和田信,2016,「『自明性の喪失』にみるBlankenburg, W.の姿勢 : 単純型統合失調症か,それともアスペルガー症候群か」『精神科治療学』 31(6): 755-761.
「単純型統合失調症か,それともアスペルガー症候群か」という副題にあるようにBlankenburgの著作『自明性の喪失』にあるケースを検討した論文。
「アスペルガー症候群」の概念が広く知られるようになり,Blankenburgの取り上げたアンネ・ラウの症例は,実はアスペルガー症候群だったのではないかとの見解が,発達障害の臨床家から提出されるようになった。
- 中安信夫・杉山登志郎・本田秀夫ほか,2008,「座談会:アスペルガー症候群と統合失調症辺縁群』『精神科治療学』23: 213-218. http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo01/bo0102/bn/23/02index.html
- 杉山登志郎,2002,「Asperger症候群と高機能広汎性発達障害」 44(4): 368-379. https://ci.nii.ac.jp/naid/40002059146
この指摘はいずれも杉山登志郎である。
具体的にアンネ・ラウの症例を見てみよう。
アンネ・ラウは生来病弱で,内気で、おとなしい,友人の少ない子だった。両親相互の間にも両親と彼女との間にも暖かい人間関係は開かれなかったらしい。学校では成績の良い手間のかからぬ良い子だった。高校中退で就職したが、18歳ごろから態度が変に子供っぽくなって,しきりに寂しがるようになった。男性との交際はまったくなかった。 20歳になって彼女は「自分の立場」がはっきりしない.「人並に」ちゃんとやって行けないなどと言っていたが,ある心的負担があった後に自殺を図って精神科に収容された。 アンネの訴えはきまって「自然な自明性の喪失」(Verlust der natürlichen Selbstverständlichkeit)ということだった(この表現はアンネ自身によって述べられたものである)。「私に欠けているのは普通なあたりまえさということです」.「誰でも自分がどうすればよいか判っているはずです。その作法みたいなものが私には判りません。私には基本が欠けているのです」.「他人と付合うときに,ごく普通にこういうことは判っているんだということ,それがないんです」.「人と人を結びつける感情みたいなもの,人間らしいといえるために必要なそういった感じ,一番簡単なこと,そういったものを何も知らずにきてしまいました」.「何をしてもそれをちゃんとしているということがない,気分が伴いません」.「単純なこと,ほんの生きて行くのに必要なちょっとしたこと,それが私には欠けているのです」...。妄想その他のいわゆる病的体験は終始認められなかった。2年余りの治療でかなりの改善が認められた矢先,患者は遂に自殺に成功する。 最初,この症例は単に未熟な人格の重篤な異常体験反応だと思われた。しかしやがて,感情や行動の唐突さと高度の思考障害,それにかなり以前からの能率低下と人格発展の屈曲とから,分裂病を考えざるを得なくなった。「自然な自明性の喪失」は単にアンネの体験内容をなすのみならず,何よりもまずアンネの言動から直接に感じとられる印象だった。そこで診断としては,かなり明確な病覚を伴った単純性分裂病が最も適当である。 内因性欝病,強迫神経症,境界線例,離人症などが鑑別診断的に問題となる。
自明性の喪失といったそのまま専門用語にできるような言葉遣いを自閉スペクトラム症の人から実際に聞いたことはないが、そのような実例はある。当事者本として有名なドナ・ウィリアムズがアンネの症例のような自己分析をしている。
25歳で初めてアスペルガー症候群だと診断されたドナ・ウィリアムズは,次のように述べている。「自分には何かが足りない。次第に私はそう感じるようになった。だがそれが,何であるのかわからない」.「私自身に感情があることは確かだった。だがそれは,人と接する時に,あまり生き生きと働いてくれないのだ」
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確かによく似た分析がされている。
小児期から自閉スペクトラム症であったのかもしれないが、説明が難しいのは18~20歳ごろから、思考障害が現れたこととと、社会的機能低下が起こった原因である。
発達障害の臨床医であり研究者である杉山は,本症例を発達障害の観点から検討し,高機能広汎性発達障害であった可能性があると考えた。ただし,社会的機能がやがて著しく落ちていくことや,思考障害が徐々に進行している様子などは,広汎性発達障害では一般的にない経過であり、少なくとも入院治療後の経過からは統合失調症だろうと考えている。
入院前に陽性症状がなければ現代的な意味での統合失調症とは言えない。統合失調症の言葉の使い方次第で、このあたりはどのようにも言えてしまうところがあるのではないだろうか。だから、少しずるい言い方にもなるが、何らかの変性疾患があったというのが最も間違いのない言い方になるのではないだろうか。
Blankenburgの生前,筆者は,「自明性の喪失」の患者は,実はアスペルガー症候群だったのではないかとの質問を,直接投げかけたことがある。Blankenburgの答は次のようであった。「患者は今で言うアスペルガー症候群に共通する特徴を備えていたが,確かに統合失調症であった。自閉症と統合失調症には,共通の根底があるというLemppの考えを私は支持している。注:Lemppは, ドイツの児童精神科医で,自閉的精神病質を統合失調症の近縁に位置づけ,早期幼児自閉症の軽症例と考えた。
Lemppの考え方は標準的な精神医学では誤りである。統合失調症と自閉スペクトラム症の間には遺伝的な共通性があまり見られないことが分かっている。症候学的に「近い」と感じるものが遺伝学的に近いわけではないという結果である。