井出草平の研究ノート

ブルデュー『ディスタンクシオン』輪読会第32夜 覚書

旧版297ページ、普及版316ページから。

欲しくても我慢する

通常の機会においては主として女性が自らに制限を課す----二人で一切れしかとらないとか、前日の残り物を食べるとか----という現象をともなっている。少女から一人前の女への移行は、こうして欲しくても我慢するということを知りはじめることで示されるのだ。

普通に読んだらいいのか、精神分析的に読めばいいのか迷うところ。食事の節制→体形の維持→文化資本なので、普通に読んでもよさそうだが、象徴的に読むこともできる。ブルデューのこういう所は深読みしても大したものは出てこないので、放置でよいだろう。

ブルジョワの正規の手続きに従った食べ方

大衆の「気取らない食べかた」にたいして、ブルジョワは正規の手続きにしたがって食事をしようとする配慮を対置する。正規の手続きとは何よりもリズムであり、そこには待つこと、遅れること、こらえることなどが含まれる。料理に急いでむしやぶりつくような様子を決して見せてはならず、最後の一人が料理をとって食べ始めるのを待たねばならず、料理は控え目にとらなければならない。また食べる順序は決まっており、出てくる順番の異なるものどうし、たとえばロースト肉と魚料理、チーズとデザートなどが同時にテーブルに載っていることなど決してあってはならない。デザートが出る前にはテーブル上に残っているすべてのもの、塩入れまでもが取り除かれ、パン屑が掃除される。日常のなかにまで規則の厳格さをとりいれ(毎日朝になると髭を剃って服を着るのは決まりであって、ただ「外出する」ためだけではない)、自宅と外、日常と日常外(後者は庶民階級の場合、お出かけの服を着こむといった行為に結びついている)とを切り離して考えることはすまいとするこの方式は、家族の親密な世 界のただなかに使用人とかお客とかいったよそ者が絶えず存在しているからということだけで説明のつくものではない。この方式は、秩序・行儀・節度などの、決して捨て去ることのできないひとつのハビトゥスの表現なのだ。

「最後の一人が料理をとって食べ始めるのを待たねばならず」というのはブルジョワの飛べる場面としては想像しづらい。一流店ではこういう作業は店の人がだいたいやってくれるからだ。下記にカトラリーの順番も出てくるが、ブルジョワが二流店にいく描写が不思議でたまらない。

料理を出す順序、ナイフ・フォーク類の配列(これは出てくる料理によってその違いが厳密に決まっており、また見た目が美しいように並べられる)、料理の盛りつけそのもの(これは実際に食べられる部分のみならず、芸術作品と同じように形や色の構成が全体としてどうなるかどいう点からも考えられる)その場の行儀作法を支配しているエチケット、料理のとりかたや器具類の使いかた、会食者の席順(これは身分上のヒエラルキーのきわめて厳格な、しかしつねに腕曲な形で示される原則にしたがって決められる)、不作法な振舞いや食べる喜びを身体で表わすこと(たとえば音をたてて食べるとか、慌ててかきこむとか)にたいして全般に加えられる検閲、量よりも質が優先するような飲食物に凝ること(これは料理についてもワインについても同様である)、等々----これらすべての様式化手段は、実質や機能から形式や方式へと重点を移行させ、それによって消費行動と消費物の下品にして物質的な現実を、あるいは結局同じことになるが、単なる感覚aisthesisの典型的な形である食物消費を即座に満足させることに懸命になっている人々の卑しくも物質的な下品さを、否定(ニエ)する----というよりむしろ、自分のものではないとして否認(デニエ)する方向に作用するのである。

「ナイフ・フォーク類の配列」と書いてあるが、外側から取っていきましょうというのは、ランチ営業で忙しい店や宴会料理のマナーであって、一流店は料理の前にカトラリー類は提供されるので、一流店の記述をしないといけないのではないか、とかなり不思議なところである。

アイステーシス aisthesis

先の文章に登場するaisthesisはギリシア語である。英語だとsense/feelingのこと。翻訳の石井さんが原語を出してくるときには、それなりに意味があるので、少しだけ掘っておこう。

Aestheticsartphilosophyjunction.wordpress.com

「美学aesthetics」という言葉は、ギリシャ語の「アイステーシスaisthesis」に由来し、その歴史を通じて様々な意味を与えられてきた。(1)古代ギリシャ哲学において、「アイステーシス」とは、理性や知性から得られる知識である「エイドス」とは対照的に、生きた、感じた経験、感覚を通して得られる知識のことである。(2)18世紀、ドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテンによって、「美学aesthetics」が芸術や美の経験に適用され、「美学」は芸術や美の哲学として知られるようになる。バウムガルテンや後のイマヌエル・カントのテキストでは、芸術や美の認識が合理的な判断といかに異なるかに焦点が当てられている。美学を味覚の判断と結びつけるのは、このような用法である。(3)「批判的美学critical aesthetics」という考え方は、カント哲学に端を発し、ドイツ観念論ロマン主義現象学など、その応答や批判として後に続く伝統によって精緻化されている。
The term ‘aesthetics’, from the Greek ‘aisthesis‘, has been given a number of meanings throughout its history. There are, I suggest, three principal definitions: (1) In ancient Greek philosophy, ‘aisthesis’ refers to lived, felt experience, knowledge obtained through the senses, in contrast to eidos, knowledge derived from reason and intellection. (2) In the eighteenth century, ‘aesthetic’ is applied to experiences of art and beauty by the German philosopher Alexander Baumgarten, and ‘aesthetics’ comes to be known as the philosophy of art and beauty. Texts by Baumgarten and, later, Immanuel Kant, focus upon how the perception of art and beauty differs from rational judgment. It is this usage that links aesthetics with judgments of taste. (3) The idea of a ‘critical aesthetics’ originates in Kant’s philosophy, and is elaborated by the traditions that follow as responses or critiques, such as German idealism, romanticism and phenomenology.

1)の意味を引用したいためにギリシア語を使っているのだろう。

ちなみに「形式」云々はカント、否認はフロイトラカンであろう。フランス現代思想プラトンも入ったマウンティングの激しい文章である。

フランス人はホームパーティに花を手土産にする

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日本人の感覚とは少し違う。

たとえば花は、何の役にもたたないもの、いわば芸術というか、芸術のための芸術とでもいったものに属する(しばしば冗談で「これは食べられませんけどね」などと言ったりする)

その後に、

ために敬遠され、代わって実質的な食物、たとえばワインやデザートなどが手土産として多く使われるようになる。これらの手土産は「いつでも喜ばれる」ものであり、食事の準備にかかる費用を実際に考えてみると大変だから、それを少しでも楽にするためにという自然な共通了解のもとに、遠慮なくおたがいに持ち寄りあうことのできるものである。

これはよく理解はできる。
しかし、4~7割の人が花を持っていっているのでフランスの花率は高い。

実際のところ、上級管理職など金持ちの場合は、すべて揃った状態で客をもてなすので、持っていくものは「花くらいしかない」という状況に陥っているのかもしれない。

芸術のための芸術

304ページに登場する。

ja.wikipedia.org

テオフィル・ゴーティエの言葉らしい。ラスキン先生なども積極的に掲げていた標語らしい。ラスキン先生にみぐるみをはがされたホイッスラーもWikipediaには登場している。

芸術のための芸術という言葉がディスタンクシオンの一文に必要かと言われると、どこにも必要性を感じない。

美学的のアンチテーゼ

大衆的現実主義は慣習行動をそのありのままの機能へと還元し、現にしている通りのことをおこない、いまあるがままの姿でいるよう人をしむけ(「私はこんな人間ですから」といった具合に)、「物事を大げさに考えなどようにさせるものであり(「まあ世の中こんなものさ」といった具合に)、また彼らの実用的物質主義は、わざとらしい感情の表出を検閲したり、さもなくば乱暴な行為や粗野な振舞いによってそうした感情を追い払おうとするものであるが、これらはともに、次のような美学的否認のほぼ完全なアンチテーゼである。すなわち一種の本質的偽善(たとえばポルノグラフィーとエロティシズムを対立させるところに見られるような)によって、形式に優先権を与えることで機能に向けられた関心を隠蔽し、現にしていることをあたかもしていないかのような顔をしておこなうようにしむける美学的否認の、アンチテーゼなのである。

「機能よりも形式を優先して、機能を隠ぺいすること」=美学的否認であって、そのアンチテーゼがの実用的物質主義であり、大衆的現実主義ということである。

機能主義はカントの美的判断に起源の一つが辿れるので、そういう文脈で論を立てているのだろう。

次回

旧版306ページ、普及版325ページから。

今回はディスタンクシオンの内容から離れドリップコーヒーとエスプレッソコーヒーの違いについて語ったことが印象に残った会だった。ただ、脱線というわけではなく、コーヒーの正しい飲み方やエスプレッソのクレマについての話なので、レストランでの振る舞い方の延長のような内容である。コーヒーにおけるディスタンクシオンだ。