井出草平の研究ノート

カミュ『異邦人』と選択

小説は今の生活では読まなくなっているのだが、久々に小説を読んだので記念にエントリをしておこう。
読んだのは、アルベール・カミュ『異邦人』である。

カミュ自身、この小説を不条理の連作の一つと挙げているようだ。不条理ではあるかもしれないが、いくつかの箇所を除いて不合理ではなく、非常にロジカルな組み立てがされている作品に思えた。一つ一つ挙げていると切りがないので、一つ挙げるとすると、アラビア人を銃殺するシーンの手前辺りにある文章が重要なのではないかと思った。

レエモンがピストルを私に渡すと、陽のひかりがきらりとすべった。それでも、われわれは、一切がわれわれの周りに閉じこめられてでもいるかのように、なおじっと動かずにいた。われわれは眼も伏せずに互いにながめ合った。ここでは、すべてが、海と砂と太陽、笛と水音との二つの静寂との聞に、停止していた。この瞬間、私は、引き金を引くこともできるし、引かないでも済むと考えた。
自分が回れ右をしさえすれば、それで事は終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち震えている砂浜が、私のうしろに、せまっていた。
焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体を、うつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた。

この小説の解釈は多くされていて専門でもない人間がわざわざ何か書く意味もない気もしないではないが、最も気になった部分はこの箇所である。

選択肢

東浦弘樹さんがこの箇所を分かりやすく解説をしてくれている。

ちなみにこのように選択肢が二つあり、どちらをとるべきか迷ったとき、「どちらでも同じことだ」と考えながら、結果的に悪い方の選択肢を選ぶのは、ムルソーの行動パターンのひとつであるように思えます。第一部第六章でアラブ人に腕を切りつげられて興奮したレエモンからピストルをとりあげ、別荘まで連れ戻した彼は、同じことだ」と考えながら、浜に向かって歩き出し、泉の前でアラブ人と出くわした際には、「ここにとどまるのも、出かけるのも、結局は「自分が後ろを向きさえすればそれですむ」と思い「一歩動いたからといって太陽から逃れることはできない」と思いながら、アラブ人の方へ一歩踏み出すことで、殺人の契機をつくってしまいます。煙草の件はそれに比べるともちろんはるかに些細で無害ですが、パターンとしては同じであると言えるでしょう。(P.46)

キーワードを抜け出すと、選択と倫理(道徳)である。

キェルケゴール『あれか、これか』

選択と倫理から連想するのはキェルケゴール『あれか、これか』である。

ja.wikipedia.org

Wikipediaの解説でだいたい大丈夫だと思う。この作品はAとBという相反する考え方を並列する形で議論を進め、選択と倫理の話はBで登場する。

A: 退屈は空虚感に基づいて発生し、それは人間に「眩暈」を起こすものである。それを避けるために人間は次々と新しい気晴らしを求めて気まぐれに生きる。キルケゴールの見解によるならば、美的生活の行き着く先は絶望に他ならない。
B: 人生において人間は「あれか、これか」の一つを選ぶ必要があるのであり、美的生活に対してそれに矛盾する倫理的生活を選ぶことが主張される。この選択は自由に行うことが可能であり、自由な決断によって倫理的生活の義務と自らの使命を達成する。普遍人間的なものを実現しえない人間は自分自身が個性の限界に達している例外者であることを自覚し、それに相応する内面性を獲得することが示される。

実際のネタは殺人とかではなく、結婚についてであり、結婚に関する倫理・道徳の話である。
人によりけりだろうが、個人的にはキェルケゴールの論理展開があまり正確ではないと考えているので、一言で要約するのはかなり難しい。この本は一般的にはあまり有名ではなかったが、近現代になってアラスデア・マッキンタイアが批判したことによって、再発見されるという経緯があるようだ。僕自身もマッキンタイアを読んでから『あれか、これか』を読んだので、一般的な読書ルートを辿った。

キルケゴールは、このように自分自身をどちらの立場も支持しない者として提示する。なぜなら彼は「A」でも「B」でもないのだから。そしてもし私たちが、彼が提示している立場とは「いずれかの立場を選択することに合理的な根拠はない」、すなわち「〈あれかこれか〉という選択は究極的なものである」という立場であると受け取る場合には、彼はそのことも否定するのである。(pp.50-51) 『あれかこれか』の教義は、〈倫理的な生活様式を描きだす原則は、理由を超えたところで成り立つ選択のためという以外には、何の理由もなく採用されるべきだ〉という趣旨であることは明瞭である。(p.53)

『美徳なき時代』の導入部分はカントからキェルケゴールへの道徳論の流れが比較的わかりやすく整理されており、かつ、キェルケゴールの問題点もしっかりまとめられている、と個人的には思っているのだが、批判はないわけではないので、一応、挙げておこう。

カミュ実存主義

パリ解放後は、実存主義の名のもとにカミュサルトルの名前が並べられることが多くなりますが、カミュはそれに不満だったらしく、一九四五年十一月、「レ・ヌヴェール・リテレール』誌のインタビューの中で、「私は実存主義者ではありません」と言っています。(東浦前出,p39)

本人がどのようにインタビューターに答えていようが、『異邦人』は実存主義的な骨格を持つ小説という認識で問題はないように思う。他の小説は知らないが。

やさしい「無関心」

最終的によくわからないのが「やさしい無関心」という結末に登場する言葉である。

それは、「異邦人』がカミュの心の傷の解消、あるいは克服に寄与しているからではないでしょうか。すでに述べたように、カミュには思春期に受げた大きな心の傷が二つあります。ひとつは、結核で死に顔した際、母親が泣いてそれに反対する叔父と愛人が殴り合いくれなかったこと、もうひとつは、母親が愛人をつくり、の喧嘩をしたことです。『異邦人』ではこの二つの体験がかなり複雑に変形されており、息子が死に顕しているとき母親が泣かなかったことは、母親が死んだときムルソーが泣かないという形で描かれカミュの母親の恋愛はムルソーの母親の「婚約」という形で描かれていますがムルソーは、物語の最後で、この二つの傷を癒しているように思えます。 (東浦前出,p178)

東浦さんの本ではこのあたりで解説されていて、少し前から展開されている精神分析的解釈も含めて、当然理解はできる。精神分析の考え方を知らない人にとっては、よくわからないのではないかと思いつつも、一方で、精神分析でしか説明できないことは、僕も含めて一般読者には分からなくてもいいのではないかとも思う。

衒学的な「レトリック」と位置づけてもいいと僕は思う。

伊藤計劃

『あれか、これか』のロジックを借用したものが、伊藤計劃の小説・映画にあることも連想した。実存主義的な小説で理解するよりも、SFで理解した方が分かりやすいのではないかと思った。 『虐殺器官』の方には以下のような会話がある。

「いいえ、違うわ。遺伝子とかミームとか言うと、それに支配されている、って方向に人は考えがちだけれど。ミームというのは、わたしたちを規定するものではないわ。ミームのほうが、わたしたちの思考に寄生しているんだもの。わたしたちが考え、決断する、そのこと自体にミームは乗って、人から人へ伝達していく。ミームも遺伝子も、自分が犯した罪の免罪符にはならないの。わたしたちが遺伝的に規定され、ミームに影轡されて思考するとしても、良心も罪も、それらの責任にはできない」
「それは違うわ。人は、選択することができるもの。過去とか、遺伝子とか、どんな先行条件があったとしても。人が自由だというのは、みずから選んで自由を捨てることができるからなの。自分のために、誰かのために、してはいけないこと、しなければならないことを選べるからなのよ」
ぼくはルツィアの顔を見つめた。どういうわけか、ものすごく救われたという思いにとらわれた。自分がしてきたことが肯定されたわけじゃない。自分がしてきたことの罪が消えたわけじゃない。
ただ、自分がそれらを選んできたということを、誰かに罪を背負わされたのじゃなく、自ら罪を背負うことを選んだのだ、ということを、ルツィアが教えてくれたからだった。
「ありがとう」ぼくは言った。

この話そのものが選択と倫理の話ではあるので、キェルケゴール的な考え方に伊藤計劃さんは惹かれるものがあったのだろう。

報酬系が調和し、すべての選択に葛藤がなく、あらゆる行動が自明な状態。それが何を意味するか。問われているのは、「わたし」がいまここにいる意味なのだ。 「意識が消滅したのね」


「意識がなくなると、どうなるの。ぼーっとして一日中椅子に座っているわけ」
「いいや、買い物、食事、娯楽、すべてが自明に選び取られる、ただそれだけだ。選択を必要とするか自明であるか、それだけなんだ、意識の動かす世界と意識のない世界を分かつものは。人間はね、意識や意志がなくともその生存にはまったく問題ないんだよ。皆は普段通りに生活し、人は生まれ、老い、死んでいくだろう。ただ、意識だけが欠落したそのままで。意識と文化はあまり関係がないんだよ。外面上は、その人間に意識があるか、意識があるかのように振る舞っているかは、全く見分けがつかない。ただ、社会と完璧なハーモニーを描くよう価値体系が設定されているため、自殺は大幅に減り、この生府社会が抱えていたストレスは完全に消滅する」
ミァハたちは、実験でそれを経験したのだ。意識が消滅するというその状態を。


生への執着を上回るほどに、現在時間軸において選択されるに足る高い価値評価を死に与える。死への欲求はどれほど微かなものであれ、誰しもが抱いているものだ。ただ、それ以上に生きていることへの執着が当たり前になっているに過ぎない。急激に死が魅力的に、選択すべき行動に見えた人々には、その不当な価値評価を回避する術はなかった。


調和を描く脳は、一切の迷いを排した、いや、廃した人間だ。 迷いがなければ、選択もない。選択がなければ、すべてはそう在るだけだ。 その風景は、いままでの風景とまったく代わり映えしないものであることも判っている。人間の意識がこれまでも大したことをしてこなかった以上、それが無くなったところで何が変わるというわけでもあるまい。 昨日と同じように、人は買い物に行くだろう。 昨日と同じように、人は仕事場に行くだろう。 昨日と同じように笑うだろう。 昨日と同じように泣くだろう。 単純に自明な反応として。単にそうするべきだからそうするものとして。

こちらは選択と倫理ではなく、選択と存在へと理論が拡大されている。西洋哲学での存在論ではないが、日々の出来事・行動が同じようなものになってしまうと、自動機械のようになる、というのは身につまされる話である。歳をとってきてから日々が早く感じる、という原因はまさしくこれである。また、選択は葛藤やストレス共にあり、ストレスのない世界を作り出すと、意識が消滅する、というモチーフは、よくよく考えると興味深い。