明治時代の義務教育の浸透

文科省が1962年に明治時代からの教育の歴史をまとめた『日本の成長と教育』という書籍がある。統計データを中心に書かれているが、非常に興味深い。
文科省上のWebスペースでHTML化されて公開されているようだ。

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義務教育の浸透

江戸時代には寺子屋などの民間教育施設があったが、現在の小学校のような形ではなかった。明治5年の学制の発布以後の尋常小学校が現在の小学校の原型である。

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尋常小学校は4年(1907年に6年に延長)であった。学制の発布当時高等小学校は4年で現在の中学校に相当した。

学制では授業料を1か月50銭くらいが妥当としていた。明治11年当時、有業者1人当たり年間21円の所得であり、就学は家庭にとってはかなり負担であった。また、教科書や筆、硯、紙、石盤、石筆などの学用品を一式を揃えるのも自費であった。尋常小学校への就学率がなかなか上がらなかったのも無理はない。

当時の子どもは小さな労働者でもあったから、小学校に通わせない親(実際には通わせる経済的な余裕のない親)は少なからずいた。小学校費出銭免除運動なども起こっている。また、小学校の焼き討ちなども起こっている。

女子の就学率は低い。男性優位の社会であったことを示している。家族の中で、就学させならば男子を優先した、男子の中でも長男を優先したということが行われていた。

就学率の転換点

転換点となるのは日清戦争あたりの時期である。グラフをみると1890年代に就学率が急増している。

これは、学費が次第に町村費から出されるようになってきたからである。1900(明治33)年八8月に小学校令改正によって授業料徴収が廃止され学費の学制自己負担はなくなったために、就学率はうなぎのぼりにあがり、100%近くまで上昇する。

学費だけではなく、明治の経済発展から大正の大戦景気(大正バブル)まで経済的に日本は豊かになり、子どもを学校に通わせる程度には余裕ができたという社会的な背景も関係している。

義務教育

グラフには義務教育就学率とあるが、厳密に言うと、学生の発布以後すぐに義務教育が始まったわけではない。 義務教育の教育の「義務化」がされるのは森有礼が行った一連の教育改革の中で、1886(明治19)年に出された小学校令である。第3条に次のような条文がある。

児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス

義務教育の義務はこの時から後見人(保護者)の義務であったことがわかる。

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