井出草平の研究ノート

スティグリッツ「世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す」


世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す

世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す


読書会関係で読む。
関税障壁、知的所有権などを通じて、先進国が必然的に利益を得られる貿易のルールについて書いてある。経済学では、グローバリゼーションの第一義的な問題点は貿易の不均衡にあるためである。雰囲気やノリでグローバリゼーションという言葉を使って、結局何を言いたいのかが分からない本が多いが、問題関心と方法論が明確であるため、フラストレーションがなく読める。この本(ISBN:4532352517)と基本的には同じ方向性で書かれている。


この本の邦題には「グローバリズム」という言葉が使われているが、原題は"globalization"である。この辺りの言葉の峻別はベックの整理したもの(http://d.hatena.ne.jp/iDES/20060720/1153415571)が一般的であろう。ただ、ベックの整理ではスティグリッツの言わんとしていることがどうも読み取りにくい。読んでいて再整理が必要に感じた。


グローバリゼーションというと最近始まったという印象をどうしても持ちがちだが、かなり古い起源を持っていると考えた方がいい。各論者のグローバリゼーションの開始時期は以下の通り*1


〔著者〕           〔始まり〕      【主題)
マルクス           15世紀      近代資本主義
ウォーラーステイン    15世紀      資本主義世界システム
ロバートソン        1870−1920 多次元的
ギデンズ           18世紀      近代化
パールミュッター     束西対立の終焉   グローバルな文明


マルクスに従えば15世紀からグローバリゼーションは始まる。要するに「近代資本主義」、経済史でいうところの大文字のCapitalismと同義か、それに近い言葉として理解するのが良いということだろう。つまり、近代・多国間の資本主義が、グローバリゼーションそのもの、もしくは、それに付随して起こる諸現象ということである。


とするならば、グローバリゼーションが良いか悪いかという問いというのは、資本主義が良いか悪いかという問いと同じになる。こう考えると、グローバリゼーションが良いか悪いかという問いはあまり生産的ではないことがわかる。


かつて、共産主義化運動を行っていた旧左翼は、共産主義運動にリアリティを見なくなったためか、反グローバリゼーション運動へとシフトチェンジしているように感じられる。共産主義運動と反グローバリゼーション運動は担い手が同じであり、中で言われていることもさほど変わりはしていない。


次に考えることになるのは、グローバリゼーション(現象)とグローバリズム(思想)の差異である。ベックやギデンズは「変容論者」という位置づけになるが、彼らの基本的な立場は、現象としてのグローバリゼーションは止めようがないが、新自由主義イデオロギーであるグローバリズムは批判するというものになる。


この立場は分かり易いが、素直に受け入れることはできない。あえて言うならば、完全自由競争が行われている市場では、公平性が保たれるはずだからである。その中では、平等性もある程度は担保されているはずでもある。個人的には、このテーゼがいかなる場合にも妥当する法則であるとはそのように考えないが、少なくともエコノミストの中にはそのように考える人たちはいる*2


経済学の王道的な考え方に沿えば、現在の世界経済は、政治的な干渉や種々の障壁があるために競争が阻害されいる状態にあるために、公平性が保たれない市場が形成されてしまっていると言える。スティグリッツのこの本には、先進国が時刻に有利なようにゲームのルールを作り上げ、必然的に利益が上がっていくことが描写されている。象徴的にはアメリカの政策であろう。アメリカは自由貿易を標榜しながら、自国の農業生産物に大量の補助金を出している。


新自由主義を標榜しているからと言って、実際に新自由主義を実践している訳ではないのである。「言っていること」と「やっていること」が違うのである。自国の利益になるところでは新自由主義を標榜し、他国に政治的圧力をかけて新自由主義を導入させつつ、自国の不利なところでは保護貿易を行う。貿易の不均衡の問題を解決するには、新自由主義を批判するのではなく、ご都合主義を批判すべきなのである。


とするならば、グローバリゼーション(現象)をOKだが、グローバリズム(思想)はNOだという立場は、一見すると分かり易いようにも思えるが、あまり正確に現状を掴んでいるとは言えない。従って、ベックの「グローバリゼーション」「グローバリズム」「グローバビリティ」という区分けもそれほど分析的なものではないし、この3つの概念を使って立場を記述すると不正確なものになるのは注意した方がよいだろう。

 グローバル化が特定の価値を押しつける手段として利用されてきた、という批判は正しい。しかし、グローバル化自体に罪がないことを、わたしはここで強調しておきたい。グローバル化を導入したからといって、必ず環境が悪化するわけでも、必ず不平等が広がるわけでも、必ず文化の多様性が失われるわけでも、必ず一般市民の福祉を犠牲に企業の利益がはかられるわけでもない。東アジアでみられるとおり、適切に管理されたグローバル化は、途上国と先進国の双方に大きな利益をもたらす。わたしは本書を通じて、その方法を明らかにしていくつもりだ。


ここで言われている「グローバル化(グローバリゼーション)」は「近代資本主義」と読み替えると意味が明確になるように思う。「グローバリズムを批判する」というのはあまり意味を成さない。「資本主義を批判する」というというものくらいの意味しかもたないからである。グローバリズム批判ではなく、一部の国が利益を得るように設計された制度をどのように変えていくのかという議論になるべきなのである。そうした時に、グローバリゼーションについて論じることはしても、グローバリゼーションという概念を使って何かを論じることにはおそらく禁欲的になった方が良い。グローバリゼーションの「実感がない」という話でもなく、論者によって含める内容が違うというのでもなく、グローバリゼーションという概念が分析的ではないという理由からである。


スティグリッツがこの本で書いた内容は、国際貿易論や金融政策論の既存の用語を使って論じるのが良いし、実際にスティグリッツもそのように記述している。「グローバリゼーション」という前提で世界経済を論じることはできても、「グローバリゼーション」を説明変数にして何かを論じようとしてもスカスカの話しかできないのではなかろうか。グローバリゼーションという概念が分析的ではないからである。


同じように、グローバリゼーションはOKだがグローバリズムはNOだという「変容論者」という立場も明確なものではないように思われる。「変容論者」と言われる立場は、「現象としての資本主義」は受け入れざるを得ないが、「思想としての資本主義」は嫌いだと言っているようにしか読めないからである。嫌悪感を出すのは感情の吐露としては意義があるかもしれないが、建設的で分析的な議論にはならない。「グローバリゼーション」について語る時には、この辺りの注意が必要であるように思う。グローバリゼーションの本を端から端まで読んだわけではないが、何かを言った気になっているだけの本が多く感じらるのは、この辺りに原因があるのではないかと思った。

*1:J. N. Pieccrse, Der Melange-Effekt, in: U- Bcck (Hg.), Perspektiven der Weltgesellschaft, Frankfurt/M. 1997 ISBN:3518409166

*2:アダム・スミス国富論では倫理面までを言及した訳ではないので、アダム・スミスは含まれない。この本の著者のスティグリッツの非対称情報という着目は完全競争の不可能性を立証している。