デュルケムの契約の非契約的要素

ci.nii.ac.jp

流王貴義さんのデュルケムの議論。

本稿は「契約における非契約要素」とは契約法である,との解釈を提示する.

僕はデュルケム研究者ではないので、あまりよく知っているわけではないが、このタイプの解釈は初めて見た気がする。

契約の非契約的要素

契約における非契約的要素とは「『社会分業論』におけるスペンサー批判の論点を,パーソンズが定式化したものである(Parsons[1937]1949: 311-4, 19)」。スペンサーにとって契約とは私的な利害追求であることが多く、私的で自由な合意だとしたことに対して、デュルケムは契約は契約だけでは成立しないとした。

契約を交わしてもの条文や約束の文言自体に規則を守る効力はない。規則の以前に個々人が規則を守る前提のようなものが必要である、というのが、契約における非契約的要素である。契約における「前」契約要素と言うこともある。

流王さんによると研究者の解釈は3つに分かれるという。

1つ目は,集合意識として理解する見解,具体的には,「契約に対する社会的規制力」(杉山 1988: 81),「集合意識の規制力」(鈴木 1990: 67),契約の両当事者が備える「『神聖なもの』『畏敬の念を引き起こすもの』である『人格』という『属性』」(巻口 1999: 104)という理解である.
2つ目は,個々の契約に先立つ連帯として理解する見解,具体的には,「契約に先立つ連帯」「信頼」(Collins 1982:12),「契約の相手方への信頼」(中島 2001: 53)という理解である.
3つ目は,契約に拘束力を与える社会的規制と考える見解, 具体的には,「拘束力を与える一群のルール」(Parsons[1937]1949: 311),契約に「拘束力を与え,その実施の条件」(Lukes 1973: 146)を定めるもの,「分散している社会諸機能が調和的な協働を維持するための『固定性』あるいは『規則性』の確保」(芦田 1981: 91-2)を目的としたサンクションという理解である.

個人的には2つ目の解釈に近い感じで読んできたように思う。

1つ目の人格崇拝解釈はデュルケムは確かに人格崇拝について述べているが、後世の研究者が切り取って発展させた印象が強い。デュルケムにとっても主たる関心ではなかったはずで、デュルケム研究としてはあまり関心を持てない解釈である。

2つ目のコリンズら解釈について、「この理解は『社会分業論』の内在的な読解から引き出されたものではない」という指摘を流王さんは行っているが、この点はまったくその通りだと思う。

この解釈は『分業論』以降の著作を併せて解釈したものである。『自殺論』以降の著作であれば、どの著作でも議論可能だと思うのだが、後期の『道徳教育論』が最も理論が定式化されているように思う。『社会分業論』では、道徳の第1要素である「規律の精神」は道徳の第2要素である「社会集団への愛着」を前提とすることによって成立すると論じられている。

われわれは前回の講義において,道徳の第二要素を決定したが,それは,個人が,所属する社会集団にたいして愛着することにあった.道徳性は,われわれが何らかの人間集団の一員となるというだけで,すでに生ずるものである.じっさい,人間は,いくつかの社会に同時に属することによってのみ完全となるように,道徳性自体もまた,われわれが,自己の組入れられている様々な種類の社会(家族・同業組合・政治結社・祖国・人類)に連帯感を持つことによって,はじめて完全なものになるのである(Durkheim 1925=1964 : 上115).

道徳の第2要素である「社会集団への愛着」はコリンズ的に言えば「契約に先立つ連帯」であったり「信頼」に相当する。

しかし、3階建ての理論もありうるかもしない。道徳の第2要素の集団への愛着があり、それが前提となって、道徳の第1要素である「規律の精神」が成り立ち、それを前提として、契約が守られるようになっているという3階建てなのかもしれない。であれば、2階にあたる規律の精神は、上記の3つ目のパーソンズらの解釈である「契約に拘束力を与える社会的規制」ということになる。

このようにレイヤーを増やしていくと、パーソンズ解釈でも良い気がするが、いずれにしろ『社会分業論』に限定したテキストの解釈としては妥当性に欠けるだろう。

「契約の非契約的要素=契約法」説

鍵となるのは,先に挙げた引用文の理解である.契約に法的保護が与えられるには,「一定の条件を満たしている」(194)必要があるとデュルケムは考えている.ではなぜ「契約当事者間の意思の一致」(194)が「一定の条件」を満たしていれば, 契約と認められ,法的保護を受けられるのか.それは,この「一定の条件」を満たす契約は,「社会的価値を持っている」(82),即ち「社会的諸機能の調和的な協働」を害さない,と評価されているからである.ではどのようにすれば契約の社会的価値を判断できるのか.デュルケムが提示するのは,「法的規則(règlesdu droit)に合致」(83)しているか否か,という基準である.この「法的規則」こそが,本稿が「契約における非契約的要素」の内容であると解釈する契約法である.
(中略)
合意であれば何であれ拘束力を認めるのではなく,社会的諸機能の調和という見地から,法的保護の付与されるべき合意に限定を掛ける必要性こそ,個々の契約に対する契約法の積極的な規整としてデュルケムが考えていた役割なのである.

流王さんの試みは旧来の解釈にレイヤーを差し込んで、デュルケムの契約法に関する理解を深めるものに思えた。このあたりの議論はまだまだ可能性があるため、いろいろと読んでみたい気がした。