井出草平の研究ノート

ブルデュー『ディスタンクシオン』輪読会第26夜 覚書

階級脱落と再階級化の弁証法的関係

あらゆる種類の社会過程の原理になっている階級脱落と再階級化の弁証法的関係は、関係しているすべての集団がみな同じ方向に、同じ目的に向かって、同じ特性をめざして走っているということを前提とし、また要求する。その定義からして後続集団には到達することのできぬものである。なぜならそうした特性はそれ自体どんなものであるにせよ、他の集団から先頭集団を分かつ弁別的稀少性によって限定され特徴づけられるものであって、その数が増加し一般に広まってゆくことによって下位集団にも手の届くものになってしまうやいなや、それらの特性はもはや本来の姿のままではなくなるであろうからだ。だから一見逆説的なことではあるが、秩序=順序の維持、つまりさまざまな隔差、差異、順位、席次、優先権、独占権、卓越性、序列的特性、したがって社会形成にその構造を与えるさまざまな順序関係の総体の維持は、実体的な(というのはつまり関係的ではない)諸特性の絶えざる変化によって保証されているのである。


このメカニズムを理解すること、それはなによりもまず、永続か変化か、構造か歴史か、再生産か「社会の産出」か、といった学問上の二者択一をめぐって生じる議論のむなしさを知ることである。こうした議論は実際のところ、次のような諸事実を根本的になかなか容認することができない。すなわち、社会的矛盾と闘争はかならずしもつねに、既成秩序の恒久化と相容れないわけではないということ。「二項対立的思考」の対照法を超えて、永続性が変化によって、恒久的構造が運動によって、それぞれ逆に保証されることもありうるのだということ。(pp.254-255)


このメカニズムを理解することは、基数的〔基本的・実体的〕と呼ぶことのできる諸特性を根拠として労働者階級の「ブルジョワ化」を口にする人々も、序数的〔序列的・相対的〕な諸特性をもちだして彼らに反駁しようとする人々も、自分たちのとりあげている現実のたがいに矛盾した側面が、じつは同じひとつのプロセスの切り離せない側面なのだということに気がつかないという点では、明らかに共通しているということを理解することでもある。(p.255)

今回は主催の先生が体調不良でお休みだったので、こちらは次回へ持ち越し。
ブルデューマルクスの補完的な理論展開をしているという流れの部分の一つ。

進化論者

(進化論者のたてたモデルが意味深いものであることがわかる)(p.253)

特定はできないがハーバート・スペンサー
スペンサーはあまり勉強していないので、よくわからない。

クレジット

このシステムがクレジットによる購入という方式に大きな価値を認めているのは偶然ではない。(p.253)

差異化の中で先行者に追いつくために、クレジット払いで今買えないものを、買っていくという表現。
高度経済成長下ではインフレが起こり、借金をしても額面はそのままに実質的には減額されるため、利息は負担にはならない。経済システムだけで考えても、様々な購入を促すような動きになる。
ブルデューは経済的側面については触れておらず、差異化に用いるチート的なツールとして「クレジット」を持ち出している。

ブルデューの記述からは逸脱するが、経済と文化はある程度、共犯関係にあるということ、成長とインフレが背景にあるからこそ、差異化の動きが活発化するのではないか、と読書会ではこの部分は読んだ。

ブルデューが『ディスタンクシオン』を出版した1979年から時代は大きく変化した。
経済成長が安定化し、日本では特にこの20年あまりのあいだ、デフレの期間が長く、差異化のチートツールであるクレジットが使いづらい状況が続いた。そういう時代では単線的な「正統性」を皆で追いかける差異化の運動は起こりにくく、価値観の多様化が進んだのではないか、というようにも読んだ。

「正統性」はある程度存在はしているものの、山は一つではなく、いくつもの山があり、それぞれの差異化が生じるようになったのではないか、という話をした。

余談、サブカルしぐさと差異化

サブカルしぐさ」の話をしつつ、僕が「下北沢って何がいいのかわからなかった」と言ったので、下北とはなんぞや、ということをメンバーからいろいろと教えてもらった。

後々、思ったこと。『花束みたいな恋をした』の麦と絹(主人公たち)は修羅の世界で生きているのだろうか、とやや怖くなった。互いが好きなコンテンツが不思議なくらい多かった二人だが、コンテンツの消費は差異化のメカニズムによって増大・高度化していくので、2人のあいだでも差異化は生じていたのだろう。

eiga.com

2人は京王線の府中と飛田給に住んでおり、明大前で終電を逃すところから物語が始まっている。明大前にいたのでは明大の学生なく、明大前はサブカルの人たちの生息地だからだろうと理解していた。例えば、下北沢歩いて行って、 本多劇場スズナリで演劇でも観ているのかなと勝手にイメージしていた。東京のサブカル好きの人たちの文化と動線についてよくわかっていないので詳しい人に確認してみたくなった。

方法論的全体主義

ある人々の行為はあらゆる相互作用や波及作用の外で、ということは客観性のなかで、集団的・個人的支配統御の外で、そして多くの場合は行為者の個人的・集団的利益に反して他の人々の行為にさまざまな外的効果を及ぼすが、そうした効果によって統計的にしか合計されない作用や反作用を通して、この社会構造の再生産は実現されうるのだ(注43)(p.255)。


注43 こうした統計的行動プロセスの最たるものは、パニックや、戦闘における潰走のプロセスである。これらのプロセスにおいては各行為者が自分の恐れている効果によって決定される行動をとってしまうことで、かえって自分の恐れているものに加担する結果になるのだ(財政上のパニックのケースがそれである)。これらすべての場合において、たがいに連関していない個人行動の単なる統計的総括にすぎない集団行動は、集団の利益にも、また個人行動が追求している個々の利益にさえも還元できないような、あるいはそれらに背反するような、集団的な結果に至ってしまうのである(このことは、階級の将来についての悲観的な見通しがその階級に属する人々のやる気を失わせ、階級全体の下降へとつながってゆくようなときにはっきり見てとれる----つまり下降階級の人々は数々の行動によって集団全体の下降に加担してしまうのであり、たとえば職人層が学校教育制度にたいして、若者たちを本来つくべき職からそらせてしまうものとして非難を加えながらも、自分の子弟にはちゃんと学業を修めるようにさせようとしたりするケースがその例である)。(p.428)

方法論的個人主義ではないものがあるという記述である。
フランス社会学だけにというか、デュルケームの「集合意識」「社会的潮流」的な話である。
ただ、意図するところは、文意としては、マートンの「逆機能」とか「意図せざる結果」といったものに近いことが書いてあるようだ。

3章 ハビトゥス生活様式空間

切りの良いところで終わらず、だいたい1回10ページは進むことを目的にしている会なので、そのまま続行。

ハビトゥスとは

ハビトゥスとはじっさい、客観的に分類可能な慣習行動の生成原理であると同時に、これらの慣習行動の分類システム(分割 principium divisionis)でもある。表象化された社会界、すなわち生活様式空間が形成されるのは、このハビトゥスを規定する二つの能力、つまり分類可能な慣習行動や作品を生産する能力と、これらの慣習行動や生産物を差異化=識別し評価する能力(すなわち趣味)という二つの能力のあいだの関係においてなのである。(p.261)

比較的重要な部分。

それはさておき、「趣味」という訳語は少し気をつけなければいけない。原文は"goût"であり、第一義には「味」「味覚」だが、もう少し多様な意味を持つ。例えば、仏仏辞典には次のような意味が掲載されている。

www.larousse.fr

  1. 五感のひとつで、食べ物の味や成分を知ることができる。
  2. 何かの味、味覚で認識できる特性 。
  3. 集団や時代の美的基準に沿って、何が美しいか、何が醜いかを見分ける能力。
  4. 食べ物や飲み物、何かや誰かに惹かれること。

ここでの翻訳語はどちらかというと「嗜好」が近いのではないかという指摘があった。また「趣味がいいですね」の「趣味」であり、英語でいう"hobby"ではない、ということのようだ。英語でも"taste"は「味」を意味しつつ、「嗜好」「審美眼」「センス」「味わい」「おもむき」「分別」といった意味もある。"goût"に該当する日本語はないが、英語であれば"taste"でよさそうだ。

謎の物体

今回の範囲には「察してくださいね」という意図で挟まれた6枚の写真がある。生活空間に置かれた物や衣服などを通して「階級」がわかるという写真なのだが、今回「謎」として残ったのは下記の物体である。

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サスペンダーとは何か

6枚の写真の中にサスペンダーを着用している人がいた。

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そういえば最近の人はサスペンダーをしないですね、という話になって、サスペンダーは文化的にどんな位置づけのものなのだろう、と調べた。

bancraft.ocnk.net

1910年代、労働者のジーンズにはサスペンダー用の吊り止めボタンと、ベルト用のベルト通しの両方が付くようになりますが、1930年代頃から労働者や労働者以外の人もサスペンダーに代わってベルトを用いる事が増え、ズボンも徐々にベルト通しのみが付いたものへと移り変わり、1940年代頃になるとサスペンダーはフォーマルウェアとしてのみ使用されるようになっていきます。

なるほど。

単なる個人的な思い込みに過ぎないが、アメリカ映画で登場するサスペンダーをつけた人は銀行勤めの人が多い気がしている。もしくは弁護士か。

ウォール街』のマイケル・ダグラス

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AppleTV『ザ・バンカー』のアンソニー・マッキー

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階層の高めの労働者ということなのだろうか。

80年代を舞台にした『ウォール街』のマイケル・ダグラスのサスペンダーはベルトループに付けられるタイプである。サスペンダーの先がベルトループに付けられるように二股のパーツが確認できる。色味からも分かるが、これはオシャレ・アイテムである。おそらく、やり手の金融マンの演出アイテムである。
60年代を舞台にした『ザ・バンカー』のアンソニー・マッキーのサスペンダーはベルト・ループにもつけられるタイプではなく、スラックスもサスペンダー用の穴が開いた専用のものだったと思うので、正装の意味合いが大きいのではないかと思われる。この時点ではまだ銀行は買収しておらず、白人専用の不動産を買い付けて黒人に売るという仕事をしていて、良い物件を物色して回っていたので「正装」が求められたのだと考えられる。

人々が高台に住む理由

住居に関する差異化の話について。他にもいろいろと引用できる文献はあるものの、個人的に印象深いものを一つ。

明治25年の『東京遊学案内』の紹介がされている箇所。

上京したら衛生に注意しなければならない。とくに肺結核は不治の病である。風邪のとき感染しやすいから風邪をひかないこと。また脚気も危険な病気である。湿度の高い下町を避けて、高台にある山の手に宿をとるのがいい。とくに学生は運動不足になってさまざまな病気の原因になる。学校から遠隔の地に宿所を定めるのがよい。(旧新書版pp.59-60)

湿度の高い下町は結核脚気の原因になると考えられていたという例。金のある人は高台に住んでいたが、この20年くらいで、交通の便の良いところに住むようになってきたという話をした。田園調布や芦屋も価値が下がった、など。歴史のある学校はしばしば高台にある話はしなかったが、古くからある教育施設が高台にある理由のいくらかは、衛生を考慮してのことである。

さて、最近人気の住宅地について。首都圏は大きな街が多くあるので、分かりやすい例を挙げるのが意外に難しい気がするが、京阪神だと梅田・京都・三宮という比較的分かりやすい少し離れた人口密集地があるため、分かりやすい気がする。

www.nikkei.com

京阪神では、西宮北口が最近はだいたい首位を取っている。三宮にも15分程度、梅田にも15分程度で行ける好立地の上、阪神淡路大震災で甚大な被害を受けて再開発をされた土地であるため、新しいマンションや新しい商業施設など、最近の生活にフィットした街づくりがしやすかったという事情もある。

nishinomiya-gardens.com

コロナ禍で都会にそれほど近いところに住まなくてもいい、ということで時代もやや変わってきたのだろうか。武蔵小杉の浸水に続き、先日の地震でエレベーターの動かなくなったタワマンの不便さが報道されていたが、タワマンの流行にも陰りが見え始めるのだろうか。

タワマンの話をしているとバラードの『ハイ・ライズ』を思い出してしまう。
映画化されていたことを今知った。面白いのだろうか。

eiga.com

カミュ『異邦人』と選択

小説は今の生活では読まなくなっているのだが、久々に小説を読んだので記念にエントリをしておこう。
読んだのは、アルベール・カミュ『異邦人』である。

カミュ自身、この小説を不条理の連作の一つと挙げているようだ。不条理ではあるかもしれないが、いくつかの箇所を除いて不合理ではなく、非常にロジカルな組み立てがされている作品に思えた。一つ一つ挙げていると切りがないので、一つ挙げるとすると、アラビア人を銃殺するシーンの手前辺りにある文章が重要なのではないかと思った。

レエモンがピストルを私に渡すと、陽のひかりがきらりとすべった。それでも、われわれは、一切がわれわれの周りに閉じこめられてでもいるかのように、なおじっと動かずにいた。われわれは眼も伏せずに互いにながめ合った。ここでは、すべてが、海と砂と太陽、笛と水音との二つの静寂との聞に、停止していた。この瞬間、私は、引き金を引くこともできるし、引かないでも済むと考えた。
自分が回れ右をしさえすれば、それで事は終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち震えている砂浜が、私のうしろに、せまっていた。
焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体を、うつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた。

この小説の解釈は多くされていて専門でもない人間がわざわざ何か書く意味もない気もしないではないが、最も気になった部分はこの箇所である。

選択肢

東浦弘樹さんがこの箇所を分かりやすく解説をしてくれている。

ちなみにこのように選択肢が二つあり、どちらをとるべきか迷ったとき、「どちらでも同じことだ」と考えながら、結果的に悪い方の選択肢を選ぶのは、ムルソーの行動パターンのひとつであるように思えます。第一部第六章でアラブ人に腕を切りつげられて興奮したレエモンからピストルをとりあげ、別荘まで連れ戻した彼は、同じことだ」と考えながら、浜に向かって歩き出し、泉の前でアラブ人と出くわした際には、「ここにとどまるのも、出かけるのも、結局は「自分が後ろを向きさえすればそれですむ」と思い「一歩動いたからといって太陽から逃れることはできない」と思いながら、アラブ人の方へ一歩踏み出すことで、殺人の契機をつくってしまいます。煙草の件はそれに比べるともちろんはるかに些細で無害ですが、パターンとしては同じであると言えるでしょう。(P.46)

キーワードを抜け出すと、選択と倫理(道徳)である。

キェルケゴール『あれか、これか』

選択と倫理から連想するのはキェルケゴール『あれか、これか』である。

ja.wikipedia.org

Wikipediaの解説でだいたい大丈夫だと思う。この作品はAとBという相反する考え方を並列する形で議論を進め、選択と倫理の話はBで登場する。

A: 退屈は空虚感に基づいて発生し、それは人間に「眩暈」を起こすものである。それを避けるために人間は次々と新しい気晴らしを求めて気まぐれに生きる。キルケゴールの見解によるならば、美的生活の行き着く先は絶望に他ならない。
B: 人生において人間は「あれか、これか」の一つを選ぶ必要があるのであり、美的生活に対してそれに矛盾する倫理的生活を選ぶことが主張される。この選択は自由に行うことが可能であり、自由な決断によって倫理的生活の義務と自らの使命を達成する。普遍人間的なものを実現しえない人間は自分自身が個性の限界に達している例外者であることを自覚し、それに相応する内面性を獲得することが示される。

実際のネタは殺人とかではなく、結婚についてであり、結婚に関する倫理・道徳の話である。
人によりけりだろうが、個人的にはキェルケゴールの論理展開があまり正確ではないと考えているので、一言で要約するのはかなり難しい。この本は一般的にはあまり有名ではなかったが、近現代になってアラスデア・マッキンタイアが批判したことによって、再発見されるという経緯があるようだ。僕自身もマッキンタイアを読んでから『あれか、これか』を読んだので、一般的な読書ルートを辿った。

キルケゴールは、このように自分自身をどちらの立場も支持しない者として提示する。なぜなら彼は「A」でも「B」でもないのだから。そしてもし私たちが、彼が提示している立場とは「いずれかの立場を選択することに合理的な根拠はない」、すなわち「〈あれかこれか〉という選択は究極的なものである」という立場であると受け取る場合には、彼はそのことも否定するのである。(pp.50-51) 『あれかこれか』の教義は、〈倫理的な生活様式を描きだす原則は、理由を超えたところで成り立つ選択のためという以外には、何の理由もなく採用されるべきだ〉という趣旨であることは明瞭である。(p.53)

『美徳なき時代』の導入部分はカントからキェルケゴールへの道徳論の流れが比較的わかりやすく整理されており、かつ、キェルケゴールの問題点もしっかりまとめられている、と個人的には思っているのだが、批判はないわけではないので、一応、挙げておこう。

カミュ実存主義

パリ解放後は、実存主義の名のもとにカミュサルトルの名前が並べられることが多くなりますが、カミュはそれに不満だったらしく、一九四五年十一月、「レ・ヌヴェール・リテレール』誌のインタビューの中で、「私は実存主義者ではありません」と言っています。(東浦前出,p39)

本人がどのようにインタビューターに答えていようが、『異邦人』は実存主義的な骨格を持つ小説という認識で問題はないように思う。他の小説は知らないが。

やさしい「無関心」

最終的によくわからないのが「やさしい無関心」という結末に登場する言葉である。

それは、「異邦人』がカミュの心の傷の解消、あるいは克服に寄与しているからではないでしょうか。すでに述べたように、カミュには思春期に受げた大きな心の傷が二つあります。ひとつは、結核で死に顔した際、母親が泣いてそれに反対する叔父と愛人が殴り合いくれなかったこと、もうひとつは、母親が愛人をつくり、の喧嘩をしたことです。『異邦人』ではこの二つの体験がかなり複雑に変形されており、息子が死に顕しているとき母親が泣かなかったことは、母親が死んだときムルソーが泣かないという形で描かれカミュの母親の恋愛はムルソーの母親の「婚約」という形で描かれていますがムルソーは、物語の最後で、この二つの傷を癒しているように思えます。 (東浦前出,p178)

東浦さんの本ではこのあたりで解説されていて、少し前から展開されている精神分析的解釈も含めて、当然理解はできる。精神分析の考え方を知らない人にとっては、よくわからないのではないかと思いつつも、一方で、精神分析でしか説明できないことは、僕も含めて一般読者には分からなくてもいいのではないかとも思う。

衒学的な「レトリック」と位置づけてもいいと僕は思う。

伊藤計劃

『あれか、これか』のロジックを借用したものが、伊藤計劃の小説・映画にあることも連想した。実存主義的な小説で理解するよりも、SFで理解した方が分かりやすいのではないかと思った。 『虐殺器官』の方には以下のような会話がある。

「いいえ、違うわ。遺伝子とかミームとか言うと、それに支配されている、って方向に人は考えがちだけれど。ミームというのは、わたしたちを規定するものではないわ。ミームのほうが、わたしたちの思考に寄生しているんだもの。わたしたちが考え、決断する、そのこと自体にミームは乗って、人から人へ伝達していく。ミームも遺伝子も、自分が犯した罪の免罪符にはならないの。わたしたちが遺伝的に規定され、ミームに影轡されて思考するとしても、良心も罪も、それらの責任にはできない」
「それは違うわ。人は、選択することができるもの。過去とか、遺伝子とか、どんな先行条件があったとしても。人が自由だというのは、みずから選んで自由を捨てることができるからなの。自分のために、誰かのために、してはいけないこと、しなければならないことを選べるからなのよ」
ぼくはルツィアの顔を見つめた。どういうわけか、ものすごく救われたという思いにとらわれた。自分がしてきたことが肯定されたわけじゃない。自分がしてきたことの罪が消えたわけじゃない。
ただ、自分がそれらを選んできたということを、誰かに罪を背負わされたのじゃなく、自ら罪を背負うことを選んだのだ、ということを、ルツィアが教えてくれたからだった。
「ありがとう」ぼくは言った。

この話そのものが選択と倫理の話ではあるので、キェルケゴール的な考え方に伊藤計劃さんは惹かれるものがあったのだろう。

報酬系が調和し、すべての選択に葛藤がなく、あらゆる行動が自明な状態。それが何を意味するか。問われているのは、「わたし」がいまここにいる意味なのだ。 「意識が消滅したのね」


「意識がなくなると、どうなるの。ぼーっとして一日中椅子に座っているわけ」
「いいや、買い物、食事、娯楽、すべてが自明に選び取られる、ただそれだけだ。選択を必要とするか自明であるか、それだけなんだ、意識の動かす世界と意識のない世界を分かつものは。人間はね、意識や意志がなくともその生存にはまったく問題ないんだよ。皆は普段通りに生活し、人は生まれ、老い、死んでいくだろう。ただ、意識だけが欠落したそのままで。意識と文化はあまり関係がないんだよ。外面上は、その人間に意識があるか、意識があるかのように振る舞っているかは、全く見分けがつかない。ただ、社会と完璧なハーモニーを描くよう価値体系が設定されているため、自殺は大幅に減り、この生府社会が抱えていたストレスは完全に消滅する」
ミァハたちは、実験でそれを経験したのだ。意識が消滅するというその状態を。


生への執着を上回るほどに、現在時間軸において選択されるに足る高い価値評価を死に与える。死への欲求はどれほど微かなものであれ、誰しもが抱いているものだ。ただ、それ以上に生きていることへの執着が当たり前になっているに過ぎない。急激に死が魅力的に、選択すべき行動に見えた人々には、その不当な価値評価を回避する術はなかった。


調和を描く脳は、一切の迷いを排した、いや、廃した人間だ。 迷いがなければ、選択もない。選択がなければ、すべてはそう在るだけだ。 その風景は、いままでの風景とまったく代わり映えしないものであることも判っている。人間の意識がこれまでも大したことをしてこなかった以上、それが無くなったところで何が変わるというわけでもあるまい。 昨日と同じように、人は買い物に行くだろう。 昨日と同じように、人は仕事場に行くだろう。 昨日と同じように笑うだろう。 昨日と同じように泣くだろう。 単純に自明な反応として。単にそうするべきだからそうするものとして。

こちらは選択と倫理ではなく、選択と存在へと理論が拡大されている。西洋哲学での存在論ではないが、日々の出来事・行動が同じようなものになってしまうと、自動機械のようになる、というのは身につまされる話である。歳をとってきてから日々が早く感じる、という原因はまさしくこれである。また、選択は葛藤やストレス共にあり、ストレスのない世界を作り出すと、意識が消滅する、というモチーフは、よくよく考えると興味深い。

無料で使える日程調整ツール

無料で使える日程調整ツールのまとめ。

調整さん

chouseisan.com

サインアップをしておくと自分の立てた過去のイベントも閲覧可能になるので便利かも。
スマホでの入力にもレイアウトが対応している。

伝助

www.densuke.biz

調整さんほど有名ではないものの、使われることがあるツール。
スマホでの使用には一番向いている。ただ、スケジュール合わせの表記を読み取るのに多少慣れが必要かもしれない。

NeedToMeet

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https://www.needtomeet.com/

英語で提供されているサービス。
パソコンなど画面の広いデバイスであれば、作成も入力も結果閲覧も一番分かりやすく、簡単。
ただし、スマホへのレイアウト対応がよろしくないのが、残念ポイント。

デイコード

character-sheets.appspot.com

Discordユーザーにはお馴染みの日程調整ツールらしい。

Discordを使っていなくても、デイコードは単体で使える。

kg-masashige.fanbox.cc

ただ、使ってみようとしたところアクセストークンのところでつまづいて改善できず、結局、使えていないので、感想は「わからない」のままなのだが、一番便利らしい。使える方はデイコードを使うのが良いのではないだろうか。

www.fenet.jp

ブルデュー『ディスタンクシオン』と車 その1

読書会で何かよくわからないが盛り上がったのがブルデューディスタンクシオン』と車の話。

車に詳しいので盛り上がったのではなく、誰も詳しくなかったので「なるほど、よくわからん!」となってずるずると何回も引きずってしまったので、逆に盛り上がったという話題である。

メンバーの一人が調べてくれたので、一区切りは付いたものの、個人的に再燃する機会があり、また燃えてしまったので、ブログにまとめておこうと思う。

ディスタンクシオン』と車の話というと重要そうな話にも見えるが、『ディスタンクシオン』を読んだ大半の人は忘れている些末なことだと思う。どこに出てくるかというと旧版191ページの後に見開きで色の違う紙が挟まっているところである。下記の4象限の図が書かれてある。内容は様々な文化表象が書かれており、その中にいくつかの車種名が書かれてあるのだ。

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プジョー504

ja.wikipedia.org fr.wikipedia.org

1968から1996まで生産されていた息の長い車種。南米とアフリカで長い間続けられ、2005年まで生産されていたらしい。1969年にヨーロッパカーオブザイヤーを受賞している。

ディスタンクシオンでは経済資本+、文化資本-のところに位置付けられている。

f:id:iDES:20090817092806j:plain プジョー504

f:id:iDES:20210926140112j:plain プジョー504クーペファーストシリーズ

f:id:iDES:19990808171321j:plain プジョー504クーペセカンドシリーズ 1978年

f:id:iDES:20210926140150j:plain 504カブリオレ

シトロエンDS

ja.wikipedia.org fr.wikipedia.org

ディスタンクシオンではプジョー504と同じところに位置づけられている。

f:id:iDES:20210926140239j:plain シトロエン・DS(1974)

後輪が車体の中にあるのが今の車と大きく違う所。また、駐車時には車高が下がるようだ。

シトロエンDS/IDはシャルル・ド・ゴールは、DSの愛用者の一人であったそうだ。DSとIDはデザインのディテールが微妙に違うらしく、計器類が少なく、馬力がIDの方が少ないといった違いがあるそうだが、ここでは一括してDSということにしておこう。ド・ゴールが右派軍事組織「OAS」に襲撃された時にもDSに乗っていたらしい。これは映画「ジャッカルの日」にも描かれているとWikipediaに書かれているので、確かめたところ確かにDSに乗っていたし、「ジャッカルの日」には黒塗りのDSが多く出てくる。

f:id:iDES:20210926140251j:plain 映画「ジャッカルの日」。アバンタイトル。襲撃前、大統領が乗るシーン。

f:id:iDES:20210926140309j:plain 映画「ジャッカルの日」クライマックス、大統領が車から降りるシーン。

シャルル・ド・ゴール大統領お気に入りの車を『ディスタンクシオン』では経済資本+、文化資本-を評している。大統領専用車をこんな扱いにしていいのか、という気もしないでもないが、「本国フランスではタクシーや救急車などの特装車にも酷使されるような、ありふれた量販車種であった。」とwikipediaには書いてあるので、量産車であったのは間違いなさそうだ。

現在の日本だと、トヨタのセンチュリーなどの高級車があるが、当時のフランスにはそういった車がなかったともいえるだろう。とにかく車種が少ないようなのだ(車好きではないので間違えているかも)。

シトロエンGS

ja.wikipedia.org fr.wikipedia.org

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1970年から1986年まで生産された車で、DSとは違い小型乗用車である。基本的には4気筒で、DSの縮小、簡略化版という位置づけである。1971年にヨーロッパカーオブザイヤー。ファミリーカーという位置づけだろう。その後、セダン、ステーションワゴンと進化している。

ディスタンクシオン』の中ではシトロエンDS GSと一緒くたに扱われているのでブルデューの中では同じものとして扱われている。ただ、個人的には、DSよりも明らかにコンパクトで一般家庭にあっても馴染む車なので、DSとGSは違う気がしている。「ちょっとブルデュー雑じゃないですか?」と思っているところ。

ルノー16

ja.wikipedia.org fr.wikipedia.org

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前輪駆動の中型ファミリーカーで当時としては珍しい5ドアハッチバックスタイルだったらしい。1965年から1980年まで製造された。1966年ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー

ディスタンクシオン』ではほぼ真ん中に位置し、やや経済資本-、文化資本+寄りに書かれてある。

売価がシトロエンDSやGSよりも価格が安かったのだろうし、国民に車を普及させようというる意図を感じる。5ドアハッチバックスタイルというのも、実用的である。デザインもワーク・ミリタリー寄りのように感じるので、キャンプには向いているが、高級レストランにこの車で行くのは無理だろう(車での表現がわからないのでファッション用語で表現をしてみた)。

シトロエン 2CV

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シトロエンが1948年に発表した車で前輪駆動方式である。時期としては戦後すぐであるが、1990年まで50年以上に作られていた。大ヒット車である。累計511万台あまりを売り上げ、生産量はフランス車の中では歴代8位である。

この車は『ルパン三世 カリオストロの城』の冒頭でクラリスが逃げる際の車として有名である。

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2CVが採用されたのは監督の宮崎駿の愛車が2CVだったためである。ルパンたちが乗っているのはフィアット(イタリア)のチンクエ・チェントだが、こちれは作画監督大塚康生が乗っていた車だったから。おそらく、かなり有名な話である。

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さらなる余談だがNetflixのオリジナルシリーズのLupinでもカリオストロの城に登場したフィアットの旧型のチンクエ・チェントが登場している(シーズン2最終話)。

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宮崎駿リスペクトを忘れていないところはすばらしい。

ちなみに最近のチンクエチェントは下記のようなデザインになっている。 f:id:iDES:20210926141614j:plain 2007年モデル

イタリア車の話になってしまったので少しだけ話を戻すと、「2CV」はフランス語で「2馬力」を意味する。日本でもシトロエン2CVを「二馬力」と呼ぶことがあった。

ja.wikipedia.org

株式会社二馬力(にばりき)は、かつて存在した宮崎駿1984年4月に設立した個人事務所および2004年に前者を吸収合併した1997年創立の東京都武蔵野市御殿山に本店を置く日本の企業。主に著作権関連の管理を行う。
概要
社名の由来は、宮崎の長年の愛車であったシトロエン2CVの愛称から。当初は宮崎駿ジブリを離れ、年寄連中を集めて好き勝手に動画を作るのが目的だったという。
スタジオぴえろを辞めてフリーになった押井守が一時期、居候していたことがある。

ジブリ関係のものを見ていると「二馬力」と書いてあるものをよく見かけたはずである。

2CVは『ディスタンクシオン』では経済資本-、文化資本+となっている。1948年から発売が始まって、『ディスタンクシオン』の発表が1979年である。79年当時では、すでに時代遅れの車になっていたはずである。とはいえ、2CVは50年以上作られてきたファンの多い車でもあり、79年の段階でもこだわりがある人が乗っている車だったのかもしれない。

その1はここまで。

ANOVA その8 問題集

実際にやってみたところこの問題集の出来が良くないことが発覚したので注意

次の質問では、yarrrパッケージのpiratesデータフレームを使用する。

  1. 海賊の好きなpixar映画とタトゥーの数には有意な関係があるか?
    fav.pixarを独立変数、tattoosを従属変数として、適切なANOVAを実施する。有意な関係がある場合は、独立変数のどのレベルが異なるかを決定するために、事後検定を行う。

  2. 好きな海賊とタトゥーの数には有意な関係があるか?favorite.pirateを独立変数、tattoosを従属変数として、適切なANOVAを実施する。有意な関係があれば、独立変数のどのレベルが異なるかを決定するために、事後検定を行う。

  3. 次に、前の2つの質問の分析を繰り返すが、ANOVAに独立変数fav.pixarとfavorite.piratesの両方を含める。両方の変数を含めると、結論は異なるか?

  4. 最後に「fav.pixar」と「favorite.pirate」の間に、タトゥーの数に対する交互作用があるかどうかを検証する。

www.rdocumentation.org

フォーマット
1,000行、14列のデータフレーム
ID
海賊のID番号を示す整数
sex
自分で申告した海賊の性別を示す文字列
age
海賊の年齢を示す整数。
height
身長をcmで表す
weight
体重kg
headband
海賊がヘッドバンドを着用しているかどうかを示すバイナリ変数
college
海賊の出身大学を示す文字列。JSSFPはJack Sparro's School of Fashion and Piratery、CCCCCはCaptain Chunk's Cannon Crewの略。
tattoos
タトゥーの数を示す整数。
tchests
その海賊が見つけた宝箱の数を示す整数
parrots
その海賊が一生の間に飼ったオウムの数を示す整数
favorite.pirate
その海賊のお気に入りの海賊を示す文字列
sword.type
海賊が使用している剣の種類を示す文字列
eyepatch
その海賊がつけているアイパッチの数を示す整数
sword.time
海賊が剣を抜くのにかかる時間(秒)を表す数値。小さい方が良い。
beard.length
海賊のあごひげの長さを表す数値(単位:cm)
fav.pixar
海賊の好きなピクサー映画を示す文字列
grogg
海賊が一日に平均してマグカップ何杯分のグロッグを飲んでいるか。

ANOVA その7 ANOVAオブジェクトからの追加情報の取得

こちらの続き。

ides.hatenablog.com

bookdown.org

ANOVAオブジェクトからは、多くの興味深い情報を得ることができる。1つに保存されているすべてを見るには、ANOVAオブジェクト上でコマンドを実行する。

二元配置分散分析(Two-way ANOVA)のデータをもう少し掘っていく。まずはTwo-way ANOVAのデータを作ろう。
詳しくはこちらから。

ides.hatenablog.com

「交互作用を考慮したANOVA」のところのデータ。

library(yarrr)
cleaner.type.aov <- aov(formula = time ~ cleaner + type,
                        data = poopdeck)
cleaner.type.int.aov <- aov(formula = time ~ cleaner * type,
                          data = poopdeck)

オプション

names(cleaner.type.int.aov)

出力。

 [1] "coefficients"  "residuals"     "effects"       "rank"          "fitted.values" "assign"        "qr"            "df.residual"   "contrasts"    
[10] "xlevels"       "call"          "terms"         "model"   

例えば、"fitted.values "には、データセットのすべての観測データに対する従属変数(時間)のモデルフィットが含まれています。これらのフィット値は、 $ operatorと代入によってデータセットに戻すことができます。例えば、相互作用モデル(cleaner.type.aov)と非相互作用モデル(cleaner.type.int.aov)の両方からモデルのフィット値を取得し、データフレームの新しい列に割り当ててみよう。

相互作用モデルのフィット値をint.fitとしてデータフレームに追加する

poopdeck$int.fit <- cleaner.type.int.aov$fitted.values

主効果モデルのフィットをme.fitとしてデータフレームに追加する

poopdeck$me.fit <- cleaner.type.aov$fitted.values

それでは、表の最初の数行を見て、最初の数個の観測値の適合性を見よう。

head(poopdeck)

データ行頭。

  day cleaner   type time
1   1       a parrot   47
2   1       b parrot   55
3   1       c parrot   64
4   1       a  shark  101
5   1       b  shark   76
6   1       c  shark   63

このフィットを使って、モデルがデータにどれだけフィットしたか(あるいはフィットしなかったか)を確認することができる。例えば、各モデルの適合度が真のデータからどれだけ離れているかを、次のように計算することができる。

相互作用モデルのフィットは、平均してどのくらいデータから離れていたか?

mean(abs(poopdeck$int.fit - poopdeck$time))

[1]15.35173

主効果モデルのフィットは、平均してどのくらいデータから離れていたか?

mean(abs(poopdeck$me.fit - poopdeck$time))

[1] 16.5351

、交互作用モデルは平均で15.35分、主効果モデルは平均で16.54分、データから外れている。交互作用モデルは主効果のみのモデルよりも複雑なので、これは驚くことではありません。しかし、交互作用モデルの方がデータへの適合性が高いからといって、必ずしも交互作用に意味があり、信頼できるとは限らない。

ANOVA その6 Type I, Type II, and Type III ANOVA

こちらの続き。

ides.hatenablog.com

bookdown.org

ANOVAには、タイプ1、2、3(またはタイプI、II、III)と呼ばれる3つの異なるタイプがある。これらのタイプは、分散(特に二乗和)の計算方法が異なる。データが比較的バランスのとれたもの、つまり各グループに比較的同数の観測がある場合は、3つのタイプすべてが同じ答えを出す。しかし、データが不均衡で、一部のグループに他のグループよりも多くの観測がある場合は、タイプII(2)またはタイプIII(3)を使用する必要がある。

Rのベースプログラムの標準的なaov()関数は、Type Iの二乗和を使用する。そのため、データが均衡している場合にのみ適している。データが不均衡な場合は、タイプIIまたはタイプIIIの二乗和を用いてANOVAを行うべきである。これを行うには、carパッケージのAnova()関数を使用する。Anova()関数にはtypeという引数があり、計算したいANOVAのタイプを指定することができる。

次のコードチャンクでは、3つの異なるタイプを使って、poopdeckデータから3つの別々のANOVAを計算する。まずlm()で回帰オブジェクトを作成する。Anova()関数では、数式やデータセットではなく、回帰オブジェクトを主な引数として入力する必要がある。つまり、まず lm() (またはglm()) でデータから回帰オブジェクトを作成し、そのオブジェクトをAnova()関数に入力する必要があめ。同じことを標準のaov()関数でもすることができる。

回帰オブジェクトの作成

time.lm <- lm(formula = time ~ type + cleaner,
              data = poopdeck)

回帰オブジェクトtime.lmを作成したので、このオブジェクトをaov()に入力してType I ANOVA を、carパッケージのAnova()に入力して Type II または Type III ANOVA を行うことで、3 種類の異なる ANOVA を計算することができる。

library(car)
# Type I ANOVA - aov()
time.I.aov <- aov(time.lm)

# Type II ANOVA - Anova(type = 2)
time.II.aov <- car::Anova(time.lm, type = 2)

# Type III ANOVA - Anova(type = 3)
time.III.aov <- car::Anova(time.lm, type = 3)

たまたま、poopdeckのデータフレームのデータは完全にバランスがとれている(従って各ANOVAタイプで全く同じ結果が得られます。しかし、もしバランスが取れていなかったら、aov()関数で計算したType I ANOVAを使うべきではない。

データがバランスされているかどうかを確認するには、関数を使う。

with(poopdeck,
     table(cleaner, type))

結果。

       type
cleaner parrot shark
      a    100   100
      b    100   100
      c    100   100

このようにpoopdeckのデータでは、観測値は完全にバランスがとれているので、データを分析するのにどのタイプのANOVAを使っても問題はない。