井出草平の研究ノート

貴戸理恵「「生きづらい私」とつながる「生きづらい誰か」--「当事者の語り」再考」


貴戸理恵さんの『論座』4月号掲載の文章がここに載っている。本人に「ブログで批判します」と伝えたのはいいが、批判をするのをすっかり忘れてた。以前にものざりんさんが批判されていたが、再び批判をされている。

ただ、以前にも書いたように、最後に書かれた

いま、この時代のこの国を「若者」として生きざるを得ないひとりとして、私は後から続いてくる世代の彼ら・彼女らに、心からの笑顔で、言えるようになりたいと思うのだ。「大丈夫、あなたはひとりぼっちじゃない。だから安心して、いつでも生きづらくなってね」。

の、「安心して生きづらくなってね」とは、僕には言えない。なぜなら、誰も好き好んで生きづらくなる、ってことは考えにくいからである。生きづらいより生きやすい方が誰だっていいだろう。人生じたいが「修行」じゃないんだから。「修行」したい人は別にいいけど、あえてしたくない人にまで生きづらさを強要することはできない。僕ならやっぱり、「当事者を生きづらくさせている社会構造」のほうを問題にするけど、どうだろう。「人間であることに起因する悩み」はもちろん消えないだろうが、そんなものは誰でもが持ち得る。問題は「当事者であるからこそ抱えなければならない困難さ」のほうであって、それは社会的に解決する道を探ったほうが僕は生産的なような気がしているが、どうだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060525/p1


自分の言いたいことも、のざりんさんが言われているようなことだ。それに加えて少しだけ。


貴戸さんの言わんとしていることは、おそらく次のようなことだ。
「生きづらさ」を持つこと。このことは生きていく上ではマイナスになるが、その「生きづらさ」というものを通して人とつながることも可能である。そして、自分と同じ問題を抱えている人達とつながれるだけではなく、自分とは違った「生きづらさ」を持った人ともつながっていけるはずである。その「つながり」に希望を託してもよいのではないか。


「生きづらさ」を通して他者と「つながる」ということ。そういうことは確かに起こることがあるし、その「つながり」は日常生活での人との繋がりよりも強固で快感の伴ったものになることが多い。そういうことはよく分かる。ただ、それはあくまでも「可能性」なのではないかと思うのだ。


つまり、つながる「可能性」というのは十分にあるかもしれないが、しかし、それはあくまでも「可能性」にしか過ぎず、つながらない可能性だって十分にある。貴戸さんのメッセージは「生きづらさを抱えても、それなりに生けていけるよ」ということを伝えようとしているが、もしかしたら何とかならないかもしれない。貴戸さんは「生きづらさ」を通してたまたま「つながり」を得られたが、貴戸さんのように上手く「つながり」を得られない可能性もある。そして、つながりを得られない可能性は例外というわけではなく、わりと高いように思うのだ。


「生きづらさ」を通しての「つながり」は人生を救済してくれるくらいのインパクトを持つものだと思うが、その「つながり」が高い確率で得られない限り「安心して生きづらくなってね」は言い過ぎになるのではないかと思う。


批判と言っても「言い過ぎ」ということになるのだが、自分のポジション的には「ひきこもり」の当事者・経験者がつながるのは結構大変だということも言っておかないとダメなんだろう。特に「ひきこもり」は回避傾向をもっているため他者とつながることを大変不得意としている人が多い。そういうところで「つながり」を案として採用するのはなかなか難しい。


むしろ、どちらがひきこもり度が高いかという足の引っ張り合いのような争いが起きてしまうこともある。本当にツライ時には、自分より調子の良さそうな人がいたら(相手を批判することによって自己承認を獲得しようと)相手を批判してしまうものなのではないかと思う。それも仕方ないと思う。


ただ、そういうことはあっても、というか、あるからこそ、一方では、貴戸さんのいうような「つながり」に希望を託してもよいかもしれないとも思うのだ。