原著と日本語翻訳版を並べて輪読会をしているが、不自然な訳が散見されるため、誤訳をリストアップすることにした。第1部第1章だけで、334箇所もの誤訳が見つかった。
結論として、翻訳者たちの翻訳能力は不十分であると言わざるを得ない。
みすず書房は、自社の本の品質を把握できているのだろうか。誤訳があまりにも多く、もはや翻訳本としての体をなしていない。それにもかかわらず、6380円という高価格である。高額な詐欺商品を掴まされた気分である。
第1部1章はじまり~21ページ下段7行目まで
「état civil」の限定的な訳語について
原文: Un homme du XVIe ou du XVIIe siècle s’étonnerait des exigences d’état civil auxquelles nous nous soumettons naturellement.
翻訳: 十六世紀ないし十七世紀の人間は、私たちがごく当然のこととして受け入れている戸籍届の記入項目を見て、驚くかもしれない。
問題点: 「戸籍届の記入項目」はやや限定的すぎる。「état civil」はもっと広い意味を持つ。
理由: 「état civil」は、出生、婚姻、死亡など、個人の身分に関する公的な記録全般を指す。
修正案: 16世紀か17世紀の人間は、私たちが当然のように受け入れている身分証明の要件に驚くだろう。
アフリカ奥地における年齢の曖昧な表現について
原文: Dans la brousse africaine, c’est encore une notion bien obscure, quelque chose qui n’est pas si important qu’on ne puisse l’oublier.
翻訳: アフリカの未開の土地では、年齢は、まだはっきりしない観念となっているらしい。そもそも年齢は、ほとんど重要なことではなく、それゆえに忘れてもあまり困らぬものなのである。
問題点: 「らしい」「そもそも」「ほとんど」「あまり」など、曖昧な表現が多く、原文の持つ断定的なニュアンスが失われている。
理由: 原文は、アフリカの奥地では年齢は重要視されていない、という事実を述べている。
修正案: アフリカの奥地では、年齢はまだ不明瞭な概念であり、忘れても差し支えないほど重要ではない。
技術文明における生年月日の重要性に関する記述の不備について
原文: Mais, dans nos civilisations techniciennes, comment oublierait-on la date exacte de sa naissance, alors qu’à chaque déplacement nous devons l’écrire sur la fiche de police à l’hôtel ; à chaque candidature, à chaque démarche, à chaque formule à remplir, et Dieu sait s’il y en a et s’il y en aura de plus en plus, il faut toujours la rappeler.
翻訳: だが、今日の技術文明の世にあってはどうだろうか。自分の正確な生年月日を忘れることができるだろうか。宿泊者名簿にそれを書き込まなければならない。旅行のためにホテルに泊まるたびに、公式の書式に記入するたびに年齢を書き加えなければならないのである。現在このようにあるとして、それがさらに増大していくのかどうかはあずかり知らぬことであるが、かれがいつでも年齢を思い出さねばならないのを、
問題点: 翻訳が途中で途切れている。また、前述の通り「現在このようにあるとして、…」の部分は原文にない、不要な追加。
理由: 明らかな誤訳、および原文にない文言の追加。
修正案: しかし、私たちの技術文明においては、どうして正確な生年月日を忘れられるだろうか。ホテルに泊まるたびに警察の用紙に記入し、何かを申請するたびに、手続きをするたびに、書類に記入するたびに、それを思い出さなければならない。そうした書類が山ほどあり、さらに増え続けるであろうことは、神のみぞ知るところだ。
学校における年齢申告と番号管理の導入に関する誤訳について
原文: Petit Paul donnera son âge à l’école, il deviendra vite Paul N. de la classe x, et quand il prendra son premier emploi, il recevra avec sa carte de Sécurité sociale un numéro d’incription qui doublera son propre nom.
翻訳: かれがいつでも年齢を思い出さねばならないのを、幼いポールは年齢がわかれば学年の終わり末になるのである。そしてかれが初めて仕事に就くとき、かれは自分の名前に並んで登録番号の記入されている社会保険証を受けとることになるだろう。
問題点: 前半の意味が不明瞭。「学年の終わり末になる」は文脈に合わない。
理由: Petit Paul donnera son âge à l’école, il deviendra vite Paul N. de la classe x」は年齢を申告し、学校のシステム内で管理されるようになることを指す。
修正案: 幼いポールは学校で年齢を申告し、すぐに「x組のポール・N」となるだろう。そして、初めて仕事に就くときには、社会保険証を受け取り、そこには自身の名前に加えて登録番号が記載されているだろう。
個人が番号になることの強調の欠如について
原文: En même temps, et plutôt que Paul N., il sera un numéro, qui commencera par son sexe, son année de naissance, et le mois de l’année.
翻訳: つまりそのことは、かれがポール某であるよりも性別や生年月日で始まるひとつの番号と化してしまうことだといえよう。
問題点: 「つまりそのことは」という接続詞は不要。
理由: 原文は個人が番号で管理されることを強調している。
修正案: 同時に、ポール・Nというよりもむしろ、性別、生まれた年、生まれた月で始まる番号になるのだ。
未来の予測の断定的な表現の欠如について
原文: Un jour viendra où tous les citoyens auront leur numéro matricule : c’est le but des services d’identité.
翻訳: すべての市民が登録番号をもつ日がいつかやって来ようが、それこそ身分証明書業務の目ざすところなのである。
問題点: 「いつかやって来ようが」は不要。
理由: 原文は未来の予測と目的を断定的に述べている。
修正案: すべての市民が登録番号を持つ日が来るだろう。それこそが身分証明サービスの目指すところなのである。
姓名の将来に関する記述の誤りについて
原文: Celui-ci pourrait très bien, à la limite, non pas disparaître, mais être réservé à la vie privée, tandis qu’un numéro d’identité le remplacerait pour l’usage civil, dont la date de naissance serait l’un des éléments constitutifs.
翻訳: こうした傾向の極限においても、姓名はやはり消滅することはないかもしれないが、多分に私生活のうちにのみとどまるものとなろう。これに対し、公的慣行においては身分証番号が姓名に入れ替わり、生年月日がこの番号の構成要素となることだろう。
問題点: 「こうした傾向の極限においても」は原文にない。「多分に」もニュアンスが異なる。
理由: 原文は「極端な場合」という仮定の話をしている。
修正案: 究極的には、これは消滅するわけではないにしても、私生活に限定され、一方で身分証明番号が公的な場面でそれに取って代わり、生年月日がその構成要素の一つとなるだろう。
「prénom」の不正確な訳語について
原文: Le prénom avait été, au Moyen Age, considéré comme une désignation trop imprécise, il avait fallu le compléter par un nom de famille, souvent un nom de lieu.
翻訳: 中世において、個人名 (prénom) はある個人を指示するにはあまりに限定性を欠いたものと考えられ、家族名やときとしては地名で補う必要があった。
問題点: 「個人名 (prénom) 」という訳は不正確。「prénom」は「名前」であり、「個人名」と限定する必要はない。
理由: prénomは「名前」、nom de familleは「苗字」。
修正案: 中世においては、名前は個人を特定するには不正確すぎると考えられ、名字(多くの場合、地名)で補う必要があった。
年齢の測定可能性に関する誤訳について
原文: L’âge, quantité mesurable légalement à quelques heures près, ressort d’un autre monde, celui de l’exactitude et du chiffre.
翻訳: これに対して年齢はほんの数時間のうちに、法律的に定まった仕方で確認しうる数量であり、厳密性と数字の世界という、全く別の世界に由来している。
問題点:「ほんの数時間のうちに」は原文の「à quelques heures près(数時間単位で)」を誤解している。「法律的に定まった仕方で」もやや冗長。
理由: 原文は年齢が数時間単位で正確に測定可能であることを述べている。
修正案: 年齢は、数時間単位で法的に測定可能な量であり、正確さと数字という別の世界に属している。
生年月日の記載を必要としない文書に関する冗長な説明について
原文: Il existe cependant des actes qui nous engagent gravement, que nous rédigeons nous-mêmes, et dont le libellé n’exige pas l’indication de la date de naissance.
翻訳: しかしながら、私たちを重々しく拘束し、私たち自身が起草し、文書作成にあたっては生年月日の記入を強要しない文書がある。
問題点: 「文書作成にあたっては」が冗長。
理由: 原文は、単に「その文言が生年月日の記載を必要としない」と述べている。
修正案: しかし、私たちを強く拘束し、私たち自身が作成する文書の中には、生年月日の記載を必要としないものもある。
手形、小切手、遺言に関する説明の冗長さについて
原文: De genres bien différents, les uns sont des effets de commerce, traites, ou chèques, les autres sont les testaments, mais ils ont tous été inventés à des époques déjà anciennes, avant que la rigueur de l’identité moderne se soit introduite dans les mœurs.
翻訳: 種類は全く異なるが、一つは手形や小切手の類であり、他は遺言である。だがこうしたものはすべて近代的な身分証明の厳密さが習俗のうちに導入されるに先だって発明されたものなのだ。
問題点: 「類」という言葉は不要。
理由: 原文は、単に「手形や小切手」と「遺言」を例として挙げている。
修正案: 種類は全く異なるが、一方は手形や小切手、もう一方は遺言である。しかし、これらはすべて、近代的な身分証明の厳格さが慣習に取り入れられる前に発明されたものだ。
出生登録の義務化に関する説明の不正確さについて
原文: L’inscription de la naissance sur les registres paroissiaux a été imposée aux curés par François Ier, et il fallut que, pour être respectée, cette mesure, qui était déjà prescrite par l’autorité des conciles, fût acceptée par des mœurs longtemps rétives à la rigueur d’une comptabilité abstraite.
翻訳: 教区の記録簿に生年月日を記入することは、フランソワ一世によって司祭に対し義務づけられたが、諸公会議の権威によってすでに規定されていたこの手続きを遵守させるためには、抽象的な計量性の厳密さに長い期間頑強に抵抗を示していた習俗によって受け入れられることが必要だったのである。
問題点: 「生年月日」は「出生」で十分。「計量性」は「計算」や「記録」の方が文脈に合う。
理由: 文脈から、「出生記録」を義務付ける話であり、「生年月日」と限定する必要はない。また、「comptabilité」は会計・経理の意味だが、ここでは「記録」と訳す方が自然。
修正案: 教区の記録簿に出生を登録することは、フランソワ1世によって司祭に義務付けられた。公会議の権威によってすでに規定されていたこの措置が遵守されるためには、抽象的な記録の厳格さに長い間抵抗していた慣習に受け入れられる必要があった。
18世紀の司祭の記録の正確さに関する記述の不正確さについて
原文: On admet que c’est seulement au XVIIIe siècle que les curés ont tenu leurs registres avec l’exactitude, ou la conscience d’exactitude, qu’un Etat moderne exige de ses officiers d’état civil.
翻訳: 近代国家が戸籍課の官吏に要求している正確さで、あるいは正確さを意識して、主任司祭が登録を受けつけたのは、周知のようにようやく十八世紀になってからのことにすぎない。
問題点: 「周知のように」は原文にない。「主任司祭が登録を受けつけた」は、原文の「司祭たちが記録をつけた」とニュアンスが異なる。
理由: 原文は、単に「18世紀になってようやく、司祭たちは正確に記録をつけるようになった」と述べている。
修正案: 司祭たちが、近代国家が戸籍係に求めるような正確さ、あるいは正確さへの意識をもって記録をつけるようになったのは、18世紀になってからのことだとされている。
DDの訳出と対象人物の誤認について
原文:
...propagini, Martino de Vos pictore, DD natus est ille ann MDXXXVI die IX febr uxor ann MDLV die XVI decembr liberi à Ægidius ann MDLXXV die XXI Augusti Johanna ann MDLXVI die XXVI septembr.
翻訳(翻訳書の例):
幸福ナルホールトマンス家ノ、アントニィ・アンセルムトヨハンナニ調和アレ。 画家マルティノ・ド・ヴォス。以下ノ者ヲ描キ寄贈ス。ソノ妻、生年一五三六年二月九日、息子エギディウス、一五七五年十二月十二日、 娘アウグスチ・ヨハンナ、 一五五六年九月二十八日
問題点:
- DDの誤解:
翻訳書では「DD」を「寄贈した」と解釈しており、すなわち「Dono dedit」の略と読んでいるが、文脈上は「DD」は肖像画に描かれた対象人物の略号または頭文字であると解釈すべきである。 - 対象人物の誤認:
「natus est ille …」の記述は、対象人物(おそらく家族の家長)の出生情報を示しているが、翻訳書ではこれを妻の生年月日と誤認しているように見える。正しくは、本人が1536年2月9日生まれ、その妻は1555年12月16日生まれである。 - 誕生日の誤読:
息子Ægidiusの出生情報は「ann MDLXXV die XXI Augusti」で、正しくは1575年8月21日であるにも関わらず、翻訳書では「一五七五年十二月十二日」と誤っている。 - 娘の名前および日付の不統一:
娘の名前は原文では「Johanna」と記されているが、翻訳書では「アウグスチ・ヨハンナ」と不要な接頭語が付加されており、また、出生日は原文「ann MDLXVI die XXVI septembr」(1566年9月26日)であるにもかかわらず、「一五五六年九月二十八日」と誤っている。
理由:
- 「DD」は通常、作品の寄贈者を示す「Dono dedit」として出現するケースとは異なり、ここでは続く「natus est ille …」と一緒に記されていることから、対象人物自身の情報として機能している。
- 出生日の記述は家族の系譜を正確に伝えるために極めて重要であり、各人物の出生年月日が正確に区別される必要がある。
- 数字および日付表記はラテン語の定型表現に忠実に解釈すべきで、例えば「XXI Augusti」は8月21日、「XXVI septembr」は9月26日と読むのが正しい。
修正案:
「調和あるアンタニウス・アンセルムおよびヨハンナ・フートマンス・フェリチクスの子孫:画家マルティノ・ド・ヴォスによって刻まれたこの銘文によれば、DD(対象人物の略号)は1536年2月9日に生まれ、彼の妻は1555年12月16日に生まれた。さらに、息子Ægidiusは1575年8月21日に、娘Johannaは1566年9月26日に生まれた。
この銘文は、家族の出生情報を精密に記録することが、当時のアイデンティティの象徴として機能していたというモチーフを私たちに示唆している。」
コルディエの対話録の登場人物に関する不正確さについて
原文: Dans les dialogues de Cordier9, on est à l’école, pendant une récréation, et deux garçons s’interrogent : « Quel âge avez-vous ? — Treize ans, comme j’ay entendu de ma mère. »
翻訳: コルデエの対話録の中に、学校で休み時間に二人の男生徒が問答している場面がある。「君の年はいくつ?」「十三歳だよ、僕の母から聞いたところによるとね」。
問題点: 「男生徒」ではなく「男の子」の方がより自然。
理由: 原文は"garçons"であり、「生徒」と限定する必要はない。
修正案: コルディエの対話録の中に、学校で休み時間に二人の男の子が尋ね合っている場面がある。「君の年はいくつ?」「十三歳だよ、母から聞いたところによるとね」。
「Ætatis suae」の誤訳について
原文: Ætatis suae 29
翻訳: 二十九歳/容姿
問題点: 「Ætatis suae」は「~歳の時に」という意味であり、「容姿」は誤訳。
理由: ラテン語の"suae"は所有形容詞、"Ætatis"は年齢を意味する"aetas"の属格。"容姿"は外見を指す言葉であり、年齢を示す文脈では不適切。
修正案: 29歳の時に、または、29歳
肖像画の銘文内容の歪曲について
原文: (例) coniux meus Johannes me complevit anno 1439°, 17 Junii... Ætas mea triginta trium annorum, 33 ans.
翻訳: (例) 一四三九年六月十七日、ワガ夫婦ヲ描ケリ…三十三歳ナリシ時ノ容姿
問題点: 「ナリシ時ノ容姿」という表現は原文にはなく、余計な付加。
理由: 原文は単に年齢を述べているだけ。「ナリシ時ノ容姿」とすることで、原文の持つ簡潔な情報伝達を損なっている。
修正案: (例) 夫ヨハネス、1439年6月17日に私を描き終える…私の年齢は33歳
サンチョ・パンサの娘に関する記述の「槍」の解釈について
原文:
« Elle peut avoir quinze ans, ou deux ans de plus ou de moins, toutefois elle est aussi grande qu’une lance et fraîche qu’une matinée d’avril… »
翻訳書の解釈:
「彼女は十五歳だろうと思うが、あるいは二歳ほど年上かもしくは年下かもしれない。ともかくも彼女は槍に負けないくらい背が高く、四月の朝のようにみずみずしい。」
問題点:
「槍に負けないくらい背が高く」という訳語は、原文の比喩表現「aussi grande qu’une lance」の本来の意味を誤って、身体的な高さ(背の高さ)を強調する形にしてしまっている。
理由:
- 原文における「grande」は、単に物理的な高さを指すのではなく、若さや気高さ、または洗練された印象を表現する比喩として用いられていると考えられる。
- 年齢の不確かさを示す文脈では、体格や背の高さに関する具体的な記述は不要であり、本来の意図は彼女の若々しさや瑞々しさを強調することにある。
修正案:
「彼女は15歳か、あるいは2歳ほど上か下か、そのくらいだろう…そして、四月の朝のようにみずみずしい。」
※ここでは、「槍に負けないくらい背が高い」という表現は削除し、原文の比喩が伝えるべき若々しさや鮮やかさに焦点を当てる。
「Il s’agit d’un homme du peuple」の訳出の誤りについて
原文: Il s’agit d’un homme du peuple.
翻訳: 下層の民衆の感覚はこのようなものなのである。
問題点: 原文はサンチョ・パンサ個人について述べているが、翻訳は「民衆の感覚」一般について述べているように読める。
理由: "Il s’agit de" は「〜についてである」「〜のことである」という意味。ここでは、サンチョが「民衆の一人」である、という事実を述べている。
修正案: これは、ある庶民の話である。(または、彼は庶民の一人である。)
個人の登録番号への移行過程の説明の不正確さについて
原文: Petit Paul donnera son âge à l’école, il deviendra vite Paul N. de la classe x, et quand il prendra son premier emploi, il recevra avec sa carte de Sécurité sociale un numéro d’incription qui doublera son propre nom.
翻訳: かれがいつでも年齢を思い出さねばならないのを、幼いポールは年齢がわかれば学年の終わり末になるのである。そしてかれが初めて仕事に就くとき、かれは自分の名前に並んで登録番号の記入されている社会保険証を受けとることになるだろう。
問題点: 「学年の終わり末になる」など、意味不明な訳語が含まれており、個人が番号で識別されるようになる過程が正しく説明されていない。
理由: 学校や社会システムの中で個人が番号によって管理されるようになる、という重要な変化の過程が、誤った訳語によって不明瞭になっている。
修正案: (再掲) 幼いポールは学校で年齢を申告し、すぐに「x組のポール・N」となるだろう。そして、初めて仕事に就くときには、社会保険証を受け取り、そこには自身の名前に加えて登録番号が記載されているだろう。
21ページ下段8行目から23ページ上段4行目まで
中世の学問における「人生の諸時期」の過剰な分類について
原文: Les « âges de la vie » occupent une grande place dans les traités pseudo-scientifiques du Moyen Age. Leurs auteurs emploient une terminologie qui nous paraît purement verbale : enfance et puérilité, jeunesse et adolescence, vieillesse et sénilité, chacun de ces mots signifie une période de la vie différente.
翻訳: 「人生における諸時期」の問題は、中世の擬似的な学問の諸々の概論書においては、重要な地位を占めている。これらの著作家たちは、私たちには完全に言葉の上のことにしか思われない用語法を用いている。子供(enfance)と小児(puérilité)、若者(jeunesse)と青春期の少年(adolescence)、老人(vieillesse)と老衰(sénilité)など、これらの言葉はそれぞれ人生における異なる時期を意味しているのである。
問題点: 「擬似的な学問」、「私たちには完全に言葉の上のことにしか思われない」、「青春期の少年」といった表現は、原文の客観的な記述から逸脱し、訳者の主観や現代的な価値観が混入している。「など」も不要。
理由: 原文は中世の学問における年齢区分の用語を客観的に説明しており、現代の視点からそれを評価したり、用語を現代風に言い換えたりする必要はない。
修正案: 「人生の諸段階」は、中世の学術論文において重要な位置を占めている。その著者たちは、現代の私たちには単なる言葉遊びに思えるような用語法を用いている。すなわち、幼少期(enfance)と幼稚さ(puérilité)、青年期(jeunesse)と思春期(adolescence)、老年(vieillesse)と老衰(sénilité)といったように、これらの言葉はそれぞれ人生における異なる時期を意味している。
現代における「小児期」や「老衰期」の意味の変質について
原文: Nous avons depuis emprunté quelques-uns d’entre eux pour désigner des notions abstraites comme la puérilité ou la sénilité, mais ces sens n’étaient pas contenus dans les premières acceptions.
翻訳: 私たちはこうした用語のうちから、小児期 (puérilité) や老衰期 (sénilité)など抽象的な観念を示すために若干のものを借用したが、 この意味は最初に用いられていたときの意味には含まれていない。
問題点: 「若干のものを借用した」は、原文の"emprunté quelques-uns d'entre eux"(それらのうちのいくつかを取り入れた)を過度に意訳している。
理由: 現代フランス語でもpuérilitéやsénilitéは普通に使われる語であり、「借用した」と過去の出来事のように表現するのは不適切。
修正案: 私たちはその後、これらの言葉のいくつか(例えばpuérilitéやsénilité)を抽象的な概念を表すために使うようになったが、これらの意味は元々の用法には含まれていなかった。
「学問の用語法」から「身近な言葉」への変化について
原文: En fait il s’agissait à l’origine d’une terminologie savante qui deviendra par la suite familière.
翻訳: じつのところは、起源においては学者の用語法であったものが、次いでごく身近な言葉になっていくのである。
問題点: 「じつのところは」が不要。「ごく身近な言葉」は、"familière"を過度に強調している。 「なっていくのである」という断定的な表現も不適切。
理由: 原文は、学術用語が一般に普及したという事実を淡々と述べている。
修正案: 実際、これらは元々学術用語であったが、その後、日常的な言葉となっていった。
中世における「年齢」概念の重要性について
原文: Les « âges », « âges de la vie », « âges de l’homme », correspondaient dans l’esprit de nos ancêtres, à des notions positives, si connues, si répétées, si usuelles, qu’elles sont passées du domaine de la science à celui de l’expérience commune.
翻訳: 「諸時期」「人生における諸時期」「成熟の年齢」などは、私たちの祖先の心のなかでは、 よく知られていて、非常に頻繁に用いられ、ごく普通の自明にしてかつ確実な観念だったのであり、それゆえ学問の領域から日常経験の世界へととりこまれていったのである。
問題点: 「成熟の年齢」は原文にない(原文は « âges de l’homme »、「人間の年齢」)。「ごく普通の自明にしてかつ確実な観念」は、"des notions positives"を過度に強調している。
理由: 原文にない語の追加、および、原文のシンプルな表現を大げさにしている。
修正案: 「年齢」、「人生の諸段階」、「人間の年齢」は、私たちの祖先の考えの中では、ごく当たり前で、よく知られ、繰り返し使われる確かな概念であり、それゆえ学問の領域から日常の経験へと移行していった。
現代における「年齢」概念の捉え方について
原文: Nous n’avons plus idée aujourd’hui de l’importance de la notion d’âge dans les représentations anciennes du monde.
翻訳: 私たちは今日ではこの年齢の概念にたいして、それが古代人の世界の諸表象のなかで有していたのと同じほどの重要性を与えてはいない。
問題点: 「この年齢の概念にたいして」がやや不自然。「古代人の世界の諸表象」も硬い表現。
理由: より簡潔で自然な日本語にできる。
修正案: 今日の私たちは、古代の世界観において年齢の概念が持っていた重要性を理解できなくなっている。
「年齢」の学問的カテゴリーについて
原文: L’âge de l’homme était une catégorie scientifique du même ordre que le poids ou la vitesse pour nos contemporains : elle appartenait à un système de description et d’explication physique qui remonte aux philosophes ioniens du VIe siècle avant Jésus-Christ, que les compilateurs médiévaux reprirent dans les écrits du Bas-Empire, qui inspire encore les premiers livres imprimés de vulgarisation scientifique au XVIe siècle.
翻訳: 人生の諸時期は、現代の人びとにとっての重量や速度に相当するような次元の、学問的なカテゴリーであった。この概念は紀元前六世紀のイオニアの哲学者たちにさかのぼる記述と身体的説明の体系に属していたのであり、中世における古代思想の借用者たちがローマ帝国末期の諸書のなかからそれを再び採用し、さらに十六世紀に学問を普及させていく初期の印刷書籍にまでも影響をあたえるのである。
問題点: 「人生の諸時期」は「人間の年齢」とする方が文脈に合う。「現代の人びとにとっての重量や速度に相当するような次元の」という表現が冗長。「記述と身体的説明の体系」も「記述と説明の体系」で十分。
理由: より簡潔かつ正確な表現に修正する。
修正案: 人間の年齢は、現代人にとっての重量や速度に相当する、学問的なカテゴリーであった。この概念は、紀元前6世紀のイオニアの哲学者たちに遡る記述と説明の体系に属しており、中世の編纂者たちがローマ帝国末期の文献からそれを再び取り入れ、さらには16世紀の初期の学術普及書にまで影響を与えた。
『万物の偉大なる所有主』の紹介について
原文: ...l’édition de 155610 du Grand Propriétaire de toutes choses. Il s’agit d’une compilation latine du XIIIe siècle, qui reprenait elle-même toutes les données des écrivains du Bas-Empire. On jugea opportun de la traduire en français et de lui donner par l’imprimerie une plus grande diffusion : cette science antiquo-médiévale était donc encore au milieu du XVIe siècle objet de vulgarisation.
翻訳: ...一五五六年出版された『万物の偉大なる所有主』をひもとくならばこの問題がよく理解されよう。この書物は十三世紀にラテン語で編集されたものだが、それ自体がローマ帝国末期の著作家の残したものの再録である。これをフランス語に翻訳し、印刷して、さらに広汎な普及をはかるのに時宜を得たものと考えられたのである。この古代・中世的な学問は、十六世紀中葉にも依然として普及対象となっていた。
問題点: 翻訳された理由の説明が不足している。
理由: 「時宜を得たものと考えられた」だけでは、なぜこの本を翻訳し広めたのか読者に伝わらない。
修正案: ...1556年版の『万物の偉大なる所有主』を参照すれば、この問題がよく理解できるだろう。これは13世紀にラテン語で編纂されたもので、ローマ帝国末期の著者たちの著作から様々な情報を集めたものである。当時、これをフランス語に翻訳し、印刷によってさらに広く普及させることが有益であると考えられた。つまり、この古代・中世の学問は、16世紀中頃になってもなお、普及の対象となっていたのである。
『万物の偉大なる所有主』の内容について
原文: Le Grand Propriétaire de toutes choses est une encyclopédie de toutes connaissances profanes et sacrées, un Grand-Larousse, mais dont la conception ne serait pas analytique, et qui traduirait l’unité essentielle de la nature et de Dieu.
翻訳: 『万物の偉大なる所有主』は、聖界と俗界のすべての知識を網羅する一種の百科全書であり、『大ラルース』であるが、その概念は分析的とはいえないようであり、自然と神の本質的な一体性を表明するものと思われる。
問題点: 「聖界と俗界」という区別は、原文の"profanes et sacrées"(世俗と聖)を過度に強調している。「『大ラルース』であるが」は、現代の読者には分かりにくい比喩。
理由: より現代の読者に分かりやすい表現に修正する。
修正案: 『万物の偉大なる所有主』は、世俗と聖なるものを含むあらゆる知識を集めた百科事典、現代でいう『ラルース大事典』のようなものであるが、その構成は分析的ではなく、自然と神の本質的な一体性を示すものと考えられている。
「自然と神の本質的な一体性」について
原文: ... qui traduirait l’unité essentielle de la nature et de Dieu. Une physique, une métaphysique, une histoire naturelle, une physiologie et une anatomie humaines, un traité de médecine et d’hygiène, une astronomie, en même temps qu’une théologie.
翻訳: ...自然と神の本質的な一体性を表明するものと思われる。自然学や形而上学、博物学、生理学や人体解剖学、また医学と衛生学の概念、天文学といったものが神学と共存していた。
問題点: 「表明するものと思われる」は、原文の"traduirait"(表しているだろう)を弱めている。「~といったものが」は、内容を限定的に解釈させる可能性がある。
理由: 原文の持つ強い確信のニュアンスを表現し、包括的な内容を伝える。
修正案: ... 自然と神の本質的な一体性を示すものである。そこでは、自然学、形而上学、博物学、生理学、人体解剖学、医学と衛生学、天文学が、神学と並んで扱われている。
「自然なものと超自然なものとのあいだに対立はない」について
原文: L’idée qu’il n’y avait pas d’opposition entre le naturel et le surnaturel appartenait à la fois aux croyances populaires héritées du paganisme, et à une science physique aussi bien que théologique.
翻訳: 自然なものと超自然なものとのあいだに対立はないとする思想は、異教時代から継承された民間信仰に属するとともに、神学でもあった自然学に属していたのである。
問題点: 「神学でもあった自然学」という表現が不明瞭。
理由: 当時の自然学が神学的な要素を含んでいたことを明確にする。
修正案: 自然なものと超自然なものの間に対立はないとする考えは、異教から受け継がれた民衆の信仰に属するとともに、神学的な要素を含む自然学にも属していたのである。
「科学の発達を遅らせた」責任について
原文: Je croirais assez que cette rigoureuse conception de l’unité de la nature, doit être tenue pour responsable du retard du développement scientifique, bien plus que l’autorité de la Tradition, des Anciens ou de l’Ecriture.
翻訳: 自然の統一性にかんするこの厳密な思想は、科学の発達を遅らせたという面からみると、伝統や古代人たち、ないしは聖書の権威よりももっと責任があると私は思っている。
問題点: 「~という面からみると」は不要。「私は思っている」も、原文の"Je croirais assez que"(私はむしろ~だと考える)を弱めている。
理由: より簡潔で力強い表現にする。
修正案: このような自然の統一性に関する厳格な考え方こそが、伝統や古代の権威、あるいは聖書の権威よりも、科学の発展を遅らせた原因であると私は考える。
普遍的決定論について
原文: ...aucune des catégories du cosmos ne dispose d’une autonomie suffisante, on ne peut plus rien contre le déterminisme universel. La connaissance de la nature se limite alors à l’étude des relations qui commandent les phénomènes par une même causalité — une connaissance qui prévoit, mais ne modifie pas.
翻訳: ...宇宙のいかなるカテゴリーも十分な自律性を備えていないのであり、いかにしても普遍的決定論に対抗することはできなくなる。したがって自然についての知識は、この同一の因果律によって諸現象が律せられている関係ということに限定されてしまう。この知識は予想することはできても、決して修正することのできないものなのである。
問題点: 全体的に文章が硬く、意味が取りにくい。
理由: より分かりやすい表現にする。
修正案: ...宇宙のいかなる部分も十分な自律性を持っておらず、普遍的な決定論には抗いようがない。したがって、自然についての知識は、同一の因果律によって現象が支配されているという関係性の研究に限られてしまう。この知識は予測はできても、現象を変えることはできない。
占星術について
原文: Il ne demeure d’autre issue à cette causalité que la magie ou le miracle. Une même loi rigoureuse règle à la fois le mouvement des planètes, le cycle végétatif des saisons, les rapports entre les éléments, le corps de l’homme et ses humeurs, et le destin de l’homme : ainsi l’astrologie permet-elle de connaître les incidences personnelles de ce déterminisme universel...
翻訳: 同一の厳密な法則が、惑星の運動、四季の植物生命の循環、元素間の関係、人間の身体と体液、人間の運命などのすべてを規制してくれるものが、占星術であったのだ。
問題点: 「規制してくれるものが、占星術であったのだ」という表現は、占星術を肯定的に捉えているように読める。また、原文のコロン(:)以降の説明が訳されていない。
理由: 原文は、占星術が、普遍的決定論の中で個人の運命を知る手段として機能していたことを説明している。
修正案: このような因果関係から逃れるには、魔術か奇跡に頼るしかない。惑星の運行、季節ごとの植物の生育サイクル、元素間の関係、人間の身体と体液、そして人間の運命、これら全てを同じ厳格な法則が支配している。だからこそ、占星術によって、この普遍的決定論が個人に及ぼす影響を知ることができるのである。
23ページ5行目から27ページ下段2行目まで
数の一致と万物の連関
原文: La correspondance des nombres apparaissait alors comme l’une des clés de cette solidarité profonde ;
翻訳: 数の照応が、当時はこの深遠な連鎖にとっての一つの鍵のように思われていた。
問題点: 「深遠な連鎖」という表現が曖昧。
理由: 具体的に何を指しているのか不明瞭。原文の "solidarité profonde" は、宇宙の万物が相互に関連し合っているという思想を表している。
修正案: 数の一致は、当時、この(万物の)深遠な連関を解く鍵の一つと考えられていた。
『エネーイス』の解釈
原文: Il interprétait les chants II et III comme l’image de l’enfance avide de récits fabuleux, etc.
翻訳: そして『エネイド』の第一部と第二部とを、架空の物語のなかの貪欲な子供のイメージとして解釈したのである。
問題点: 『エネイド』の「第一部と第二部」は誤訳。「架空の物語のなかの貪欲な子供」という表現が不正確。
理由: 正しくは「第二歌と第三歌」。「架空の物語」という原文にない要素を付け加えてしまっている。
修正案: そして(彼は)『エネーイス』の第二歌と第三歌を、物語に飢えた子供時代のイメージとして解釈した、等々。
イシドロスの子供期(pueritia)
原文: Après enfance, vient le second âge… on l’appelle pueritia et est ainsi appelé pour ce que en cet âge il est encore ainsi comme est la prunelle en l’œil, comme dit Isidore, et dure cet âge jusqu’à quatorze ans.
翻訳: それは子供期(pueritia)と呼ばれるが、そのように呼ばれるのはイシドロスの説に従えば、この時期は十四歳まで続く」。
問題点: イシドロスの言葉が引用されている部分がわかりにくい。
理由: 「この時期は十四歳まで続く」という部分だけでなく、「この時期はまだ瞳の中の瞳のようである」という比喩も含む。
修正案: それは子供期(pueritia)と呼ばれ、イシドロスによれば、「この時期には、人はまだ瞳の中の瞳のようなものである」ためそのように呼ばれ、この時期は14歳まで続く。
コンスタンチヌスの青春期(adolescence)
原文: « Après s’ensuit le tiers âge qu’on appelle adolescence, qui fine selon Constantin en son viatique au vingt et unième an,
翻訳: 続く青春期(adolescence)と呼ばれる第三の時期は、コンスタンチヌスによれば二十一歳になるまでの過渡期だが、
問題点: 「過渡期」という表現が不正確。
理由: 原文"qui fine...au vingt et unième an"は、「21歳で終わる」という意味。
修正案: 続く青春期(adolescence)と呼ばれる第三の時期は、コンスタンチヌスの『旅行の糧』によれば21歳で終わるが、
青年期(jeunesse)の位置づけ
原文: « Après s’ensuit jeunesse qui tient le moyen entre les âges et pourtant la personne y est en sa plus grande force,
翻訳: この後、諸時期の中心的な位置を占める青年期(jeunesse)が続く。
問題点: 「諸時期の中心的な位置を占める」という表現が原文とやや異なる。
理由: 原文は「諸時期の間にあって中間の位置を占める」
修正案: この後、青年期(jeunesse)が続くが、これは(人生の)諸時期の中間に位置するため、人はこの時期に最大の力を発揮する。
イシドロスの老年期(vieillesse)
原文: Vieillesse, selon Isidore, est ainsi appelée parce que les gens y appetissent, car les vieilles gens n’ont pas si bon sens comme ils ont eu et radotent en leur vieillesse…
翻訳: 老年期は、イシドロスの説によれば、人びとがこの時期に本能的欲望を持つ理由からそう呼ばれるのであるが、老人たちがかつては持っていたような良識を持たなくなって、老いの繰り言を並べたてるからである……
問題点: 前半と後半の接続がおかしい。
理由: 原文では、"parce que" (なぜなら) で始まる二つの理由が並置されている。
修正案: イシドロスによれば、老年期がそう呼ばれるのは、人々がこの時期に(様々なものを)渇望するためであり、また、老人はかつて持っていた良識を失い、老いの繰り言を並べたてるからである。
老人の状態
原文: La dernière partie de la vieillesse est appelée senies en latin, et en français elle n’a pas d’autre nom que vieillesse… Le vieillard est plein de toux et de crachat et d’ordure [Nous sommes encore loin du noble vieillard de Greuze et du romantisme] jusques à tant qu’il retourne en cendres et en poudre dont il a été prins. »
翻訳: 老年期の最後の期間はラテン語では senies と呼ばれているが、フランス語では vieillesse 以外に他の言葉はない……老人は自分が生み出されてきた灰と塵に戻っていく時まで、しじゅう咳と痰と埃にまみれているのである(私たちは依然としてグルーズや浪漫主義者のいう気高い老人からほど遠いところにいるのである)」。
問題点:「埃」は不適切。「ordure」は排泄物や汚物一般を指す。
理由: 当時の衛生状態を考えると、「埃」よりもっと不潔なものを指していると考えるべき。
修正案: 老年期の最後の部分はラテン語では senies と呼ばれるが、フランス語では vieillesse 以外に他の言葉はない……老人は、自分がそこから作られた灰と塵に戻るまで、咳と痰と汚物にまみれているのである(我々は、グルーズやロマン主義の言う気高い老人からは、まだほど遠い)。
中世の専門用語
原文: Nous pouvons aujourd’hui trouver ce jargon vide et verbal,
翻訳: 私たちは、今日ではこうした説明が実際には空虚で言葉の上だけのものであることを看破することができる。
問題点: 「説明」は不正確。原文は「jargon」(専門用語)。
理由: この文脈では、中世の文献で使われていた専門用語や言い回しを指している。
修正案: 今日、私たちは、こうした専門用語が空虚で言葉だけのものだと見抜くことができる。
暦の挿絵
原文: Une même correspondance sidérale avait inspiré une autre périodisation, en rapport avec les 12 signes du zodiaque, mettant ainsi les âges de la vie en rapport avec l’un des thèmes les plus populaires et les plus émouvants du Moyen Age, surtout gothique ; les scènes du calendrier.
翻訳: 同一の惑星との照応が、黄道十二宮と関連させて他の一つの周期性を生み出し、このようにして人生における諸時期を中世に、特にゴシック期の最も民衆的で感動的なテーマの一つである暦にそえられた挿絵の諸場面と関連づけたのである。
問題点: 「暦にそえられた挿絵の諸場面」は不正確。
理由: 原文は "les scènes du calendrier" であり、「暦の場面」と訳すべき。
修正案: 同じ星との照応関係から、黄道十二宮と関連した別の周期区分も生まれた。こうして人生の諸時期は、中世、特にゴシック期において最も人々に親しまれ、感動を呼んだテーマの一つである暦の挿絵と結び付けられたのである。
14世紀の詩
原文: Un poème du XIVe siècle plusieurs fois réimprimé, aux XVe et XVIe siècles, développe ce calendrier des âges.
翻訳: 十五世紀から十六世紀にかけてたびたび印刷された十四世紀の詩の一つに、この時期の暦を発展させたものがある。
問題点: 冗長。
修正案: 15世紀から16世紀にかけてたびたび再版された14世紀のある詩は、この年齢の暦を発展させたものである。
2月の表現
原文: Qu’enfin se trait sur le printemps…
翻訳: それ故子供を春と呼べり。
問題点: 意味不明。原文は、2月が春に向かう様子を表現。
理由: "se trait sur le printemps" は「春に向かう」という意味。
修正案: (そして2月は) やがて春へと向かうからである。
3月と10月
原文: Et aussi se change li mars En beauté et reprend chalour… Du mois qui vient après septembre Qu’on appelle mois d’ottembre, Qu’il a LX ans et non plus
翻訳: かれ、三月に変はりなば、 美麗のうへに熱情そなはる…… 九月ののちに来る月をば、 人それを呼びて、十月といひせしが、 これは齢四十にして、越ゆることならじ。
問題点: 3月は18歳、10月は60歳に対応しており、40歳は誤り。
理由: 原文と訳文で数字の対応が間違っている。
修正案: そして3月が変わるように 美しくなり、熱を取り戻す… 9月の後に来る月を 人は10月と呼ぶが、 それは(人が)60歳であり、それ以上ではない
時の流れ
原文: Que le temps le mène mourir.
翻訳: しかして老いと衰へ来たらば、 次のことをば、人忘るることならじ、 時、人を死へと連れ去ることを。
問題点:原文には「老いと衰え」に相当する言葉はない。
理由:原文はシンプルに、時が人を死に導く事を忘れてはならない。
修正案: 人は次のことを忘れてはならない、 時が人を死へと連れ去ることを。
1月の描写
原文: Ou encore ce poème du XIIIe siècle :Veez yci le mois de janvier A deux visages le premier.
翻訳: あるいは、先の十三世紀の詩の続きでは、この一月をよく照覧あれ、初めの月の二つの顔有せしを。
問題点: 冗長。
修正案: あるいは、この13世紀の詩ではこうだ。 「ここにある1月の月を見るがいい、 最初の月は二つの顔を持っている。」
ことわざの引用
原文: Car qui n’a bon commencement A tard a bon deffinement…
翻訳: 人生のよき門出了へしにあらねば。 初めよければ全てよしと、人も云へり……
問題点: ことわざの引用部分の訳が不自然。
理由: 「初めよければ全てよし」に対応するフランス語のことわざは存在しない。原文は「良い始めがない者は、良い終わりも遅くなる」
修正案: 良い始めがない者は、 良い終わりを迎えるのも遅くなる…
10月の教訓
原文: En octobre après venant Doit hom semer le bon froment Duquel doit vivre tout li mons ; Ainsi doit faire le preudoms Qui est arrivé à LX ans : Il doit semer aux jeunes gens Bonnes paroles par exemple Et faire aumône, si me semble.
翻訳: かくして十月に至りなば、 よき小麦の播種に励むべし。 その収穫にて、世の人養ふがためなり。 六十の齢に達せし善き人は、 かく人生を過すべし、 若き人々の耳によき言葉の種播き、 かれらの心によき知恵満たし、 恵みたれよと、思ふなり。
問題点: 最後の部分が意味不明。
理由: 原文は、「よき言葉を種まき、施しをすべきである」
修正案: こうして10月になると 人は良い小麦の種をまかねばならない それによって全世界の人々が生きるのだから。 60歳になった思慮分別のある人も そのようにしなければならない。 若い人たちに、たとえば 良い言葉の種をまき、 施しをしなければならないと、私には思われる。
4つの照応
原文: De même nature encore, la correspondance des âges de la vie avec les autres 4 : consensus quatuor elementorum, quatuor humorum (les tempéraments), quatuor anni temporum et quatuor vitae aetatum.
翻訳: 人生における諸時期はさらにまた、「自然界ノ四元素」「人間ノ四種ノ体液(気質)」、「一年ノ四季並ビニ人生ノ四時期」などの四という数字と、照合してもいた。
問題点: 訳文がぎこちない。特に「照合してもいた」の部分。
理由: 原文は、"la correspondance des âges de la vie avec les autres 4" であり、「人生の諸時期と他の4つのものとの照応」という意味。
修正案: 同じように、人生の諸時期と、他の4つのもの、すなわち、「四元素、四体液(気質)、四季、人生の四時期」との照応も存在した。
フィリップ・ド・ノヴァール
原文: Vers 1265, Philippe de Novare parle des « III temz d’aage d’orne », soit quatre périodes de vingt ans. Et ces spéculations ne cessent pas de se répéter dans les textes jusqu’au XVIe siècle.
翻訳: ほぼ一二六五年にフィリップ・ド・ノヴァールは、「人間の年齢の四つの時期」、つまり二十年刻みの時期について語っている。そしてこうした考証は十六世紀まで、諸々の文献中に倦むことなく繰り返されるのである。
問題点: フィリップ・ド・ノヴァールの言葉の引用が不正確。
理由: 原文は「人間の年齢の "4つ" の時期」ではなく「人間の年齢の "3つ" の時期」。
修正案: 1265年頃、フィリップ・ド・ノヴァールは「人間の年齢の3つの時期」、つまり20年ごとの4つの期間について語っている。そして、こうした考察は16世紀まで文献に繰り返し現れる。
人生の解釈の困難さ
原文: Là encore, nous nous heurtons à de grandes difficultés d’interprétation, parce que aujourd’hui nous n’avons plus ce sentiment de la vie :
翻訳: さらにまた、私たちは人生についてこうした意識をもはや有していない以上、このような説明を理解するにあたって大きな困難に出会うことにもなる。
問題点: 「このような説明」が何を指すか曖昧。
理由: 具体的に何を指すのかを明記するべき。
修正案: この点でも、我々は解釈上の大きな困難に直面する。なぜなら、今日、我々はもはや、人生についてのこのような感覚を持っていないからだ。
「それが人生さ」
原文: Nous disons cependant « c’est la vie » pour exprimer à la fois notre résignation et notre conviction qu’il existe, hors du biologique et du sociologique, quelque chose qui n’a pas de nom, mais qui émeut, qu’on cherche dans les faits divers des journaux, ou dont on dit « c’est vivant ». La vie devient alors un drame, qui arrache à l’ennui quotidien.
翻訳: 私たちはそれでも、生物学と社会学の埒外で、ある名づけようのない諦念と自信を同時に表現するために、「それが人生さ」という。だがまた、新聞の三面記事のなかに、この意識でもあるのだ。そこでは人生は退屈な日常性からぬけ出して、ひとつのドラマとなっている。
問題点: 「この意識でもあるのだ」の部分が意味不明。
理由: 原文では、「それが人生さ」というときの感覚と、新聞の三面記事に見出す「人生」の感覚は区別されている。
修正案: しかし、我々は「それが人生さ」と言うことで、生物学や社会学の外にある、名づけようのない何か、心を揺さぶる何かが存在するという諦めと確信を同時に表現する。人はそうしたものを新聞の三面記事の中に探したり、「生き生きしている」と言ったりする。そうした場合、人生は、日常の退屈から抜け出した、一つのドラマとなる。
昔の人の人生観
原文: Pour l’homme d’autrefois, c’était au contraire la continuité inévitable, cyclique, parfois humoristique ou mélancolique des âges de la vie ; une continuité inscrite dans l’ordre général et abstrait des choses, plutôt que dans l’expérience réelle, car peu d’hommes avaient le privilège de parcourir tous ces âges, à ces époques de fortes mortalités.
翻訳: 過去の時代の人びとにとって、人生の諸々の時期は、時として喜劇的であり、時として哀愁にみちた、不可避であるとともに周期性をもった連続体であった。現実の経験のなかでというよりはむしろ、事物の一般的かつ抽象的な秩序のなかに刻み込まれた連続体である。というのも死亡率の高かった時代には、ほんの一握りの人間しか人生のこの全段階を通過することができなかったからである。
問題点: (前回の続き)「人生の諸々の時期は…連続体であった」という部分の表現を改善できる。
理由: 原文は "Pour l’homme d’autrefois, c’était au contraire la continuité ... des âges de la vie" であり、「昔の人にとって、それ(人生)は、むしろ、人生の諸時期の…連続体であった」という意味。
修正案: それに反して、昔の人にとって、人生とは、時に滑稽で、時にメランコリックな、不可避かつ周期的な、人生の諸時期の連続であった。それは、現実の経験というよりも、むしろ事物の一般的で抽象的な秩序の中に刻み込まれた連続体であった。なぜなら、死亡率の高かった当時、人生のすべての時期を全うできる特権を持つ人はほとんどいなかったからである。
ブドウ園の主人の寓意
原文: Sur la première scène, on voit le maître de la vigne qui pose la main sur la tête d’un enfant, et en dessous une légende précise l’allégorie de l’enfant : prima aetas saeculi : primum humane : infancia. Plus loin : hora tertia : puericia seconda aetas, le maître de la vigne met la main sur l’épaule d’un jeune homme qui tient une bête et une serpe. Le dernier des ouvriers se repose à côté de son hoyau : senectus, sexta aetas.
翻訳: 「人生ノ第一ノ状態、人間ノ最初、幼キ状態」、さらにその先の、「第三ノ時期、子供ノ第二ノ状態」と題されているところでは、葡萄園主が、家畜と鉈鎌を手にした一人の若者の肩に手を置いている。労働にいそしむ者たちのうち最後尾にいる者は、鍬を傍において休息をとっている。
問題点: 訳文の引用部分の表記が原文と異なる。また、「労働にいそしむ者たち」の解釈が不正確。最後の一文に説明が不足している。
理由: 原文の引用部分は、ラテン語の碑文を正確に記述する必要がある。"Le dernier des ouvriers" は、「最後の労働者」であり、「最後尾にいる者」ではない。最後の労働者には "senectus, sexta aetas" (老年期、第六の時期) という説明が付されている。
修正案: 最初の場面では、ブドウ園の主人が子供の頭に手を置いているのが見え、その下には、この子供のアレゴリーを説明する碑文がある。「第一の時期:人間の最初の時期:幼年期」。さらに進むと、「第三時:子供時代、第二の時期」とあり、ブドウ園の主人が、動物と鎌を持った若者の肩に手を置いている。最後の労働者は、鍬の横で休んでいる。「老年期、第六の時期」とある。
14世紀の図像
原文: Mais c’est surtout au XIVe siècle que cette iconographie fixe ses traits essentiels qui demeurent presque inchangés jusqu’au XVIIIe siècle ; on les reconnaît aussi bien sur des chapiteaux du palais des Doges que sur une fresque des Eremitani de Padoue. D’abord l’âge des jouets : des enfants jouent au cheval de bois, à la poupée, au moulinet, avec des oiseaux attachés. Puis l’âge de l’école : les garçons apprennent à lire, ou portent le livre et le plumier ; les filles apprennent à filer. Ensuite les âges de l’amour ou des sports courtois et chevaleresques : noces, promenades des garçons et des filles, cour d’amour, les noces ou la chasse le mois de mai des calendriers. Ensuite les âges de la guerre et de la chevalerie : un homme armé. Enfin les âges sédentaires, ceux des hommes de loi, de science ou d’étude ; le vieux savant barbu habillé à la mode d’autrefois, devant son pupitre, au coin du feu.
翻訳: だがこの図像形式が、十八世紀まで殆ど変化のない状態で存続していく基本的な諸特徴を定着させるのは、特に十四世紀のことである。それはヴェネツィア総督の宮殿の柱頭にも、パドヴァの隠遁修道院のフレスコ画のうちにも、見られるのである。まず最初に現れるのは玩具で遊んでいる時期である。子供たちが木馬、人形、小風車、あるいはつながれた鳥で遊んでいる。次に学齢期。男生徒たちが読み方を習い、また本や筆入れを持ち歩いている。次に恋愛、もしくは儀礼的で騎士にふさわしいスポーツの時期。婚礼、若者と娘たちの散歩、宮廷の恋愛、暦の五月の婚礼ないしは狩猟。次に戦争と騎士部隊の時期、一人の武装した男。最後に家にこもりがちな時期、そして法律や学問ないしは執務にたずさわる人々の時期がくる。炉端で書見台を前にして、昔風に装い、ひげをたくわえた年老いた学者が、学問というのはイメージとして老人の仕事なのである。
問題点: 全体的に意味は通じるが、「騎士部隊」「執務」などの訳語は改善の余地がある。最後の一文で「学問というのは~老人の仕事なのである」という説明は不要。
理由: 「騎士部隊」は "chevalerie" であり、「騎士道」と訳すべき。「執務」は原文には対応する単語がない。最後の一文は、原文では単なる事実の記述。
修正案: しかし、この図像が、18世紀までほとんど変わらずに続くその本質的な特徴を確立するのは、とりわけ14世紀のことである。それらは、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿の柱頭やパドヴァのエレミターニ教会のフレスコ画にも見られる。まず、おもちゃの時代。子供たちは木馬、人形、風車、紐でつながれた鳥などで遊ぶ。次に学校の時代。少年は読み方を習ったり、本や筆入れを運んだりし、少女は糸紡ぎを習う。続いて、愛や、宮廷風で騎士道的なスポーツの時代。結婚式、若者と娘たちの散歩、愛の宮廷、暦の5月の結婚式や狩猟。次に戦争と騎士道の時代。武装した男。最後に、家にこもりがちな時代、法律家、学者、研究者の時代。暖炉のそばで、書見台に向かい、昔風の服を着て髭を生やした老学者。
図像における学問と老人のイメージ
原文: Les âges de la vie ne correspondent pas seulement à des étapes biologiques, mais à des fonctions sociales ; il y avait de très jeunes hommes de loi, nous le savons, mais l’étude est dans l’imagerie un métier de vieillard.
翻訳: 人生の諸時期は単に生物学的な段階ばかりではなく、社会的な役割にも照応しているのである。もちろん非常に若い法律家もいたが、学問というのはイメージとして老人の仕事なのである。
問題点: 最後の一文は、原文では事実の記述であり、筆者の意見ではない。
理由: 「学問というのはイメージとして老人の仕事なのである」という断定的な表現は、原文のニュアンスと異なる。
修正案: 人生の諸時期は、単に生物学的な段階だけでなく、社会的な役割にも対応している。もちろん、非常に若い法律家もいたことは分かっているが、図像表現においては、学問は老人の仕事なのである。
年齢の階段
原文: On les appelait les Degrés d’âges, parce qu’ils figuraient des personnes représentant les âges juxtaposés de la naissance à la mort, et souvent debout sur des degrés montant à gauche et descendant à droite. Au centre de ce double escalier, comme sous l’arche d’un pont : le squelette de la mort, armé de sa faulx.
翻訳: これらの版画は、人間をその誕生から死に至るまでの各時期ごとに並置し、多くの場合左側に上昇、右側に下降する階段を置き、その段上の立像として彫りあげていることから、「年齢の「階段」と呼ばれていた。二つの階段によってちょうど橋の下のアーチのような形をとるこの階段の中央の位置には、長柄の鎌を手にした骸骨の死神がいる。
問題点: 「彫りあげている」は不正確。原文は、版画に「描かれている」。
理由: 版画は彫刻ではない。
修正案: これらの版画は、誕生から死までの各年齢を代表する人々を並置し、多くの場合、左側に上昇し右側に下降する階段の上に立っている姿で描かれていることから、「年齢の階段」と呼ばれていた。この二重の階段の中央、ちょうど橋の下のアーチのような場所には、大鎌で武装した骸骨の死神がいる。
年齢と死のテーマ
原文: Ici le thème des âges recoupait celui de la mort, et ce n’est sans doute pas un hasard si ces deux thèmes étaient parmi les plus populaires : les estampes représentant les degrés des âges et les danses macabres répètent jusqu’au début du XIXe siècle une iconographie fixée aux XIVe et XVe siècles.
翻訳: ここでは年代というテーマが死のテーマと融合していた。そしてこれら二つのテーマが民衆の間に最も広まっていたテーマであったというのは、偶然のことではない。年齢の階段と死の舞踏を描写する版画は十九世紀初頭までは、十四世紀・十五世紀に定着した図像形式を踏襲している。
問題点: 「年代というテーマ」は不正確。「年齢の階段」とすべき。
理由: 文脈から、「年齢の階段」を指していることは明らか。
修正案: ここで、年齢の階段というテーマは、死のテーマと交差していた。そして、これら二つのテーマが最も人気のあるテーマの一つであったのは、おそらく偶然ではない。「年齢の階段」と「死の舞踏」を描いた版画は、19世紀初頭まで、14世紀と15世紀に確立された図像を踏襲している。
ローマ帝国末期における「劇作家」の誤訳について
原文: Elle appartient aux spéculations dramatiques du Bas-Empire : au VIe siècle.
翻訳: それはローマ帝国末期、六世紀の劇作家の思弁に属するものである(12)。
問題点: 「劇作家の思弁」という表現は、原文のspéculations dramatiques(「劇的な思弁」あるいは「ドラマ性を帯びた思索」)を誤って「劇作家」と解釈してしまっている。
理由: - dramatiques は「劇的な」「ドラマ性のある」といった形容詞であり、「劇作家」を意味する語ではない。 - 原文は「ローマ帝国末期(Bas-Empire)におけるドラマ性のある思弁(思索)」を指しているのであって、劇作家という特定の職能者を示してはいない。
修正案: それはローマ帝国末期、6世紀に生まれた「劇的な(またはドラマ性のある)思弁」に属するものである。
「sidérale」を「惑星」と訳している誤りについて
原文: Une même correspondance sidérale avait inspiré une autre périodisation, en rapport avec les 12 signes du zodiaque…
翻訳: 同一の惑星との照応が、黄道十二宮と関連させて他の一つの周期性を生み出し…
問題点: sidérale は「星(天体)に関する」「恒星の」「天体的な」という意味であり、必ずしも「惑星」とは限らない。原文は星や天体との対応を示唆しているが、訳文では「惑星」という語を用いてしまい、範囲が狭まっている。
理由: - sidéral(e) はラテン語系で「星の・恒星の・天体の」を意味し、「惑星(planète)」とは区別される。 - 原文は黄道十二宮(十二星座)に関わる星的・天体的な対応関係を示している。
修正案: 同じ星(あるいは天体)との照応関係から、黄道十二宮と関連した別の周期区分が生み出され…
「Parme(パルマ)」を「パルム」と表記している誤りについて
原文: On les trouve sur des chapiteaux historiés du XIIe siècle, au baptistère de Parme.
翻訳: その例として、パルムの洗礼堂にある十二世紀の、柱頭の上にほどこされた装飾があげられる。
問題点: イタリア語・フランス語で Parme は「パルマ」を指すが、訳文では「パルム」となっており、地名を誤って転写している。
理由: パルマ(Parma)はイタリア北部エミリア=ロマーニャ州の都市であり、洗礼堂(バプティステリ)が有名。「パルム」は誤表記であり、一般には用いられない。
修正案: その例として、パルマの洗礼堂にある12世紀の柱頭装飾があげられる。
「chapelet(ロザリオ)」を「数珠」とした表現の曖昧さについて
原文: …les dévots — les plus curieux — avec leurs chapelets…
翻訳: 信徒は、実に興味ぶかいことだが、数珠を持っているのが見えるのである。
問題点: chapelet はカトリックの「ロザリオ(数珠状の祈りの道具)」を指し、日本語の「数珠」は仏教的文脈を想起させるため、宗教的背景を誤解させる恐れがある。
理由: - カトリック文化圏では chapelet はロザリオのことを指すのが一般的。 - 「数珠」は仏教文化圏の用語であり、厳密には異なる宗教的背景を持つ。
修正案: 信徒たちはロザリオを手にしているのが見える(実に興味深い意匠である)。
27ページ下段3行目から31ページうしろから2行目まで
「利用」の誤訳
原文:
De la spéculation antiquo-médiévale, il restait une abondante terminologie des âges. Au XVIe siècle, quand on se proposa de traduire cette terminologie en français, on s’aperçut que notre langue, et par conséquent notre usage, ne disposait pas d’autant de mots que le latin, ou du moins que le latin savant.
Le traducteur de 1556 du Grand Propriétaire de toutes choses reconnaît sans ambages la difficulté : « Il y a plus grande difficulté en français qu’en latin, car en latin, il y a sept âges nommés par divers noms [autant que de planètes], desquels il n’y en a que trois en français : c’est à savoir enfance, jeunesse et vieillesse. »
翻訳:
古代中世の思弮から人生の諸時期に関係する豊富な用語が残されていた。十六世紀にこれらの用語がフランス語に翻訳されようとしたとき、私たちの言語、つまり私たちの慣例的用語法では、ラテン語の言葉、少なくとも学者的なラテン語の言葉を利用する以外に方法のないことに気づかれた。『万物の偉大なる所有主』の一五五六年の訳者は、直截にその困難を認めている。「フランス語にはラテン語に比べてはるかに難しいところがある。というのもラテン語には〔惑星と同じように〕それぞれ異なった名称で呼ばれる七つの時期があるのに対して、フランス語にはそれが三つしか存在していないからだ。すなわち子供期 (enfance)、青年期 (jeunesse)、老年期 (vieillesse) である」。
問題点:
「~を利用する以外に方法のないことに気づかれた」という訳は、原文が示す「単語数が豊富でなかった」という意味を歪め、利用せざるを得なかったという誤解を招いている。
理由:
原文は、単に語彙の豊富さの差を述べているにもかかわらず、訳文は手段を強制されたような意味合いになってしまっている。
修正案:
…私たちの言語、つまり通常の語彙では、ラテン語(少なくとも学術的なラテン語)ほど多くの単語が存在しなかったことに気づかれた。
「近世」の削除と年齢等の修正
原文:
On remarquera que, jeunesse signifiant force de l’âge, « âge moyen », il n’y a pas de place pour l’adolescence.
Jusqu’au XVIIIe siècle, l’adolescence se confondait avec l’enfance.
Dans le latin de collège, on employait indifféremment le mot puer et le mot adolescens.
On a conservé à la Bibliothèque nationale les catalogues du collège des jésuites de Caen, liste des noms des élèves accompagnés d’appréciations.
Un garçon de quinze ans y est noté comme bonus puer, tandis que son jeune camarade, à treize ans, est appelé optimus adolescens.
翻訳:
近世フランス語の青年期の意味していたものは、人生の盛り、「中年」 (âge moyen) なのであって、青少年期 (adolescence) を意味する余地はない。
十八世紀までは青少年期は子供期と混同されていた。
学院のラテン語では「子供」 (puer) という言葉と「青少年期」 (adolescens) という言葉は区別されないままに用いられていた。
国立図書館には、カンのジェスイット会修道士の学院の学籍、つまり成績評価をつけた生徒の名前のリストが保存されている。
それには十四歳の生徒が「優秀ナル子供」 (bonus puer) と記入されている一方で、その生徒よりも年少の十三歳の同級生が「成績抜群ナル少年」 (optimus adolescens) と記入されているのである。
問題点:
- 原文に「近世フランス語の」という語はなく、また「Un garçon de quinze ans」が十五歳であるのに対し、訳では十四歳と誤っている。
- 「青年期」の訳語の統一性にも問題がある。
理由:
原文は、当時の用語体系の違いや年代・意味の違いを示しているが、訳文は原文の正確な数値や用語のニュアンスを反映していない。
修正案:
国立図書館には、カエンのイエズス会の学院の学生名簿が保存されている。そこには、十五歳の生徒が「優秀ナル子供」(bonus puer) と記され、一方、同級生で十三歳の者が「成績抜群ナル少年」(optimus adolescens) と記されている。
「青少年」の修正と訳語の改善
原文:
Baillet, dans un livre consacré aux enfants prodiges, reconnaît aussi qu’il n’existe pas en français de termes pour distinguer pueri et adolescentes.
On ne connaît guère que le mot : enfant.
翻訳:
バイエはある著作のなかで、やはりフランス語にはラテン語の「子供」と「青少年」とを区別するための用語がないことを認めている。
子供 (enfant) という言葉以外はほとんど知られていないのである。
問題点:
「青少年」という訳語は、原文の「adolescentes」が持つ年長の子供、または若者のニュアンスを十分に表現していない。
理由:
pueri と adolescentes の対比を明確にするため、adolescentesには「若者」や「青年」といった訳語の方が適切な場合がある。
修正案:
バイエは、神童に関する著作の中で、フランス語にはpueriとadolescentesを区別する明確な用語が存在しないと認めている。すなわち、子供 (enfant) という語以外はほとんど知られていなかったのである。
ValetonとGarsの訳語修正
原文:
Le mot enfant, dans les Miracles Notre-Dame s’emploie aux XIVe et XVe siècles en synonymie avec d’autres mots comme valets, valeton, garçon, fils, beau-fils :
il était valeton se traduirait aujourd’hui exactement par : il était beau gars,
mais cela se disait aussi bien d’un jeune homme : « Un moult beau valeton » que d’un enfant : « Il était valeton, si l’aimèrent fort… li valez devint granz ! »
Un seul mot a conservé jusqu’à nos jours cette très ancienne ambiguïté, c’est le mot gars, qui a passé directement du vieux français dans la langue populaire moderne où il s’est conservé.
翻訳:
「聖母奇蹟劇」のなかでは、子供 (enfant) という語は小間使、幼い召使、少年、息子、継子などと同義の言葉として用いられている。
かれは幼い召使であった、という言い方は今日ならさしづめかれは端正な少年 (garçon) であった、とでも訳せようが、
それはまた「実に端正な召使」という表現に見られるように、若い大人を意味すると同時に、
「かれは人びとからとても可愛がられた召使 (valeton) だった・・・・・・あの召使 (valez) も大きくなったものだ」という時のように、幼い子供も指していた。
こうしたきわめて古い時代の曖昧さを今日までとどめてきた唯一の語が「小僧」(gars) という語である。
この言葉は古フランス語から、それが保存されている現代語のなかへ一足とびに入りこんだ。
問題点:
- 「valeton」を「幼い召使」と訳しているが、文脈からは「若い従者」や「若い衆」とする方が適切。
- 「gars」を「小僧」と訳しているが、現代では「若者」や「やつ」といった表現の方がニュアンスを正確に捉えられる。
- 「一足とびに入りこんだ」という表現が不自然。
理由:
中世の「enfant」が持つ幅広い意味や、時代変化による語義のシフトを正確に反映する必要がある。
修正案:
…こうした古い時代の曖昧さを今日まで伝える唯一の語は、gars(現代では「若者」などと訳される)であり、この語は古フランス語から現代の民衆語へと直接受け継がれている。
「奇妙な子供」と暴力表現の明確化
原文:
Curieux enfant que ce méchant garçon « si felon et si pervers qu’il ne vault oncques aprendre mestier ne se duire à nulle bonne enfance…
volontiers s’accompagnait de gloutons et de gens oiseulx qui souvent faisaient leurs rixes aux tavernes et aux bordeaulx,
et jamais ne trouvait femme seule qu’il n’enforceast ».
翻訳:
ある風変りな少年がいる。「このたちの悪い子供は非常に片意地で狡猾なので、この年頃の子供にふさわしい仕事をおぼえようともしない······かれは好んで居酒屋や売春窟で大騒ぎをやらかすのらくらな、やくざな連中と一緒にいる。
力ずくでものにするのでなければ、その種の女も一人として見つけられなかった」。
問題点:
- 「風変りな少年」と訳しているが、原文は「Curieux enfant」とあるため、「奇妙な子供」とする方が原義に忠実。
- 「apprendre mestier ne se duire à nulle bonne enfance…」や最後の女性に関する記述が原文の意味を大きく逸脱しており、正確な訳になっていない。
理由:
原文は、悪徳ゆえに職業を覚える気さえ起こさず、また荒んだ行動をとる子供の多義性を示しているが、訳文はその内容を大きく歪めている。
修正案:
…非常に不良で、決して職業を学ぼうとせず、常に酒場や乱闘の場に身を投じ、女性に対しても力ずくで迫るという、まさに奇妙な子供がいた。
年齢の修正と比喩表現の明確化
原文:
Voici un autre enfant de quinze ans. « Quoique il fut beau fils et gracieux », il se refuse à monter à cheval, à fréquenter les filles.
Son père croit que c’est par timidité : « C’est la coustume d’enfans. »
En réalité, il était fiancé à la Vierge.
Son père le contraint au mariage : « Lors fut l’enfant moult laidengie et par force le boutoyait avant. »
Il tente de fuir et se blesse mortellement dans l’escalier.
La Vierge alors vient le chercher et lui dit : « Beau frère, veez cy vostre amie » : « Lors getta l’enfant ung souppir. »
翻訳:
もう一人の十四歳の子供の場合はこうだ。「かれは好男子で上品だったが」乗馬や娘たちとの交際を拒むのである。
父親は、それは内気なためだと考えている、「それは子供の習性だ」と。
実際には、かれは聖母マリアに自分を捧げていたのだった。
父親はかれに結婚を強要する。「子供は非常に腹を立て、かまかせに父親を殴った」。
かれは逃げようとして階段から足をふみはずして瀕死の傷を負う。
すると聖母マリアがかれを捜しあてていう。「行いよき弟よ、よき伴侶を持ちなさい」と。「そこで子供はため息をついたのであった」。
問題点:
- 「もう一人の十四歳の子供」となっているが、原文は十五歳である。
- 「かまかせに父親を殴った」など、暴力表現が原文の意味と一致していない。
- 「聖母マリアに自分を捧げていた」は「fiancé à la Vierge」の意味を誤って捉えている。
- 聖母の発言の訳も不自然で、原文のニュアンスを損ねている。
理由:
原文は、十五歳の少年が内気で乗馬や異性との交際を拒む一方、聖母マリアと婚約状態にあったという象徴的エピソードを示しているが、訳文は年齢・行動・表現すべてが大きく異なっている。
修正案:
もう一人、十五歳の子供の例を挙げる。彼は「美しく上品な息子」であったが、乗馬や女性との交際を拒んだ。父親はこれを内気のせいだと解釈し、「それは子供たちの慣習である」と語る。しかし実際、彼は聖母マリアと婚約状態にあった。父親は彼に無理やり結婚を強要し、その結果、彼は非常にみすぼらしくなり、逃走中に階段で致命的な傷を負った。すると聖母マリアが現れ、「美しい兄弟よ、あなたの友を見なさい」と告げ、彼は深いため息をついた。
形容詞と訳語の調整
原文:
D’après un calendrier des âges du XVIe siècle, à vingt-quatre ans « est li enfes fort, vertueux »,
« Aussi advient des enfas quand ils sont à dix-huit ans ».
翻訳:
十六世紀の人生の諸時期の暦表によると、二十四歳で「子供は逞しくかつ勇敢」であり、「十八歳ともなれば子供たちはそのような状態になる」とされていた。
問題点:
「逞しくかつ勇敢」は、原文の「vertueux」(=道徳的に高潔)とは意味が異なっている。また、「そのような状態になる」という表現も不自然。
理由:
原文は、24歳では「非常に徳のある」子供とされ、また18歳でも特定の性質が現れると述べているが、訳文は形容詞の意味を誤って捉えている。
修正案:
十六世紀の年齢暦によれば、二十四歳では「子供は非常に徳高く」であり、「また、十八歳になると子供たちは同様の性質を呈する」とされていた。
年齢と訳文の修正
原文:
Il en est encore ainsi au XVIIe : une enquête épiscopale de 1667 rapporte que dans une paroisse « il y a un jeune enfans, aagé d’environ quatorze ans qui enseigne à lire et écrire aux enfans des deux sexes depuis environ un an qu’il demeure audit lieu, par accord avec des habitants dudit lieu ».
翻訳:
十七世紀になっても事情は同じである。一六六七年に教会の行ったある調査によれば、ある司教区には、「この教区に住んでいて、教区の住民の同意を得て、ほぼ一年前から男女の幼い子供たちに読み書きを教えている、十四歳ごろのひとりの子供 (jeune enfant) がいる」と記されている。
問題点:
「司教区」と訳されているが、原文は「paroisse」であり、ニュアンスがやや異なる。また、その他の表現も原文に忠実でない。
理由:
原文は、1667年の調査結果として、特定の教区内での実態を正確に記しているが、訳文は用語選定や表現が曖昧である。
修正案:
十七世紀においても同様であった。1667年の司教による調査では、ある教区に「その場所に住み、住民の同意を得て約一年前から男女の子供たちに読み書きを教えている、概ね十四歳の若い子供」が存在すると記されている。
訳文の自然な表現への修正
原文:
Au cours du XVIIe siècle, une évolution apparaît selon laquelle l’usage ancien se conserva dans les classes sociales les plus dépendantes, tandis qu’un autre usage apparaît dans la bourgeoisie, où le mot d’enfance se restreint à son sens moderne. …
Un « petit garçon » n’est pas nécessairement un enfant, mais un jeune serviteur (de même qu’aujourd’hui, un patron, un contremaître, diront d’un ouvrier de vingt à vingt-cinq ans : « C’est un petit gars bien — ou qui ne vaut rien »).
翻訳:
十七世紀を通じて一つの進化が生じ、古い慣行は最も従属的な社会階級のなかだけに保存され、他方ブルジョワジーにおいては新しい別の慣行が出現するに至るが、そこにおいて「子供」という語が近代的な意味に限定されるのである。
一般的用語法にみられるような子供期を長期間にとる用法は、この当時、まさしく生物学的な現象が関心を払われぬままにあったことに由来している。
…「小さな少年」 (petit garçon) という表現は、必ずしも子供を指すものではなく、若い奉公人 (jeune serviteur) のこともあるのである(今日、雇主や職工長が二十歳から二十五歳の労働者をつかまえて、「こいつはまったく可愛いいやつだ」とか「役立たずだ」などと言っているのと同じである)。
問題点:
- 「子供期を長期間にとる用法」や「生物学的な現象が関心を払われぬままにあった」という表現が不自然で、原文の趣旨(生物学的現象が限定されなかったこと)を十分に反映していない。
- また、口語的すぎる表現(例:「こいつはまったく可愛いいやつだ」)が混入し、全体の学術的トーンを乱している。
理由:
原文は、社会階層ごとの言葉の用法の変化や子供という概念の意味変容を論じているため、より堅実で統一感のある表現が求められる。
修正案:
そのため、口語的な表現を排し、例えば召使いや職人、兵士など、完全に他者に従属する低い身分の者を指す呼称として「小さな少年」(petit garçon)という表現が用いられる。現代においても、たとえば雇用者や現場監督が二十歳から二十五歳の労働者について「優秀な若者」または「役に立たない若者」と評するのと同様である。
都市名および用語の不正確な翻訳
原文:
… les catalogues du collège des jésuites de Caen …
翻訳:
…国立図書館には、カンのジェスイット会修道士の学院の学籍…
問題点:
- 「Caen」の日本語表記が「カン」となっており、一般的には「カエン」または「ケアン」と表記する。
- 「ジェスイット会修道士の学院」という表現も不自然で、「イエズス会の学院」または「イエズス会の学校」とする方が適切。
理由:
固有名詞や宗教団体の名称は、一般に定着した表記に従う必要がある。
修正案:
…国立図書館には、カエンのイエズス会の学院の学生名簿が保存されている…
「fiancé à la Vierge」の誤訳
原文:
En réalité, il était fiancé à la Vierge.
翻訳:
実際には、かれは聖母マリアに自分を捧げていたのだった。
問題点:
「fiancé à la Vierge」は「聖母マリアと婚約していた」という意味であるにもかかわらず、訳文は「自分を捧げる」という意味に誤って解釈されている。
理由:
婚約状態を示す原文の意味が、単なる信仰的献身と誤解されているため。
修正案:
実際には、かれは聖母マリアと婚約していたのである。
「coustume d’enfans」の誤訳
原文:
« C’est la coustume d’enfans. »
翻訳:
「それは子供の習性だ」
問題点:
「coustume」は「習慣」や「慣習」を意味するが、訳文は「習性」としてしまい、意味が大きくずれている。
理由:
「習性」は生得的な性質を示すのに対し、ここでは社会的な慣例を指しているため。
修正案:
「それは子供たちの慣習である」
「学年の終わり末」について
原文:
Petit Paul donnera son âge à l’école, il deviendra vite Paul N. de la classe x,
et quand il prendra son premier emploi, il recevra avec sa carte de Sécurité sociale un numéro d’incription qui doublera son propre nom.
翻訳:
かれがいつでも年齢を思い出さねばならないのを、幼いポールは年齢がわかれば学年の終わり末になるのである。
そしてかれが初めて仕事に就くとき、かれは自分の名前に並んで登録番号の記入されている社会保険証を受けとることになるだろう。
問題点:
「学年の終わり末になる」は意味をなさず、原文の「年齢を申告してすぐに○組の○○になる」という意図が正しく伝わっていない。
理由:
原文は、学校で年齢を申告し、その結果として所属クラスが決まることを示しているが、訳文はそのプロセスを全く誤った前提で訳されている。
修正案:
幼いポールは学校で年齢を申告し、すぐに「x組のポール・N」となるだろう。そして、初めて仕事に就くときには、社会保険証を受け取り、そこには彼の名前と共に登録番号が記載されているだろう。
「そっと愛撫したり」について
原文:
Au début du XVIIIe siècle, le dictionnaire de Furetière précise bien l’usage :
« Enfant est aussi un terme d’amitié dont on se sert pour saluer ou caresser quelqu’un ou l’amener à faire quelque chose.
翻訳:
十八世紀初頭に、フルティエール辞典がこの語法を詳解している。「子供(enfant) という語は挨拶をしたり、誰かをそっと愛撫したり、何かをしに連れて行く時に用いられる、親しみを表わす用語でもある。
問題点:
「caresser quelqu’un」を「そっと愛撫したり」と訳しているが、ここでの意味は物理的な愛撫ではなく、優しく接する、または機嫌を取るといった意味である。
理由:
原文は親しみを込めた挨拶や接し方を示しているため、過度に肉体的な表現は不適切である。
修正案:
…誰かに優しく言葉をかけたり、そっと撫でるように接したり、何かをするように促したりする時に用いられる…
「仕事だ、仕事だ」について
原文:
Un maître dira à des ouvriers qu’il met en besogne, allons, enfants, travaillez.
翻訳:
親方は仕事をさせている職工たちに、『さあさあ、子供たち、仕事だ、仕事だ』と言うだろう。
問題点:
「仕事だ、仕事だ」と同じ単語を繰り返す訳は冗長で、不自然。
理由:
原文の「travaillez」は命令形で一度で十分に意味が伝わるため、同一語の繰り返しは不要である。
修正案:
親方は仕事をさせている職工たちに、「さあ、子供たち、仕事をしなさい」と言うだろう。
「迷子たち」について
原文:
On appelait les soldats du premier rang, les plus exposés : les enfants perdus.
翻訳:
最前列の、最も危険にさらされる兵士たちは『迷子たち』と呼ばれていたのである。
問題点:
「迷子たち」という訳語は、原文の「enfants perdus」が持つ「捨て駒」や「決死隊」といったニュアンスを正確に伝えていない。
理由:
原文では、最前列に配置された兵士たちの覚悟や運命的側面を示す比喩であり、単なる「行方不明」とは異なる。
修正案:
最前列に配置された、最も危険にさらされる兵士たちは「決死隊」と呼ばれていたのである。
「作用」について
原文:
Ces images portent vraisemblablement les jeunes personnes à des réflexions qui perfectionnent leur raison.
翻訳:
これらの絵は疑いなく若い人たちを、その理性を完成させるような作用へと導いていくだろう。
問題点:
「作用」という訳語は、文脈にそぐわず、絵が若者の思索を刺激する意味が正しく伝わっていない。
理由:
ここでは「réflexions」という「思索」や「考察」に導くという意味が中心であるため、「作用」という抽象的な表現は不適切。
修正案:
これらの絵は疑いなく若い人たちを、その理性を磨くような思索へと導いていくだろう。
「ほとんど不可能」について
原文:
Ne pensiez-vous pas que ces expressions ne remontaient guère plus haut que le XIXe siècle ?
翻訳:
こうした表現は、十九世紀よりも過去へとその跡を辿ることはほとんど不可能なのである。
問題点:
訳文は原文の問いかけのニュアンスを失い、事実として断定している。
理由:
原文は問いかけを通じて、これらの表現の起源に対する驚きを示しているため、断定的な表現は原文の意図と異なる。
修正案:
こうした表現が十九世紀よりもずっと前のものであったとは、思わなかったのではないでしょうか?
「赤子のような純真無垢な子供など存在しない」について
原文:
Il n’y a plus d’enfant, pour dire, on commence à avoir de la raison et de la malice de bonne heure.
翻訳:
人は生れたときから理性と狡智を同時に持ち始めるのであって、いわゆる赤子のような純真無垢な子供など存在しないのだ。
問題点:
原文の意味―「もはや子供として扱えないほど、早くから理性と悪知恵が備わる」という趣旨―が、訳文では直訳的かつ断定的に表現され、不自然になっている。
理由:
原文は、幼い頃からの早期の知性発現を指摘しているが、訳文はそれを過剰に否定する形になっている。
修正案:
つまり、人は幼いうちから理性と悪知恵を兼ね備え始めるため、いわゆる赤ん坊のような純真無垢な状態はもはや存在しない、ということである。
「ともかくも」について
原文:
Toutefois, dans ses efforts pour parler des petits enfants, la langue du XVIIe siècle est gênée par l’absence de mots qui les distingueraient des plus grands.
翻訳:
ともかくも、小さな子供たちについて語ることが試みられるにあたって、十七世紀の言語にはかれらを年長の少年たちと区別する用語が欠如しているという難点があった。
問題点:
「ともかくも」という接続詞は、文脈上、話題の転換を示すには不適切である。
理由:
ここでは同一の話題が継続しているため、より適切な接続詞で文を繋ぐ必要がある。
修正案:
しかしながら、小さな子供たちについて語る際、十七世紀の言語には年長の子供たちと区別するための用語が欠如しているという難点があった。
「赤ん坊 (baby) という語が同時に年長の少年にも適用されていた」について
原文:
Il en est d’ailleurs de même de l’anglais où le mot baby s’appliquait aussi bien à de grands enfants.
翻訳:
これはまた赤ん坊 (baby) という語が同時に年長の少年にも適用されていた英語でも同様である。
問題点:
「同時に」という表現が、原文の意味を正確に伝えていない。
理由:
原文は、かつて英語で「baby」が年長の子供にも用いられていた事実を示しているため、「同時に」は不要である。
修正案:
これはまた、英語でもbabyという語は、かつて年長の子供にも使われていたという事実がある。
「ところで」について
原文:
Il existait bien en français des expressions qui paraissent désigner plutôt les tout petits. L’une est le mot poupart
翻訳:
ところでフランス語には、ごく小さな子供を指すと思われる表現が存在していた。その一つは「赤子」 (poupart) という語である。
問題点:
「ところで」という接続詞は、文脈上不要で、唐突な印象を与える。
理由:
話題の転換ではなく、フランス語の事例紹介の流れであるため、接続詞を省く方が自然である。
修正案:
フランス語には、ごく小さな子供を指すと思われる表現が存在していた。その一つは「赤子」 (poupart) という語である。
「強要」について
原文:
Le piteux Jésus, veant l’insistance et la bonne voulenté du petit enfant parla à lui et lui dist : “Poupart, ne pleure plus, car tu mangeras avec moi dans trois jours.”
翻訳:
あわれなイエスは、この強要にこの小さな子供の善意を見てとり、かれに語りかけて言った。『赤子よ、もう泣くのはおよしなさい。三日後にはお前は私と一緒に食べることになるだろうから』と。
問題点:
「強要」という訳語は不適切で、原文が示す子供のしつこさや懇願のニュアンスを損ねている。
理由:
ここでは子供の熱心さが描かれており、「強要」とは意味が異なる。
修正案:
あわれなイエスは、この子のしつこさと善意を見て、と語りかけて言った。「赤子よ、もう泣くのはおよしなさい。三日後には私と共に食事をすることになるだろう。」
「poupart はすでに子供を指すことになる」について
原文:
Le mot poupart dans la langue des XVIIe-XVIIIe siècles ne désigne plus un enfant, mais, sous la forme poupon, ce que nous appelons toujours du même mot, mais au féminin : une poupée.
翻訳:
十七世紀十八世紀の言語では、「赤子」 (poupart) という語はすでに子供を指すことになるが、poupon という語形で存続し、今日私たちが女性形の「人形」 (poupée) という言葉で常々呼んでいるものを、当時も指示していた。
問題点:
原文は、poupartがもはや子供そのものを指さず、pouponという形で特定の対象(後に人形となるもの)を指すようになった変化を示しているが、訳文はその区別が不明瞭である。
理由:
語義変遷の過程が正確に伝わっておらず、原文の意味する「子供としてではなく、後に人形を意味する」といった変化が十分に表現されていない。
修正案:
17~18世紀の言語では、「赤子」(poupart)という語はもはや子供を直接指すものではなく、pouponという形で存続し、今日私たちが女性形の「人形」(poupée)と呼ぶ対象を示していた。
「鼻たれ小僧 (bambin) になるイタリア語の bambino」について
原文:
c’est le cas de l’italien bambino qui va donner le français bambin
翻訳:
フランス語の鼻たれ小僧 (bambin) になるイタリア語の bambino の場合がそれであり
問題点:
イタリア語の bambino がフランス語の bambin の由来であるという関係が正確に伝わっていない。
また、「鼻たれ小僧」という表現は原文の中立的なニュアンスを損なう可能性がある。
理由:
原文は、単に借用の歴史を示しているので、訳語の選定は慎重に行う必要がある。
修正案:
イタリア語の bambino がフランス語の bambin となった例である。
「脂肪ぶとりの顎をして」について
原文:
Son cousin de Coulanges, … se méfie des « marmousets de trois ans », … « des morveux qui, le menton gras, mettent le doigt dans tous les plats ».
翻訳:
彼女のいとこのクーランジュは、子供好きではないが子供のことは大いに話題にしており、俗語の「子供たち」(marmots) という語になっていく古語を使って「三歳の幼な児たち」(marmausets) に気をつけると言ったり、「脂肪ぶとりの顎をして、そこらじゅうの料理に指をつっ込む鼻たれ小僧たち」(morveux) には用心していると言っている。
問題点:
「脂肪ぶとりの顎をして」という訳は、不自然で原文の「le menton gras」が示すニュアンス(豊かな顎の印象)を正確に反映していない。
理由:
原文は、子供たちの外見的特徴を表現しているが、過度に口語的で乱暴な印象を与えてしまっている。
修正案:
…「顎がふくよかで、そこらじゅうの料理に指を突っ込む鼻たれ小僧たち」と訳す。
「無学僧」について
原文:
ce petit frater
翻訳:
この小さな無学僧
問題点:
「frater」は「無学僧」と訳すのは不適切で、文脈では単に「小さな生徒」または「小兄弟」といった意味合いで用いられている可能性が高い。
理由:
原文の語感や使用文脈を正確に伝えるためには、学習者や仲間としての意味合いを考慮すべきである。
修正案:
この小さな生徒
「先輩」について
原文:
ce « cadet »
翻訳:
この「先輩」
問題点:
「cadet」は通常、年下や末っ子、または下級生を指すため、「先輩」と訳すのは誤りである。
理由:
用語の意味が根本的に異なり、誤った印象を与えてしまう。
修正案:
この「年少者」
「部隊」について
原文:
ce « populo »
翻訳:
この「部隊」
問題点:
「populo」は「大勢の人々」や「庶民」を意味する俗語であり、「部隊」と訳すのは不適切である。
理由:
原文のニュアンス(集団としての庶民的な意味合い)を正確に伝える必要がある。
修正案:
この「連中」
「小群衆」について
原文:
ce « petit peuple »
翻訳:
この「小群衆」
問題点:
意味は概ね伝わるが、文脈上「小さい人々」や「小集団」とした方が自然な表現となる可能性がある。
理由:
より一般的な表現に統一することで、全体のトーンが整うため。
修正案:
この「小さい人々」または「小集団」
「放縦な」について
原文:
Avec le temps ces mots se déplaceront et désigneront l’enfant petit, mais déjà un peu dégourdi.
翻訳:
やがてこうした語は変転し、小さな、だがすでにいくらか放縦な子供を指すことになっていこう。
問題点:
「放縦な」という表現は、文脈に合わず、原文の示す「やや生意気になった」または「やや手慣れてきた」というニュアンスとは異なる。
理由:
原文は、成長過程で言葉の意味が変わる様子を穏やかに示しているが、「放縦な」は乱暴な印象を与えるため。
修正案:
やがてこれらの語は、少し成長した子供を指すように意味がずれていく。
用語選定の不統一
問題点:
翻訳全体において、同一の概念や対象を示すのに複数の異なる表現が用いられている点が目立つ。具体的には以下の箇所が挙げられる。
「子供」関連:
「子供」、「小さな子供」、「若い子供」など、同じ対象に対して表記が統一されておらず、どの年齢層や意味を意図しているのかが不明瞭。固有名詞の表記:
「Port-Royal」が「ポール・ロワイヤル」と表記されているなど、一般的な歴史資料に基づく表記と異なるため、混乱を招いている。軍事・学校関連用語:
「frater」「cadet」「populo」「petit peuple」など、同一集団内の呼称が訳文中で「小さな無学僧」「先輩」「部隊」「小群衆」とばらばらに訳され、専門的ニュアンスが失われている。借用語・俗語:
イタリア語の「bambino」やプロヴァンス語の「pitchoun」、また「marmousets」や「morveux」といった語が、訳文では「鼻たれ小僧」など極端な表現になっており、原文の中立的なニュアンスを損なっている。指小辞:
「fan fan」が「坊ちゃん嬢ちゃん」と訳され、性別を強調する形になっているため、統一性が欠如している。
理由:
学術的・歴史的な資料では、同一の概念に対して一貫した用語選定が求められる。用語のばらつきは、読者に混乱を与えるとともに、原文の意図する微妙なニュアンスや歴史的背景が正確に伝わらなくなる原因となる。
修正案:
- 対象となる「子供」は、文脈に応じて基本的に「子供」と統一し、必要に応じて補足(例:「幼児」「少年」など)を加える。
- 固有名詞「Port-Royal」は、一般的な表記である「ポルト・ロワイヤル」と統一する。
- 軍事・教育関連用語については、原文のニュアンスを正確に反映する標準訳(例:「frater」→「小兄弟」または「仲間」、「cadet」→「年少者」、「populo」→「連中」、「petit peuple」→「小集団」)に統一する。
- 借用語は、例えば「bambino」は「バンビーノ」、「pitchoun」はカタカナ表記の「ピチューン」とするなど、固定の訳語に統一する。
- 指小辞「fan fan」は、中立的なカタカナ「ファンファン」として統一する。
依存の誤訳について
原文:
… mais dans les familles de qualité, là où la dépendance n’était qu’une conséquence de l’infirmité physique, le vocabulaire de l’enfance tendait à désigner plutôt le premier âge.
翻訳:
それでもこの同じ時代に、子供にたいして身体的劣位ゆえにしか従属関係が存在していなかった上流家庭では、子供期はむしろ人生の最初の時期を指すものとなっていった。
問題点:
「dépendance」を「身体的劣位」や「従属関係」と訳しているが、原文は「身体の不自由さ(infirmité physique)」に起因する依存状態を示している。訳文はそのニュアンスを正確に伝えていない。
理由:
「infirmité physique」は単なる身体的劣位ではなく、身体的な弱さや不自由さを意味するため、より適切な表現が必要である。
修正案:
…しかし、上流家庭では、従属状態が単に身体の不自由さの結果であったため、子供期はむしろ人生の初期段階を示すようになった。
gloutons et gens oiseux」の訳語の不一致について
原文:
… volontiers s’accompagnait de gloutons et de gens oiseux qui souvent faisaient leurs rixes aux tavernes…
翻訳:
…かれは好んで居酒屋や売春窟で大騒ぎをやらかすのらくらな、やくざな連中と一緒にいる。
問題点:
「gloutons」は「大食漢」「暴食家」、「gens oiseux」は「怠け者」や「無気力な者」と訳すべきであり、「やくざ」などの誤った俗語が使われている。
理由:
原文のニュアンスは、単に行動の乱暴さや無秩序さを表すものであって、やくざのような犯罪者集団を意味するものではない。
修正案:
…かれは好んで、酒場で乱闘を引き起こす大食漢や怠け者たちと共に行動していた。
31ページ後ろから1行目から32ページ10行目まで
「青年期と呼ばれるカテゴリー」について
原文:
Même si un vocabulaire de la petite enfance apparaît et s’étend, l’ambiguïté demeure entre enfance et adolescence d’une part, et cette catégorie qu’on appelait jeunesse.
翻訳:
幼児期に関する語彙が出現し広まっていくとしても、一方で子供期と青春期との区切りの曖昧さが残っており、そのことはまた青年期と呼ばれるカテゴリーについてもいえるのである。
問題点:
「青年期と呼ばれるカテゴリーについてもいえる」という表現が不明瞭で、原文が示す「enfance(子供期)とadolescence(思春期)の対比」と「jeunesse(当時呼ばれていた青年層)」の区別が正確に伝わっていない。
理由:
原文は、幼児期に関する語彙の出現とともに、子供期と思春期、さらには当時「青年期」と呼ばれていた層との間に存在する区切りの曖昧さを指摘しているが、訳文では単に「青年期」という単語が出てくるだけで、その区分の曖昧さが十分に表現されていない。
修正案:
幼児期に関する語彙が出現し広まっていくとしても、子供期と思春期、さらには当時「青年期」と呼ばれていた年齢層との境界は曖昧なままだった。
「adolescence」の訳語統一について
原文:
On n’avait pas l’idée de ce que nous appelons adolescence, et cette idée sera longue à se former.
翻訳:
私たちが青春期と呼んでいるものの観念は存在しなかったのであり、この観念は長い時間を要して形成されることになる。
問題点:
ここで「adolescence」を「青春期」と訳しているが、文脈上は「思春期」という意味合いで用いられているため、既に「青年期」と混同される恐れがある。
理由:
フランス語の「adolescence」は、現代日本語では「思春期」と訳すのが一般的であり、「青春期」とすると、青年期全般を意味する印象になってしまう。
修正案:
私たちが思春期と呼ぶ概念は存在しなかったのであり、この概念は長い時間を要して形成されることになる。
文学者のシェルバンの誤訳
指摘:
「Chérubin」を「文学者のシェルバン」と訳すのは誤訳の可能性があります。
理由:
原文では「l’un littéraire, Chérubin」とあり、単に文学的な役割を持つキャラクターの名前として示されています。固有名詞である「Chérubin」は、そのままカタカナで「シェリビン」または「シェルビン」と表記するのが一般的であり、「文学者の」という説明を加えると、原文が意図するニュアンス(文学的キャラクターであるという事実)が過剰に解釈され、混乱を招く恐れがあります。
修正案:
固有名詞「Chérubin」は、文脈に応じ「シェリビン」や「シェルビン」として、必要に応じて「文学的キャラクターである」と補足説明を加える形が望ましい。例えば、
「18世紀には、文学的キャラクターである『シェリビン』と、社会的側面を持つ新兵という二つの人物に、その萌芽が見てとれる。」
とするのが適切です。
「efféminé」の訳語について
原文:
... et l’accent est mis sur le côté efféminé d’un jeune garçon qui sort de l’enfance.
翻訳:
シェルバンにおいては思春期の曖昧さが際立っており、子供期を脱した若い男子の女性的側面が強調されている。
問題点:
「女性的側面」という表現は、原文の「efféminé」が持つ「女性らしさ、やわらかさ」というニュアンスを大まかに捉えているが、場合によっては「女性化した」という表現の方が直接的かもしれない。
理由:
文脈に応じ、より適切な訳語を選ぶことで、原文の持つ微妙な意味合いを正確に伝える必要がある。
修正案:
場合によっては、「女性的な様相」や「やや女性化した印象」とすることで、ニュアンスを調整する。
「les traits pleins et ronds」の訳出について
原文:
... les traits pleins et ronds de la première adolescence, aux environs de la puberté, donnaient aux garçons une apparence féminine.
翻訳:
…思春期の年齢にあたる青春期初期の少年たちのふくよかな丸みを帯びた顔立ちは、少年たちに一種独特の女性的外見を与えていたのである。
問題点:
「青春期初期」という表現が、先に「青春期」と訳されているため、先の「adolescence」との整合性に欠ける。
理由:
一貫性のため、ここも「思春期」と統一する方が望ましい。
修正案:
…思春期初期の少年たちのふくよかで丸みを帯びた顔立ちは、彼らに一種独特の女性的な印象を与えていたのである。
「déguisements d’hommes en femmes」の訳出について
原文:
C’est ce qui explique la facilité des déguisements d’hommes en femmes ou inversement qui abondent dans les romans baroques, au début du XVIIe siècle.
翻訳:
このことは、十七世紀初期のバロック小説の中で男性が女性に変装したり、その逆の変装をしたりする話がよく出てくる理由を説明している。
問題点:
全体としては概ね正しいが、原文のニュアンスとして「変装の容易さ」が強調されている点がやや弱い。
理由:
原文は、変装が容易であったことが、物語の信憑性の最低条件として描かれているため、訳文でもその点を明確にする必要がある。
修正案:
…これが、男性が女性に、またその逆に容易に変装できるという事実が、十七世紀初期のバロック小説に数多く見られる理由であることを説明している。
「新入兵」と「conscrit」の訳出について
原文:
... et l’adolescent est préfiguré au XVIIIe siècle par le conscrit.
翻訳:
十八世紀には少年たることは新入兵として形象化されるのである。
問題点:
「adolescent」が「少年」と訳されているが、文脈上は「思春期の若者」とすべき。また、「新入兵」という訳語は、より一般的な「新兵」とする方が適切な場合がある。
理由:
フランス語の「adolescent」は「思春期の者」を指すため、「少年」という表現では年齢層のニュアンスがずれてしまう可能性がある。
修正案:
…そして、18世紀には思春期の若者は、新兵として形象化されるのである。
「brillante jeunesse」の訳出について
原文:
Elle s’adresse à la « brillante jeunesse » : « Les jeunes gens qui voudront partager la réputation que ce beau corps s’est acquise, pourront s’adresser à M. d’Ambrun… Ils récompenseront (les recruteurs) ceux qui leur procureront de beaux hommes. »
翻訳:
十八世紀末の日付をもつ次の兵隊募集の掲示文を読んでみるがよい。これは「優秀なる若者」に次のように語りかけている。「わが栄えある部隊が獲得し名声を分かち持とうと欲する若者たちは、アンブラン氏に照会されたし。われわれは応募した若者たちを立派な男性につくりかえることで期待に応えるであろう。」
問題点:
「brillante jeunesse」を「優秀なる若者」と訳しているが、原文は「輝かしい若者」といった意味合いであり、また最後の「récompenseront」が「期待に応える」と訳され、報奨の意味が正確に伝わっていない。
理由:
「récompenseront」は「報いる」という意味で、新兵募集者が良い若者を紹介した者に対して報奨を与えるという意味で使われているため、「期待に応える」では意味がずれてしまう。
修正案:
(新兵募集者は)彼らに立派な若者を紹介してくれた者に報いるだろう。
用語統一の不一致
原文・文脈:
原文では「enfance」「adolescence」そして「jeunesse」という用語が区別して用いられているが、
翻訳:
訳文では「子供期」「青春期」「青年期」という表現が混在しており、概念の区別が曖昧になっている。
問題点:
同一の概念に対する訳語が統一されておらず、読者が各概念の違いを正確に理解できない。
理由:
学術的資料では、用語の一貫性が非常に重要であり、混在した訳語は誤解を招くため。
修正案:
・「enfance」は「子供期」と統一する。
・「adolescence」は「思春期」と訳し、現代の「青年期」と混同しないようにする。
・「jeunesse」は、当時の概念として「青年層」または「若者層」として明確に区別する。
32ページ11行目から1部・1章の終わりまで
「浸透することには疑問の余地がないだろう」について
原文: Ce qui apparaît dans l’Allemagne wagnérienne pénétrera sans doute plus tard en France, autour des années 1900.
翻訳: ドイツにおいてワグナー的に出現したものは、少し遅れて、一九〇〇年前後に、フランスにも浸透することには疑問の余地がないだろう。
問題点: 「浸透することには疑問の余地がないだろう」は、断定が強すぎる。
理由: 「sans doute」は「おそらく」「多分」という意味で、確信の度合いはそこまで高くない。
修正案: ドイツにおいてワグナー的に出現したものは、少し遅れて、1900年前後に、フランスにもおそらく浸透するだろう。
「決してこれほど明確な年齢区分に準拠せず」について
原文: mais sans référence aussi précise à une classe d’âge,
翻訳: 決してこれほど明確な年齢区分に準拠せず
問題点: 否定形にする必要がない
理由: 「sans」は否定を表すが、ここでは「~ほど…ではない」という比較の意味合い。
修正案: これほど明確な年齢区分に準拠することなく、
「普通にどこにでも見られる現象になった」について
原文:
La conscience de la jeunesse devint un phénomène général et banal à la suite de la guerre de 1914,
翻訳:
青年の意識は一九一四年の大戦のときに、前線の戦闘兵たちが一団となって後方の老人世代に対立したのを承けて、普通にどこにでも見られる現象になった。
問題点:
「普通にどこにでも見られる現象になった」は、少し大げさな表現。
理由:
「général et banal」は、「広く見られる」「平凡な」「当たり前のような」という意味であり、「普通にどこにでも見られる」という訳は、強調が過ぎる印象を与える。
修正案:
青年の意識は、1914年の大戦をきっかけに、前線の兵士たちが後方の年配世代に一斉に反発したことから、広く見られる、ごくありふれた現象となった。
「ドス・パソスの小説『アメリカ』」について
原文: même dans l’Amérique de Dos Passos.
翻訳: ドス・パソスの小説『アメリカ』にまでも見出されるのである。
問題点: ドス・パソスの小説は『U.S.A.』
理由: 単なる作品名の誤り
修正案: ドス・パソスの『U.S.A.』にまでも見出されるのである。
「さらにまた老人の図像学的特徴は常に老いぼれた不具者のそれとして描かれているわけではない」について
原文: Il arrive d’ailleurs que l’iconographie de la vieillesse ne la représente pas toujours sous les traits d’un infirme décrépit
翻訳: さらにまた老人の図像学的特徴は常に老いぼれた不具者のそれとして描かれているわけではない。
問題点: 「図像学的特徴」は不自然な訳語。
理由: 「iconographie」は「図像表現」「図像」という意味。
修正案: また、老人の図像が、常に老いぼれて身体の不自由な人物として描かれているわけではない。
「誇張された老人はしばしば単純に禿げ頭の人として登場する」について
原文: le vieillard embelli apparaît parfois simplement comme un chauve.
翻訳: 誇張された老人はしばしば単純に禿げ頭の人として登場する。
問題点: 「誇張された老人」は意味が通じにくい。
理由: 「embelli」は「美化された」「美しく描かれた」という意味。
修正案: 美化された老人は、しばしば単に禿げ頭の人物として描かれることがある。
「この世の万物のうち、一人としているまじ、サトゥルヌスの世、大洪水の時代に生れしと思いし者は。」について
原文:
Il n’est dans la nature homme qui ne le juge
Du siècle de Saturne ou du temps du Déluge;
翻訳:
この世の万物のうち、一人としているまじ、
サトゥルヌスの世、大洪水の時代に生れしと思いし者は。
問題点: 意味が不明瞭
理由: 倒置が多く、直訳的すぎるため、意味が把握しづらい。
修正案:
彼をサトゥルヌスの時代か大洪水の時代に
生まれた人物だと思わない者は、この世に一人もいないだろう。
「三歩あゆめば、二歩は痛風で顔をしかめ、ついには一歩ごとによろけ、老い衰え、断えず支え、捉えられるを要すなり。」について
原文:
Des trois pieds dont il marche, il en a deux goutteux,
Qui jusque à chaque pas, trébuchent de vieillesse
Et qu’il faut retenir ou relever sans cesse41.
翻訳:
三歩あゆめば、二歩は痛風で顔をしかめ、
ついには一歩ごとによろけ、老い衰え、
断えず支え、捉えられるを要すなり。
問題点: 「三歩あゆめば、二歩は痛風で顔をしかめ」の部分が不自然
理由: 原文は「彼が歩くのに使う3本の足のうち、2本は痛風持ちだ」という意味で、杖をついて歩く様子を表している。
修正案:
彼が使う三本の足のうち二本は痛風持ちで、
一歩ごとに老いのためによろめき、
絶えず支えたり起こしたりしなければならない。
「涙をかみ」について
原文:
Courbé sur son bâton, le bon petit vieillard
Tousse, crache, se mouche et fait le goguenard,
Des contes du vieux temps, étourdit Isabelle42.
翻訳:
杖の上にかがめる、小さき好々爺、
咳こみ、唾を吐き、涙をかみ、からかい、
昔話で、イザベルを困らせる。
問題点: 「涙をかみ」が不自然
理由: se mouche は鼻をかむ、という意味。
修正案:
杖にもたれかかる、小柄で人の良い老人は、
咳をし、痰を吐き、鼻をかみ、そしてからかい、
昔話でイザベルを困らせる。
「肩章をつけた軍人が年齢の階段の頂点にいるのである」について
原文: l’officier à l’écharpe au sommet des degrés des âges.
翻訳: 肩章をつけた軍人が年齢の階段の頂点にいるのである。
問題点: 「肩章をつけた軍人」は少し不正確。
理由: 「écharpe」は「飾緒」「スカーフ」などを意味し、ここでは地位や階級を示すものを指す。
修正案: 飾緒をつけた将校が、人生の諸段階の頂点にいるのである。
「ともかくも若い人ではない」について
原文: Il n’est pas un jeune homme, quoiqu’il en aurait l’âge aujourd’hui.
翻訳: この地位の軍人は今日では何歳であるにせよ、ともかくも若い人ではない。
問題点: 「ともかくも若い人ではない」という部分が冗長。
理由: 「quoiqu’il en aurait l’âge aujourd’hui(今日であればその年齢であっても)」は、「現代の感覚からすれば若者と言える年齢かもしれないが」という意味合い。
修正案: 今日の感覚からすれば若者と言える年齢かもしれないが、彼は若者ではない。
「真情を吐露している」について
原文: et il avoue : « Les jurisconsultes ne font qu’un âge de la jeunesse et de la maturité. »
翻訳: 「法律家たちは青年の年齢と成熟の年齢しか考慮していない」と真情を吐露している。
問題点: 「真情を吐露している」は大げさな表現。
理由: 「avoue」は「認める」「告白する」という意味で、ここでは単に事実を述べているだけ。
修正案: そして、「法律家は青年期と成熟期をひとつの年齢としてしか扱わない」と認めている。
「古い老人のイメージの時代は去り」について
原文: Mais ce respect n’a plus, à vrai dire, d’objet car, de notre temps, et c’est la seconde étape, le vieillard a disparu.
翻訳: だが、実をいえば、これが第二の段階であるが、古い老人のイメージの時代は去り、このような老人への敬意はなんら実体を持ち合せないものとなっているのである。
問題点: 「古い老人のイメージの時代は去り」が不正確
理由: vieillardは「老人」であり、「古い老人のイメージ」ではない。
修正案: しかし、実を言えば、現代では、そしてこれが第二段階であるが、老人は消え去ったため、このような老人への敬意はもはや対象を持たないのである。
「いつまでもじつにお若い紳士・淑女がた」について
原文: et par des « messieurs ou des dames très bien conservés ».
翻訳: 「いつまでもじつにお若い紳士・淑女がた」
問題点: 意訳しすぎ
理由: très bien conservésは、「非常に良く保存されている」が直訳。「若々しさを保っている」というニュアンス。
修正案: 「非常によく年を重ねた紳士や淑女がた」
「若さの維持というテクノロジー的な観念」について
原文: L’idée technologique de conservation se substitue à l’idée à la fois biologique et morale de vieillesse.
翻訳: 若さの維持というテクノロジー的な観念が、生物学的であるとともに精神的でもあった老年期の観念に置き換えられているのである。
問題点: 「若さの維持という」は、原文にはない要素。
理由: 「conservation」は「保存」「維持」という意味だが、文脈から「若さの維持」と解釈するのは、行き過ぎた意訳。
修正案: 「保存」というテクノロジー的な観念が、生物学的であると同時に道徳的でもあった「老い」の観念に取って代わっているのである。
「人間がより長い期間生きるようになると、ローマ帝国末期や中世の学者たちの名づけた人生における段階が、たとえそれが習俗のなかに存在していなかったとしても、以前の非存在の状態から現実にひき出されてきて」について
原文: L’allongement a retiré du non-être antérieur des espaces de vie que les savants du Bas-Empire et du Moyen Age avaient nommés, quoiqu’ils n’existassent pas dans les mœurs,
翻訳: 人間がより長い期間生きるようになると、ローマ帝国末期や中世の学者たちの名づけた人生における段階が、たとえそれが習俗のなかに存在していなかったとしても、以前の非存在の状態から現実にひき出されてきて
問題点: 非常に長く、読みにくい
理由: 一文が長く、修飾関係が複雑。
修正案: 寿命が延びたことで、ローマ帝国末期や中世の学者たちが名付けた人生の諸段階が、たとえそれが当時の慣習の中には存在しなかったとしても、以前の非存在の状態から引き出されてきた。
「思春期の拡大」の訳出について
原文:
« … et l’adolescence s’étendra : elle refoulera l’enfance en amont, la maturité en aval. »
翻訳(現状):
青年期は子供期をごく幼い年齢へと押しもどし、成熟性をさらに年齢を重ねてからのものにするだろう。
問題点:
「押しもどし」という表現が原文の「refoulera」の意味(子供期を追いやる)を十分に伝えておらず、「成熟性」という語も不自然。
理由:
原文は、思春期が拡大することで、子供期がより前の時期に、成熟はより後の時期になるという時間的シフトを示しているため、より明確な表現が必要。
修正案:
それ以降、思春期は拡大し、子供期はより幼い時期に追いやられ、成熟はさらに後の時期のものとなるだろう。
「結婚の概念」の訳出について
原文:
« Désormais le mariage, qui n’est plus un « établissement » ne l’interrompt pas : l’adolescent-marié est l’un des types les plus spécifiques de notre temps… »
翻訳(現状):
それ以後には結婚はもはや「身をかためること」ではなくなり、結婚によって青春期がさえぎられてしまうことはなくなる。既婚の青年の存在は現代の最も特徴的な類型の一つである。かれは自分の価値、自分の欲望、自分の慣習を主張する。
問題点:
「身をかためること」という訳語は、原文の「établissement」が意味する伝統的な枠組みや固定性を正確に表現していない。また、結婚が青年期に与える影響が十分に反映されていない。
修正案:
それ以降、結婚は伝統的な枠組みに縛られるものではなくなり、青年であっても結婚によってその成長が妨げられることはなくなる。既婚の青年は、自らの価値観や欲望、慣習を積極的に主張する、現代ならではの特異な存在となる。
「最終段階」の表現について
原文:
… et le langage moderne a pourtant emprunté leurs vieux vocables, à l’origine seulement théoriques, pour désigner des réalités nouvelles: dernier avatar du thème si longtemps familier et aujourd’hui oublié, des « âges de la vie ».
翻訳(現状):
…それが過去には長い期間にわたり親しまれたが今日では忘れられている「人生における諸時期」のテーマが、最終的にとるに至った姿なのである。
問題点:
「とるに至った姿」という表現が不自然で、原文の「dernier avatar」(最終形態)の意味を十分に伝えていない。
修正案:
…それが、かつて理論上のみ存在していたものが、新たな現実を示す最終的な姿となったのである。
「結末部分『若さを求める』の訳出」について
原文:
On désire y accéder tôt et s’y attarder longtemps.
翻訳(現状):
(訳文ではこの部分が十分に反映されていない)
問題点:
原文は、理想とされる年齢層に早く到達し、できるだけ長くその状態を維持したいという欲求を表現しているが、訳文ではそのニュアンスが欠落している。
修正案:
こうして、かつては思春期が存在しなかった時代から、思春期が最も重視される時代へと移行し、人々はその年齢に早く到達し、できるだけ長くその状態を保ちたいと望むようになった。
以上。