先日の「ゲーム依存症対策関係者連絡会議」で久里浜医療センターの樋口進さんがWHOはゲーム時間を1時間以内と推奨するガイドラインがある趣旨の発言があった。
スライドにも該当する内容が書かれている。
このWHOのガイドラインについてはGigazineが日本語で紹介している。
やや不正確なところはあるように思うが、僕が知る限り、当時、日本語で紹介したのはGigazineだけである。
実際にWHOガイドラインとはどんなものかみてみよう。
WHOガイドラインとは何?
定訳はないが日本語にすると『5歳未満の子供の身体活動、座って行う行動、および睡眠に関するガイドライン』(Guidelines on physical activity, sedentary behaviour and sleep for children under 5 years of age)である。以下WHOガイドラインと略す。
1-2歳の推奨行動
1-2歳の子どもは、
身体活動
1日を通して、中程度から激しい強度の身体活動を含む、いろいろな身体活動に少なくとも180分費やすべきである。多いほど良い。
座わって画面を見ている時間
一度に1時間以上(乳母車/ベビーカーなど)で拘束されたり、長時間座らないべきである。1歳の場合、座わって画面を見ている時間(テレビやビデオの視聴、コンピューターゲームのプレイなど)は推奨できない。2歳以上の場合、座わって画面を見ている時間は1時間以内でなければならない。少ないほど良い。座っている時は、育児者と一緒に読書や読み聞かせを行うことが奨励される。
質の良い眠り
座りがちなときは、育児者と一緒に読書や読み聞かせを行うことが奨励される。
通常の睡眠と起床時間で11〜14時間の質の高い睡眠をとるべきである。これには仮眠が含まれる場合がある。
3-4歳の推奨行動
3-4歳の子どもは、
身体活動
1日を通していろいろな身体活動に少なくとも180分を費やし、そのうち少なくとも60分間は中程度から激しい強度の身体活動であるべきである。多いほど良い。
座わって画面を見ている時間
一度に1時間以上(乳母車/ベビーカーなど)で拘束されたり、長時間座らないべきである。座わって画面を見ている時間。少ないほど良い。座っている時は、育児者と一緒に読書や読み聞かせを行うことが奨励される。
質の良い眠り
通常の睡眠と起床時間で10〜13時間の質の高い睡眠をとるべきである。これには仮眠が含まれる場合がある。
WHOガイドラインはゲーム時間を規定したものではない
WHOガイドラインのタイトルにもあるように、子どもの身体活動、座る時間、寝る時間について書かれたものである。ゲーム時間について規定したものではない。WHOガイドラインは子どもが座位で長時間過ごすことによる健康上の問題について定めたものである。
ゲームが登場するのは、ゲームはほとんど場合座ったまますることが多く、ゲームをすることで座った姿勢でいる時間が長くなるという理路である。
ちなみに、WHOガイドラインが示す例示で最初に書いてあるのはゲームではない。最初はテレビ視聴であり、次に書いてあるのはビデオ視聴である。コンピューター・ゲームは3番目の最後の例示である。インターネット、タブレット、スマホについて書かれているという情報もウェブ検索では出来るが、要旨も含め本文においても言及はない。
樋口さんのスライドでは、この座位時間の健康への影響について書かれたWHOガイドラインをゲーム依存の文脈で引用しており、適切性にかける。WHOガイドラインがテレビ・ビデオ・ゲームの順番で例示をしているにもかかわらず、3番目のゲームだけを引用してくるのは恣意的である。また、樋口さんのスライドには「ネット・ゲーム等のスクリーン時間」と「ネット」が含まれているが、本文も含め「インターネット」については書かれていない。WHOガイドラインの原版を読んだとは思えないくらい杜撰な引用である。
健康と寿命に関する研究
WHOガイドラインの趣旨は子どもはあまり長時間座ると健康に良くないという趣旨で書かれており、座位を長引かせる可能性のあるテレビ、ビデオ、ゲームは1時間以内が望ましいと書かれてある。
WHOガイドラインが推奨したところで、現代社会、特に都会で生活する子どもがWHOガイドラインのように日々を過ごすのは難しいかもしれない。このエントリの目的はWHOガイドラインとその意味するところを明らかにすることなので、WHOガイドラインが現実的かは措いておこう。
WHOガイドラインの背景にある研究と思想的な対立を押さえておいた方がよさそうだ。
座って行う行動と死亡率に関係がある(成人)(Po-Wen et al. 2018)
成人なおける座位時間と健康に関しては非常に多くの論文が書かれている。上の論文もその中の一つに過ぎない。
この話題はGigazineでも定期的に記事にされている。例えば以下の記事である。
サイト内検索をかけると別の記事も見つかるはずである。
成人に関しては座り過ぎは良くないようである。とはいえ、オフィスワーカーで9時間以上座っている人など、比較的長い時間の座位であり、WHOガイドラインで出てくる1時間とは長さが違い、大人と子どもという違いもあるため、大人での結論をそのまま小児に当てはめることができるかとは限らない。
座って行う行動の発達への影響(0-4歳) (LeBlanc et al. 2012)
小児期のレビュー。テレビ視聴の増加が肥満と関連し、心理社会的健康および認知発達の測定値のスコアが低下するが示唆とされている。
WHOガイドラインの研究上の妥当性
研究では、座って行う行動と健康の関係性は一致した結論が得られていない分野である。
テレビ視聴は肥満と関係するが、ゲーム・パソコンは関係が薄い(Rey-Lopez et al. 2008)
座って行う行動と肥満の関係。ビデオゲームやコンピューターは、テレビを見るのに比べてそれほど高いリスクではない。
座って行う行動と肥満には関係がない(Biddle et al. 2017)
小児および青年における座りながらする行動と脂肪過多症との関連は非常に小さく、この関連が因果関係であるという証拠はほとんどない。しかし、若者の座りがちな行動と肥満の間の「明確な」関連性、そして確かに因果関係の主張は、時期尚早であるか、誤った見方である。
子どもの座る時間と画面を見る時間には関連がない(Belinda et al. 2019)
子どもの座る時間と画面を見る時間には関連がなかったようである。一言でいうと、テレビやゲーム時間を制限しても、子どもの座り過ぎを改善することはできないということだ。
最近の研究動向では、WHOガイドラインの主張は否定されつつある。関連があるのは身体活動(運動)と睡眠が健康上の関係があることは支持されるに留まり、座って行う行動と健康被害の関連は支持されていない。
つまり、1) テレビ・ビデオ・ゲームをしていても、それらは座位時間とは無関連、2) 運動・身体活動の時間をコントロール要因として分析に加えると、座位時間の健康被害はないという結果となっている。
テレビと子育て
子どもがテレビなどのスクリーンを見ることを問題視するのは、今に始まったわけではない。最も社会問題として熱く議論されたのは1970年代である。
The Plug-In Drug: Television, Computers, and Family Life
- 作者:Marie Winn
- 出版社/メーカー: Penguin Books
- 発売日: 2002/05/01
- メディア: ペーパーバック
Marie Winnによって1977年に書かれた有名な著作である。drugというのはテレビのことである。子どもがリモコンで簡単にドラッグに接続する危険性が表紙で表現されている。
上のリンクの表紙は2002年に25周年の改訂版のものであり、インターネット、コンピューターについてテレビ以上の批判が展開されている。
同年1977年に日本でも岩佐京子『テレビに子守をさせないで』という本が出版されている。
テレビに子守をさせないで―ことばのおそい子を考える (1976年)
- 作者:岩佐 京子
- 出版社/メーカー: 水曜社
- 発売日: 1976
- メディア: -
『テレビに子守をさせないで』は「自閉症の原因はテレビ」といったトンデモ本である。よく解明されていない精神障害をテクノロジーのせいにするのは今も昔もあまり変わっていないのかもしれない(参照: 「学習障害や発達性多動障害はゲームが原因」大山一郎香川県議 - 井出草平の研究ノート)
当時はテレビの子育てへの有害性は大きな社会問題であった。
WHOガイドラインの評価
WHOガイドラインの引用文献はかなり恣意的である点は指摘しておくべきだろう。座って行う行動と健康・発達が関係を指摘する論文ばかりが引用されており、異なる見解を支持する論文は一切参照されていない。
国際機関のWHOの出すものだから信用が置ける、というのは大きな誤解である。診断・治療などの医学の中心的なテーマであれば信頼度は高いが、WHOによって出されているガイドラインにも科学的なものもあれば、政治的なものもあれば、思想信条の影響を受けたものも存在する。WHOという名前で判断せずに、周辺の論文や研究をみて、妥当性を吟味するという通常の論文の評価と同じ作業が必要である。
久里浜医療センターの樋口さんはゲームの文脈でこのWHOガイドラインを引用しているが、WHOガイドラインのターゲットはゲームではない。ゲームも当然ターゲットであるが、この分野での研究で問題になっているのは主にテレビ視聴時間のリスクであり、研究の歴史からも近年の研究動向をみても変化はしていない。
勘の良い人であれば「本の読み聞かせがよい」と書かれてある時点で、純粋に科学的な見地からではなく、子育て論が含まれていることに気づくかもしれない。
今後このWHOガイドラインがどのようになるのかは短期的な予測は難しい。思想信条が含まれ、かつ、対立意見を含めないという偏狭な文章であるため、WHOのガイドラインを誰が書くのかという政治的要因に大きく影響されるからである。ただ、中長期的には座位に関する記述ガイドラインから削除され、運動と睡眠を推奨するガイドラインへ変化する可能性が高いと個人的には予測している。
WHOガイドライン作成の経緯
WHOガイドラインの制定の前段階としてカナダで同様のガイドラインが作成されている。
https://csepguidelines.ca/early-years-0-4/
内容はWHOのものと酷似している。
またWHOガイドラインに先立って、2018年にはエビデンスレビューが同じグループから出されている。
https://apps.who.int/iris/handle/10665/277355
どのような過程でどのような人物がWHOガイドライン作成に関わったかまでは詳しくないので分からない。