井出草平の研究ノート

『スマホ脳』--扁桃体の話からわかるハンセン先生の似非科学力

スマホ脳』から扁桃体とHPA系についてハンセン先生が書いたところについて少し深く読んでみよう。

ハンセン先生はアルプスに行った時に、ホースをヘビと勘違いしてパニくって身動きが取れなくなったという話が書いてある(pp.47-8)。
これが、人類が古くから持つ、扁桃体の働きで、「扁桃体--人体の火災報知器」(p.47)とハンセン先生は言う。  

扁桃体がストレスのシステムHPA系を作動させることだ。扁桃体の作動の仕方は「火災報知器の原則」と呼ばれている。(p.48)

この理解は、間違いかというと、完全に間違いではないまでも、20年くらい前の理解である。現代ではHPA軸、もしくは、大脳辺縁系(limbic)を加えたLHPA軸の機能は多岐にわたることが判明している。
2010年に書かれたレビューでは次のように説明されている。

また、LHPA軸の活性化は、必ずしも恐怖や不安として主観的に体験されるわけではない。例えば、朝の目覚め、食事の摂取、吐き気などは、すべてLHPA軸の活性化につながり、主観的な恐怖感を顕著に増大させることはない。LHPA軸の活性化には、主観的な苦痛や恐怖の程度よりも、体験の特徴(新規性、コントロール、社会的支援など)が重要であることが明らかになりつつある(Abelson et al, 2007)
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3055419/

  • Shin, L. M., & Liberzon, I. (2010). The Neurocircuitry of Fear, Stress, and Anxiety Disorders. Neuropsychopharmacology, 35(1), 169–191. https://doi.org/10.1038/npp.2009.83
  • Abelson, J. L., Liberzon, I., Young, E. A., & Khan, S. (2005). Cognitive Modulation of the Endocrine Stress Response to a Pharmacological Challenge in Normal and Panic Disorder Subjects. Archives of General Psychiatry, 62(6), 668. https://doi.org/10.1001/archpsyc.62.6.668

ハンセン先生はどんな文献を参照したのだろうか。20世紀の論文なのか。巷にあふれる間違いだらけの脳科学本なのか。
できれば、最新の脳科学の論文を読んだほうがいいだろう。ハンセン先生の言っていることは20世紀には妥当だったかもしれないが、今は21世紀なんだ。

ハンセン先生の似非科学

一方、ハンセン先生は次のように述べる。

ここで時計を2週間前、受験する前に戻してみよう。あなたはよく眠れず、食欲もあまりなく、常に不安を感じている。万が一失敗したらどうしよう、とくよくよ悩みながら。これこそが「不安」だ。そのとき、脳内でどんなシステムが作動しているかというと、そう、HPA系だ。不安の場合もストレスの場合も「闘争か逃走か」のメカニズムが作動するが、その原因が異なるのだ。ストレスは脅威そのものに対する反応だが、不安は脅威になり得るものに対して起こる。(p.53)

「闘争か逃走か」とはハンセン先生の言い回しなので、確認しておこう。

ライオンに遭遇したら、素早く反応して、攻撃に出るか、走って逃げるかしなければならないからだ。つまり「闘争か逃走か」。(p.44)

ライオンに遭遇するという状況になぞらえて、ストレスがかかったら戦うか逃げるか、「闘争か逃走か」と言っているようだ。

確かに、ライオンに遭遇したことと、満足に準備ができなかった受験を比喩的に結びつけるのは筋が通っている。だから、だいたいの読者はこんなところで引っかからずに、説得されてしまうのだろう。

しかし、さきほど確認したように、HPA系は朝の目覚めや、食事の摂取の活性化でも活性化するのである。

ハンセン先生のように、HPA系を「闘争か逃走か」のように捉えることは不適切であるし、ハンセン先生の言っていることは、いわゆる「似非科学」の部類であることがわかる。

人類は社会に柔軟に適応できる

さて、最も重要なのは、HPA系は社会的な環境に大きく左右されるという指摘あろう。
ハンセン先生は、ホモサピエンスが誕生して20~30万年間、スマホを使わずに生きてきて「人類は現代に適応できない」(p.27)と主張しているからだ。
人類は生物学的に柔軟ではなく、スマホのある世界に適応などできないというのだ。
シロクマですら、1万年から10万年ほどかけて、白い毛皮に変わった(p.28)のだからと。

そのために、ハンセン先生は、わざわざ扁桃体やHPA系の話を出してきているのだ。

しかし、研究(21世紀に入ってからの研究)では、生物学的に規定されものよりも社会的状況の方が重要だということが判明している。
ハンセン先生が「人類は現代に適応できない」として挙げた論拠が間違っており、逆に、環境が変わっても、人類は柔軟に適応することが示唆されている。
ハンセン先生の話の展開から「人類がスマホのある世界に適応などできない」という結論を導きだすことは困難なのだ。少なくとも、21世紀に入ってからの研究からはハンセン先生とは逆の示唆が導きだせる。

つまり、20万年、30万年使ってこなかったものだったとしても、問題なく適応できるのではないか、と。

日本で稲作が始まったのも3000年前くらいである。20万年、30万年というスパンから考えれば、つい最近のことである。
たったそれくらいの歴史しかないのに、私たちは当たり前のように米を食べている。
通勤・通学に使っている電車もはじめて開業したのは、明治5年(当時は蒸気機関車)で151年前である。たった151年前に初めてできたものに私たちは当たり前のように適応している。
日本でのカラーテレビの放送は1960年に開始した。63年前の出来事だが、年々視聴率が落ち、適応どころか、捨てられつつあるメディアになっている。

ハンセン先生のロジックだと、人類は、これらの物へも不適応を示しているはずだが、そんなことはない。
扁桃体やHPA系の話など出さずとも、結論は最初からわかっているのだ。

エセ脳科学を使った言い訳

ハンセン先生は、アルプスでホースをヘビと勘違いしてパニくったのも、人類に刻まれた本能のようなものが働いたから仕方ないんだ!と言い訳をしている。
20世紀であれば通用した言い訳だが、現代では難しい。
残念ながら、現代科学が導く結論は、ハンセン先生はホースとヘビの見分けがつかないほど目が悪いか、想像以上にドジだ、ということだ。

私たちがハンセン先生に学べることは、エセ脳科学を使えば、自分の失敗も、壮大なロジックで言い訳ができる、ということだろう。この分野に詳しい人がいれば、お前はアホか!と言われて終わるのだが、『スマホ脳』を読んだほとんどの人は、ハンセン先生の言い訳を信じてしまったようなので、これはきっと使えるスキルなのだ。

新しいスキルとして「エセ脳科学を使った言い訳」を提唱しておこう。このスキルを身に着けているのは、スウェーデンにいるハンセン先生くらいなので、競合相手も少ない。何か失敗したら、エセ脳科学で乗り切るというのはいかがだろうか。

扁桃体やHPA系に限らず、使える理論はたくさんある。『エセ脳科学で失敗をごまかす方法』みたいな本が一冊書けそうに思えてきた。