井出草平の研究ノート

フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』読書会 #06

p45上段うしろから2行目〜2章最後まで。

誤訳一覧

「drôle」の誤訳について

原文: il ressemble au putto familier de Titien, il a l’air de trouver la situation très drôle : les putti sont souvent représentés pendant leurs jeux.

翻訳: この幼児はティティアンの絵によく出てくるピュットに似ていて、場違いな印象をあたえる。ピュットたちはたいてい遊び戯れているところを描かれているからである。

問題点: drôle は「面白い、おかしい」という意味であり、「場違いな」という意味はない。文脈上、幼児(フェルディナンド)がその状況(勝利の女神に差し出されている状況)を面白がっている様子を表している。

理由: 訳者は drôle を「奇妙な、場違いな」と解釈した可能性があり、ここでは「面白い、愉快な」と解釈するのが適切である。

修正案: この幼児はティティアンの絵によく出てくるプットに似ていて、その状況をとても面白がっているように見える。プットたちはたいてい遊び戯れているところを描かれているからである。


ヴェロネーゼ作の絵画に描かれた大人の人数について

原文: En 1560 Véronèse peignait, selon la coutume, devant la Vierge à l’enfant, la famille Cucina-Fiacco, réunie : trois hommes, dont le père, une femme — la mère, six enfants.

翻訳: 一五六〇年に、ヴェロネーゼは慣例にしたがって、聖母子の前に集められたクチーナ・フィアッコ家の人びとの肖像を描いた。そこには夫と妻である母親を含め三人の大人と六人の子供たちがいる。

問題点: 原文では、大人は「男性3人(父親を含む)、女性1人(母親)」、つまり合計4人であると明記されている。翻訳では「夫と妻である母親を含め三人の大人」となっており、人数が異なっている。

理由: 原文の trois hommesune femme を正しく数えられていない。

修正案: 一五六〇年に、ヴェロネーゼは慣例にしたがって、聖母子の前に集められたクチーナ・フィアッコ家の人びとの肖像を描いた。そこには父親を含む三人の男性、母親である一人の女性、そして六人の子供たちがいる。


ヴァン・ダイク作の肖像画の子供について

原文: Le dernier des enfants de Charles Ier de Van Dyck, de 1637 est à côté de ses frères et sœurs, nu, à demi enveloppé dans le linge sur lequel il est étendu.

翻訳: 一六三七年のヴァン・ダイク作のチャールズ一世の子供たちの肖像画では、長男が他の兄弟姉妹とは別にかれの上に拡げられたリンネルになかば包まれた裸の姿で描かれている。

問題点: Le dernier des enfants は「子供たちのうちの末っ子」を意味するが、翻訳では「長男」と訳されている。これは完全に逆の意味になっている。

理由: dernier を「最後の」ではなく「第一の」やそれに類する意味と誤解したか、あるいは単純な読み間違いの可能性がある。

修正案: 一六三七年のヴァン・ダイク作のチャールズ一世の子供たちの肖像画では、末っ子が兄弟姉妹のそばで、横たえられたリンネルに半ば包まれた裸の姿で描かれている。 (補足:翻訳の「他の兄弟姉妹とは別にかれの上に拡げられた」という部分も原文 à côté de ses frères et sœurs ... sur lequel il est étendu(兄弟姉妹のそばで...その上に横たえられている)とは少しニュアンスが異なるが、最も明白な誤りは「長男」の部分である。)


「les bas mal tirés」の誤訳について

原文: il nous montre cet homme puissant, vêtu sans apparat, les bas mal tirés, qui commente à sa femme et à son fils sa dernière acquisition…

翻訳: ル・ブランはこの権勢家がなんら着飾ることもなく腕は曲げたままの格好で、妻と息子に最近かれの手に入れたものを説明しているところを描いている。

問題点: les bas mal tirés は「(靴下が)だらしなくたるんで、きちんと引き上げられていない」状態を指す。翻訳の「腕は曲げたままの格好で」とは全く意味が異なる。

理由: bas(靴下)を別の単語(例えば bras (腕))と見間違えたか、あるいは全く異なる解釈をした可能性がある。

修正案: ル・ブランはこの権勢家が、なんら着飾ることもなく、靴下もだらしなくたるませた姿で、妻と息子に最近手に入れたものを説明しているところを描いている。


ジャバックの赤ん坊のポーズに関するニュアンスについて

原文: Le petit Jabach, mieux que les enfants nus d’Holbein, de Véronèse, de Titien, de Van Dyck, même de Rubens, a exactement la pose du bébé moderne devant l’objectif des photographes d’art.

翻訳: ここで描かれているジャバックの赤ん坊は、ホルバイン、ヴェロネーゼ、ティティアン、ヴァン・ダイク、そしてルーベンスも含めたこれら画家たちの裸の幼児よりすぐれていてまさしく芸術写真のレンズの前にいる現代の子供のポーズをとっている

問題点: 原文は、ジャバックの赤ん坊のポーズが、他の画家の描いた幼児よりも「より正確に (mieux que ... a exactement)」現代の写真の赤ん坊のポーズに似ている、と述べている。翻訳の「よりすぐれていて」は、絵画としての質の優劣や幼児自体の優劣について述べているかのような誤解を招く可能性がある。ポーズの類似性の度合いについて述べている箇所である。

理由: mieux que を単なる比較級「より良く」ではなく、「~より優れて」と解釈し、ポーズの類似性ではなく質の比較と捉えた可能性がある。

修正案: ここで描かれているジャバックの赤ん坊は、ホルバイン、ヴェロネーゼ、ティティアン、ヴァン・ダイク、さらにはルーベンスが描いた裸の幼児よりも、より正確に、芸術写真のレンズの前にいる現代の赤ん坊と同じポーズをとっている


「serpe」の訳語及び原文記述と図像解釈の齟齬について

原文: comme cet enfant de Largillière qui tient une serpe ;

翻訳: ラルジリエールの子供像のように鈍錬を手にしている。

問題点: 1. 翻訳の「鈍錬(どんれん)」は意味不明であり、serpe(鎌、なた、小刀)の正しい訳ではない。 2. 原文の serpe(鎌、なた)という記述自体が、参照されるラルジリエールの肖像画(例:《ジャン=バティスト・ルソーの子供時代の肖像とされる絵》)に描かれたモチーフと一致しない。絵画のモチーフは、現在では「竪琴の装飾部分」と解釈されるのが有力である。

理由: 1. serpe という単語の意味の取り違え、あるいは不明な語を当てたこと。 2. 原文著者がモチーフを誤認した可能性、あるいはこのモチーフが歴史的に鎌(serpe)と誤認されることがあったため、その記述を用いた可能性が考えられる。

修正案: ラルジリエールの子供像のように鎌(なた)を手にしている(注:原文はserpe(鎌、なた)と記述しているが、ラルジリエールの《ジャン=バティスト・ルソーの子供時代の肖像とされる絵》などでは、子供は竪琴の装飾モチーフのようなものを持っている。このモチーフは時に鎌(serpe)と誤認されることもあるが、竪琴の一部であるという解釈が有力であり、原文の記述と図像解釈に食い違いが見られる)


「chemise légère」の訳語について

原文: le duc de Bourgogne de Mignard, simplement vêtu d’une chemise légère.

翻訳: 薄い下着をつけただけのミニャールのブルゴーニュ公爵像がある。

問題点: chemise は一般的に「シャツ」を指し、légère は「軽い、薄い」という意味である。当時の服装習慣として chemise が下着の役割を兼ねることもあったかもしれないが、必ずしも「下着」と断定することはできない。「薄いシャツ」と訳す方がより原文に忠実である。

理由: 文脈や当時の服装習慣から「下着」と解釈した可能性があるが、原文の語義からは「シャツ」が第一義である。

修正案: 薄いシャツをつけただけのミニャールのブルゴーニュ公爵像がある。


「chemise transparente」の訳語について

原文: petits garçons, petites filles qu’on habillait pour la circonstance juste d’une jolie chemise transparente.

翻訳: また小さな男の子や女の子たちは写真をとる機会には、透けて見える可愛い肌着を着せられている。

問題点: chemise transparente は「透けるシャツ」という意味である。上記7と同様に、chemise を「肌着」と断定するのは訳者の解釈が加わっている。

理由: 「透ける」という記述から、下着に近いものと判断した可能性があるが、原文はあくまで chemise(シャツ)としている。

修正案: また小さな男の子や女の子たちは写真をとる機会には、透けて見える可愛いシャツを着せられている。


「n’aura pas manqué de noter」のニュアンスについて

原文: Le lecteur de ces pages n’aura pas manqué de noter l’importance du XVIIe siècle dans l’évolution des thèmes de la petite enfance.

翻訳: 以上のページに目を通した読者は、子供期のテーマの進化における十七世紀の重要性にいやでも注目させられたであろう

問題点: ne pas manquer de faire quelque chose は「必ず~する、忘れずに~する、きっと~したに違いない」という意味の慣用表現である。読者が自発的に、あるいは必然的に重要性に気づいたであろう、というニュアンスである。翻訳の「いやでも注目させられたであろう」は、やや受動的で強制的なニュアンスが含まれており、原文の意図とは少し異なる。

理由: 慣用表現のニュアンスを正確に捉えられていない可能性がある。

修正案: 以上のページに目を通した読者は、子供期のテーマの進化における十七世紀の重要性にきっと気づいたことだろう(あるいは「注目せずにはいられなかっただろう」など)。


神曲』引用部分の訳抜けについて

原文: « Quelle gloire auras-tu de plus si tu quittes une chair vieillie, que si tu étais mort avant d’avoir cessé de dire pappo et dindi, avant qu’il ne soit passé mille ans. »

翻訳: 「老いさらばえた肉体だけ残すのと、パッポとかディンディとか言うのをやめないうちに死んでしまうのと、どちらがより栄光あることと汝は考えるか」。

問題点: 原文の引用の最後にある avant qu’il ne soit passé mille ans (千年が経つ前に)という部分が翻訳から抜け落ちている。これはダンテが煉獄での浄化の期間について言及している重要な部分である。

理由: 単純な訳し忘れ、あるいは引用箇所の解釈における見落としの可能性がある。

修正案: 「老いた肉体を(そのまま)残すことで、千年が経つ前にパッポとかディンディとか言うのをやめる前に死んでしまっていた場合よりも、どれほど多くの栄光を汝は得るだろうか」。 (注:この訳は文脈を考慮した意訳を含む。より直訳的には「...パッポとかディンディとか言うのをやめる前に、千年が経つ前に、死んでしまっていた場合よりも、老いた肉体を(そのまま)残すことで、汝はどれほど多くの栄光を持つだろうか」となる。)


骰子遊びの場面の題辞の解釈について

原文: Des putti jouent aux dés, l’un est hors du jeu : Et l’autre, s’en voyant exclu (du jeu) Avec son toutou se console.

翻訳: ちびさんたちは骰子遊び、ひとりを除いて、それを見ている仲間外れが、もうひとり、トゥトゥ (わんわん)が、お慰めしてる

問題点: 1. l’autre は、ゲームから外れている l'un とは別のもう一人の子供を指す。翻訳の「それを見ている仲間外れが、もうひとり」という表現は、「仲間外れ」が二人いるかのような誤解を招き、文の構造が不明瞭である。 2. se console再帰動詞で「自分自身を慰める、気を紛らわせる」という意味である。翻訳の「トゥトゥ (わんわん)が、お慰めしてる」では、トゥトゥが慰める主体になっているが、原文では子供がトゥトゥ(犬のおもちゃなど)を使って自分を慰めている状況である。

理由: 文の構造と再帰動詞の意味を正確に捉えられていない可能性がある。

修正案: (サイコロで遊ぶプットたち。一人は仲間外れ。) そして、(仲間外れになった)もう一人は、自分のトゥトゥ(わんわん)で気を紛らわせている


「petit peuple」のニュアンスについて

原文: Dans le même sens enfantin, Mme de Sévigné dira en parlant des enfants de Mme de Grignan : « Ce petit peuple. »

翻訳: 同じ子供じみた意味をこめて、セヴィニエ夫人は、グリニャン夫人の子供たちについて語るさい「この小市民」といっていた。

問題点: petit peuple は文字通りには「小さな人々」であるが、ここではセヴィニエ夫人が孫たちを指して使う、親しみを込めた(あるいは少しからかいを含む)愛称のようなものである。翻訳の「小市民」は、社会階級的なニュアンス(ブルジョワジーの下層など)が強く、原文の文脈における愛情や親しみのニュアンスが失われている。

理由: petit peuple という表現の持つ文脈上の意味合い(愛情表現、子供たちへの呼びかけ)よりも、辞書的な意味や社会的含意を優先して訳した可能性がある。

修正案: 同じ子供じみた意味合いで、セヴィニエ夫人はグリニャン夫人の子供たちについて語る際に「この小さな人たち(この子たち)」と言っていた。 (注:「この小さな連中」のような訳も文脈によっては考えられる。)


「copain」のカナ表記について

原文: elle lui préfère le plus vieux mot copain, le compaing médiéval.

翻訳: 俗語ではもっと古い「コペン」という言葉の方が好まれているが、これは中世のコンパンが変化したものである。

問題点: フランス語の copain は、一般的に「コパン」と表記される。翻訳の「コペン」は一般的な表記とは異なる。タイプミスか、あるいは特定の表記規則に基づいている可能性も考えられるが、標準的ではない。

理由: 一般的なカナ表記との差異。

修正案: 俗語ではもっと古い「コパン」という言葉の方が好まれているが、これは中世のコンパンが変化したものである。


「pas plus grand que cela」の誤訳について

原文: ainsi que l’expression « beau comme un ange », ou « pas plus grand que cela », qu’emploie Mme de Sévigné.

翻訳: セヴィニエ夫人が用いている「天使のように素晴らしい」とか「それ以上のことはないわ」といった表現も同じである。

問題点: pas plus grand que cela は、文字通りには「それより大きくない」という意味である。子供の小ささ(背丈など)を指して「これっぽっちの大きさ」「こんなに小さい」といったニュアンスで使われた表現と考えられる。翻訳の「それ以上のことはないわ」は、原文の意味から完全に外れている。

理由: 表現の意味を取り違えている。

修正案: セヴィニエ夫人が用いている「天使のように美しい」とか「こんなに小さい(これっぽっちの大きさ)」といった表現も同じである。


原文と翻訳の対応関係のずれについて (構造的問題)

問題点: 提示された原文の第3段落、第4段落、および第5段落前半に対応する日本語訳が、本来あるべき場所に記載されていない。具体的には以下のずれが生じている。

  • 第3段落の原文 (Jusqu’aux onomatopées...) に対する翻訳が欠落している。
  • 第3段落の翻訳として記載されている文章は、第4段落の原文 (Déjà au début du siècle, Heroard...) に対応する内容である。
  • 第4段落の原文 (Déjà au début du siècle, Heroard...) に対する翻訳が欠落している。
  • 第4段落の翻訳として記載されている文章は、第5段落の原文の前半 (Quand elle décrit... des heures entières.) に対応する内容である。
  • 第5段落の原文 (Quand elle décrit... bredouillage.) のうち、後半部分 (Beaucoup de mères... bredouillage.) のみが第5段落の翻訳として記載されており、前半部分の翻訳が欠落している。

理由: 文章の編集・構成段階での誤りと考えられる。原文の段落と翻訳の段落が正しく対応していない。

修正案: 原文の段落構成に合わせて、翻訳文を正しく配置し直す必要がある。以下に、ずれを修正した場合の指摘箇所を示す。


(修正後の対応箇所) セヴィニエ夫人の孫娘に関する記述内の誤訳 (原文第5段落前半 / 誤って第4段落の翻訳として記載された箇所)

原文: « Notre fille est une petite beauté brune, fort jolie, la voilà, elle me baise fort malproprement, mais elle ne crie jamais. »

翻訳: 「私たちの娘は、黒髪の小さな美人です。もちろんとても可愛らしい。あの娘がやって来ました。私にすぐとびついてきて接しますが、決して叫んだりしません」。

問題点: elle me baise fort malproprement は「彼女は私にひどく無作法に(あるいは汚く)キスをする」という意味である。子供がキスをする際に、よだれをつけたり、顔を汚したりするような様子を指していると考えられる。翻訳の「私にすぐとびついてきて接しますが」は、原文の意図する具体的な描写(キスの仕方)を捉えておらず、意訳としても不正確である。

理由: fort malproprement (ひどく汚く、無作法に) という副詞句の意味を正確に訳出できていない。

修正案: 「私たちの娘は、黒髪の小さな美人で、とても可愛らしい。ほら、あの子が。私にひどく無作法に(汚く)キスをしますが、決して泣き叫んだりはしない」。


(修正後の対応箇所) セヴィニエ夫人の孫娘に関する記述内の誤訳 (原文第5段落前半 / 誤って第4段落の翻訳として記載された箇所)

原文: « On m’embrasse, on me connaît, on me rit, on m’appelle maman tout court » (et non pas bonne maman).

翻訳: 「あの娘は私に接吻し、私を見つめ、笑いかけ、私のことを(《おばあちゃん》でなく) 《ママン》と呼びます」。

問題点: on me connaît は「(彼女は)私を認識する、私のことがわかる」という意味である。祖母であるセヴィニエ夫人をちゃんと認識している、という喜びを表す文脈である。翻訳の「私を見つめ」は、原文の意味とは異なる。

理由: connaître (知る、認識する) という動詞の意味を取り違えている。

修正案: 「(あの子は)私にキスをし、私のことを認識し、私に笑いかけ、私のことを(おばあちゃんではなく)単に《ママン》と呼ぶ」。

鉈鎌(なたがま)

https://hyacinthe-rigaud.over-blog.com/2020/06/largillierre-rigaud-et-de-troy-peintres-d-apllon.html

serpeを鉈鎌と翻訳するのは大きな間違いではない。注釈39(Rouches. Largillière, peintre d’enfants. Revue de l’Art ancien et moderne, 1923, p. 253.)を検索してみたが、資料はデジタル化されていなかった。画像をみる限り、竪琴の装飾モチーフであり、serpeと表現するのは誤りである。これは、翻訳者というよりも引用文献の著者かアリエスかが誤認したのであろう。引用文献をみることができれば、どちらの誤認かは明らかになる。

「聖母奇跡劇」引用部分

この部分は原文が明解ではないので、調べ物をしないと意味が確定しない。

原文: « Si lui a mis le papin sur la bouche en disant : papez, beau doulz enfes, s’il vous plaist. Lors papa il ung petit de ce papin : papez enfes, dist le clergeon, si Dieu t’ayde. Je voys que tu meurs de faim. Papine un peu de mon gastel ou de ma fouace. »

翻訳: 「この幼児はこう言いながらパパンを口のところに置いた。《幼な児のイエスちゃま、パパンを食べて下ちゃい、お願いちまちゅ》、この幼児がこのパンのかけらを食べさせたとき、イエスはこのパンを食べ、この聖歌隊の幼児にいった。《神が汝をお助け下さるように。私は汝が飢えて死ぬことを知っている。私のお菓子とせんべいを少しお食べ」。

問題点: 1. Lors papa il ung petit de ce papin は「そこで彼はそのパン(パパン)を少し食べた」という意味だが、翻訳では「この幼児がこのパンのかけらを食べさせたとき、イエスはこのパンを食べ」と、幼児が食べさせ、イエスが食べたと解釈されている。原文の il が誰を指すか(幼児か、奇跡的に動いたイエス像か)は解釈の余地があるが、訳のように明確に「幼児が食べさせ、イエスが食べた」と断定するのは原文から飛躍している。文脈上は、イエス像が食べた(奇跡が起きた)と解釈する方が自然かもしれない。 2. dist le clergeon は「と聖歌隊の少年(幼児)は言った」という意味であり、これに続く言葉(「神が汝をお助け下さるように...」)は、翻訳のようにイエスが言ったのではなく、パンを与えようとしている幼児 (clergeon) 自身のセリフ、あるいは幼児がイエス像に語りかけている言葉の続きと解釈するのが自然。翻訳ではイエスが話したことになっている。

理由: 中世フランス語の構文や語彙の解釈、特に代名詞 il の指示対象や dist le clergeon の位置づけを誤解している可能性がある。

子どもがイエス像に食物を与えるモチーフについて

子供が幼子イエス(またはその像)に食物を与えるというモチーフは、中世の物語文学コレクションの中に明確に存在することが確認された。特に、15世紀のジャン・ミエロによる散文集と、13世紀の韻文集『父祖たちの生涯』に見られる例が重要である。

ジャン・ミエロ『聖母奇跡譚』(15世紀、Douce MS 374)

15世紀にブルゴーニュ公フィリップ善良公(またはシャルル突進公)のためにジャン・ミエロが編纂した散文の『聖母奇跡譚』(Miracles de Nostre Dame)には、「貧しい女の子供が、聖母の御子にパンを与えた奇跡」(Miracle de lenfant a la poure femme, qui donna de son pain a lenfant nostre dame)と題された物語(写本 fol. 97)が含まれている。

"Miracles de Nostre Dame collected by Jean Mielot ..., https://archive.org/stream/MielotMiraclesDeNostreDame/Mielot_Miracles_de_Nostre_Dame_djvu.txt

この物語の分析から、以下の要素が明らかになる:

  • 主人公: 貧しい女性の息子である「小さな聖職者」(petit clerc)。聖母マリアへの信仰心は篤いが、同時に教会内で他の幼い子供たち(「enfans de petit eaige qui sauoyent pou de lettres... si petis et de si petit eaige quilz ne pouoyent dire leurs heures」)と共に、まだ典礼を十分に理解していない様子も描かれる。
  • 供物: 家から持ってきた「ガステル」(gastel、ケーキ)または「フアス」(fouace、フォカッチャ風のパン)。後に二度目の供物としてフアスが捧げられる。
  • 交流: 子供は祭壇の前で遊び、聖母マリアが幼子イエスを抱く像(「limaige de la vierge Marie et de son filz」)に近づき、イエス像に直接ガステルを差し出し(「tendit le gastel a lenfant Jhesus」)、食べるように願う(「priant quil le voulsist mengier」)。
  • 奇跡: 奇跡は明確に描写される。聖母マリアが手を伸ばしてガステルを受け取り(「la vierge Marie tendit la main et print le gastel」)、それを息子の像の口元へ運び、像は子供の前でそれを全て食べた(「le porta a la bouche de son filz, qui le menga tout en la presence du clerc」)。この奇跡は二度起こる。
  • 結末: 子供は大喜びし、仲間たちに話すが、司教には信じてもらえず、叱責され脅される。子供は像に近づくのをやめるが、祈りは続ける。やがて病気で亡くなると、聖母マリアとイエスが彼の魂を迎えに来て天国へ導く。

ミエロ版の物語は、子供の素朴で繰り返される信仰行為(食物の供儀)に対する報酬として、直接的で物理的な奇跡(像による食物の摂取)を強調している。教会権威(司教)の不信や禁止にもかかわらず奇跡が起こる点は、制度的権威と民衆的・子供らしい信仰心との間の潜在的な緊張関係を示唆し、最終的には後者が神の介入と死後の報酬によって正当化されることを示している。像が実際に「食べる」という奇跡は、非常に具体的であり、他のより壮大な奇跡と比較して日常的ですらあるが、これは子供の日常的な食物という素朴な供物の価値を強調しているのかもしれない。

『父祖たちの生涯』(Vie des Pères、13世紀):物語「パン」("Pain")

13世紀に編纂された韻文の宗教物語集『父祖たちの生涯』(Vie des Pères)にも、類似のモチーフを持つ「パン」("Pain")と題された物語が存在する。この物語に関する二次資料 及び引用された原文の分析から、以下の点が明らかになる。

Images et fonctions de la petite enfance dans quelques contes de la ..., https://mrsh.unicaen.fr/hce/index.php_id_548.html

  • 主人公: 「小さな男の子」(petit garçon)。ミエロ版と同様に、典礼の知識は乏しいが遊びや食べ物を好み(「joant / gastel et fouace mengant」)、後に聖母マリアから「クレルソン」(clerçon)と呼ばれる。
  • 供物: 「パン」(pain)、特に「フアッシュ」(fouache、フォカッチャ)。子供はこのパンを愛情を込めて「パパン」(papin、子供言葉で食べ物・おやつ)と呼ぶ。
  • 交流: 子供は教会を歩き回り、聖母子像を見て幼子イエスを本物の子供と思い込み、自分のパンを差し出す(「Menguë, dist il, de mon pain.」)。さらに、「Papés, biax fiex, de cest papa」(お食べ、可愛い坊や、このパパンを)、「c’est boine fouache pure」(これは本当に美味しいフアッシュだよ)と言って食べるよう促す。
  • 神の応答:エスは食物に触れることを拒む(「l’enfant Jésus, tout en se refusant à toucher à la nourriture」)が、少年の信仰心を認め、3日後に天国へ迎え入れることを約束する(「Dedenz tierc jour el ciel venras, / Moi et mon enfant i verras」)。イエスは供物についても言及する(「Pieça si bon papin ne fist」、こんなに美味しいパパンは久しぶりだ)。
  • 結末: 子供は3日後に亡くなり、天国へ迎えられる。

この13世紀の韻文版は、ミエロ版とは異なる結末、すなわち食物の物理的な摂取という奇跡ではなく、神による承認と救済の約束を提示する。これにより、焦点は行為を正当化する物理的な奇跡から、精神的な報酬へと移行している。特に「パパン」(papin)という語の使用は、供儀と交流の子供らしい性質を際立たせ、形式的な儀式ではなく、愛情と親密さの観点から信仰を描写している。聖母マリアが少年を「クレルソン」(clerçon)と呼ぶことは、彼の素朴な信仰心を、たとえ末端であっても教会の役割へと結びつける。このバージョンは、物理的な顕現よりも意図や信仰心を重視する、わずかに異なる神学的強調を反映している可能性がある。

小括

「子供が幼子イエス(像)に食物を与える」というモチーフが、中世フランスの宗教物語文学に存在することが確認された。