否定できない。仮にそうだとしても、都市の出生率は農村よりも低いというイメージは再検討すべきであろう。

出生率を示す指標としてを計算すると農村の平均値よりも高い値が算出された。つまり、近世京都の出生率が予想に反して高かった可能J控が示された。これは非常に重要な指摘だと思う。一般的には都市よりも農村での方が出生率が高いと考えられてきたからである。


次に見るのは有配偶者率である。

有配偶率は女子の場合、16歳以降、男子の場合、21歳以上で上昇を始め、女子は31-35歳で、男子は46-50歳あたりで80%近くに達しピークを迎える。女子は30代後半以鋒、抵下を始めるが、これは記弱者との死別が増加したことを意味しており、50代後半には加速する。

速水(1973) は平均結婚年齢が求められない場合、近似的な値としては、有配偶率のピーク値の50パーセントになる時の年齢を求めるべきだ、ろうと述べており、この値を使って農村との比較を行なうことは可能だろう。

男子の場合28歳あたり、女子の場合23-24歳あたりと推定することができる。ちなみに西條村のこの誼は男子が29.5歳、女子が21.3歳となっており、明らかな再婚を除く平均結婚年齢とプラスマイナス1歳の差に収まっていた。京都の場合もこの値を初婚年齢に近い値として、ひとつの自安と考えることは可能と思われる。

ライフコースについて。
地方からに来た奉公人はある時期がくると京都を離れる。ここでライフコースと書かれているのはどちらかというと、京都に生まれて、京都で奉公した者のことである。

図7、図8は、戸主との続柄別人口を10歳刻みの年齢ごとに示したものである。男子の場合、10歳以下はほとんどが戸主の「倅」としてスタートし、年齢が進むにつれ奉公入、戸主そして父というようなコースをたどることが読み取れる。なお、31歳から60歳までのカテゴリーのほとんどが戸主で占められていることは、戸主になる年齢が比較的若いことを示唆している。 一方女子は、同じく戸主の「娘」でスタートし、奉公人、妻を経て、41歳を過ぎるころから母になるというコースを描くことができる。

******************************************


この論文のサンプルは開国により本務的な貿易の始まる1859年の前と後では人口趨勢に大きな変化があることが予想されるので、史料の上限を1859年としてある。

奉公人の地域分布は男女で異なっていたようだ。

つまり、上京では女子の奉公人が男子の倍の人数となっているのに対して、下京では逆に男子の奉公人が女子の3倍と、極端な違いが認められる。この違い誌上京のように西障を中心iこ繊維工業が発達している場所ではより多くの女子労働力が選好され、下京のように三条通四条通界隈に多くの商家が立ち並ぶ場所では男子労働力が選好された結果と思われる。

京都でも繊維工業の奉公人は女性であり、商業の中心地では男性であったとのこと。

奉公人が少なかった地域もあり、それは南西条町であったようだ。

唯一の例外は南西条町であり、メインストリートのひとつ、四条通にごく近い場所にありながら奉公人人口比率は1.9%に過ぎなかった。

図3は5歳階級にまとめた入口ピラミッドである。一見して明らかなのは青年層の部分が男女ともに突出していることである。

突出した部分は奉公人の分である。

奉公人の年齢は性別ごとにやや異なる。男性に比べ女性の年齢が低いのは近世を通しての特徴である。男性が30代になっても奉公をするのは、大店の下働きのみである。

男子奉公人の場合、最年少は10歳(2人)であり、15歳がもっとも多い年齢となっている。それ以上の年齢ではどんどん人数が少なくなるが30歳(4入〉と31歳(1人)の間には断絶がるるように見えるo 31歳以上の男子奉公人は全部で5人だけであり、衣棚北町か衣梅南町に住んでいた。すなわち、31歳以上の奉公人が存在する町は特殊な場所であり、具体的には大店といわれるような大高家のある町に限られていたのである。この5人の内訳は、手代が3入、下男が2入であった。手代はすべて小者から昇進した者であり、最高齢者は衣槻南町の手代万助59歳である。一方、下男は昇進を前提とせず、主に下働きを勤める者をさしており、衣棚北町の六助35歳が最高齢者であった。
一方、女子奉公人の場合、最年少は11歳(2人)であり、17歳がもっとも多くピークとなる。女子の場合も26歳と27歳の聞で断絶があり、これ以上の年齢では奉公人は極端に少ない。ちなみに最高齢の女子奉公人は吉水町の66歳の下女であるが、こうした高齢の下女は例外であって他の女子奉公人はすべて40代以下であった。

多くの男子奉公人は年季が明けると京都を離れたということを示唆している。なお、26-35歳のあたりで少し性比が上昇するのは、出産に伴う死亡の影響を示しているのかもしれない。