井出草平の研究ノート

速水融『歴史人口学で見た日本』


歴史人口学で見た日本 (文春新書)

歴史人口学で見た日本 (文春新書)


論文を読んで、興味深かったので新書で出ているものを読んだ。この新書も非常に面白い。
お勉強のためにメモ。


 古代の日本の人口については、やはり戦前の人だが、数学者の沢田吾一が奈良朝時代の戸籍(断片しか残っていないが)を使って、当時の人口は五百六十万人という推定をしている(『奈良朝時代民政経済の数的研究』)。この推定は現在の研究から見てもそれほど遠く離れてはいない。(p67-8)


奈良時代の日本の人口は560万人程度。

私は、けっしてぴたりとした数字は出ないが、千二百万人プラスマイナス二百万人くらいが江戸初期の人口ではないだろうかと推計したのである。(p69)

江戸初期の人口は1200万程度。奈良時代から戦国・織豊時代にかけての900年程度で2倍ほどに増えていったようだ。

日本にはイングランドにもフランスにもないマクロの人口史料がある。それは、享保六(一七二一)年に八代将軍吉宗が始めた全国の国別人口調査である。一七二一年から定期的に、全国を地方別に人口調査したという例はヨーロッパのどこにもない。二千八百万人といわれるフランス革命期のフランスの人口にしても、みな推計で行っているのであって、当時調査された記録によるものではない。しかし日本では、享保六年に、吉宗が全国の大名や代官に対して、「支配下の人口を男女別・国別に報告せよ。ただし調査の方法はいままでそれぞれの地域でやってきた方法にしたがってよい」という法令を出した。それが幕府に届けられ、幕府のもとで国別に計算されて、だいたい二千六百万人という数字が出ている。
 享保六(一七二こ年の次が享保十一年(この年は午年だった)で、以後子年と午年に調査が行われた。これは、当初、享保五年の子年から調査を始めたかったのが、間に合わなかったからとされている。そして、弘化三(一八四六)年のものが、今日手にしうる最後の調査結果である。それ以降も、調査して幕府へ報告をしたという大名の記録はあるが、幕府のもとで全国集計されたかどうかはわからない。たぶん、幕末の多事多忙の折、人口調査どころではなくなったのだろう。なお、この調査の結果だが、あまり目立った変動はない。このことから江戸時代の人口停滞、はては経済停滞説が出てくることになる。
 さて、藩別の調査だが、いままでそれぞれがやってきた方法でいいわけだから、調査は統一されたものではなく、ある藩では十五歳以下、別の藩では八歳以下はカウントしていないなどばらばらである。さらに武士がカウントされていないので、結果の二千六百万人という数字はかなり低い数値であると思われる。そこで学者は、これにどれくらい追加すればいいかということをいろいろ論議しているが、私はだいたい五百万人くらい追加すればいいだろうと考えている。つまり享保期の日本の人口は、三千万人ちょっとくらいではなかったろうかと思われる。(p56-7)

江戸時代中期(1712年)から全国人口調査が行われている。この調査によると、武士と子供を除いて日本の人口は2600万人ほどだそうだ。そこに武士と子供を加えると、だいたい3000万を超える程度ではないかと速水は述べている。

560万(奈良)→2倍(900年)→1200万(江戸初期)→2.5倍(100年)→3000万(江戸中期)


という人口推移になる。
奈良時代から2倍になるために900年要したものが、江戸時代には100年たらずで人口の倍増という現象がおこっている。

 このように推計をすると、逆算して十七世紀中(元禄期より前)に、日本にたいへんな人口増大があったことになる。というのは、享保期に日本の人口が三千万人くらいになっているのは確かである。初期が千八百万人だと増えかたは一・七倍にしかならないが、千二百万から三千万というと二・五倍くらいになる。なお、次章で述べる長野県諏訪地方の史料を使った研究でも、だいたい二・五倍という数字が出てきていて、日本全国のデータは揃っていないけれども、少なくとも諏訪のデータから私の推計は裏付けられたと思っている。
 また、この増大を証明する史料として、将軍吉宗が享保十七(一七三二)年に全国の国別人口調査ばかりでなく、全国九つの大藩に、判明する限り過去にさかのぼって報告を求めた結果がある。それによれば、一つの藩を除いて、十七世紀末以来人口は増大している。十七世紀中はたいへんな人口増大があったに違いない。(p69-70)


江戸の初期にあたる17世紀に人口爆発があったことが確認できる。やはり興味深いのはその原因であろう。



 その結果、上図のように面白い結果を得た。十七世紀中はひじょうな勢いで人口が増大し、享保五(一七二〇)年ころから停滞して、最後の明治維新近くになってまた増大を始めるという線が引けた。すなわち、十七世紀に一種の人口爆発ともいうべき急上昇があり、それが享保五年ころ(村によって違うが、元禄十三=一七〇〇年から寛延三=一七五〇年くらいにかけて)に頭打ちになって横ばいに転じ、文政三〜天保元(一八二〇〜三〇)年ころから再増大して明治に至る、という線が引けた。そうすると、これをどう解釈するかということが問題になる。(p75)

 もちろん諏訪地方でも人口の出入りがなかったわけではない。とくに諏訪から江戸へ出稼ぎに行く人たちが何人もいる。先ほどの横内村からも江戸へ出稼ぎに出たが、出稼ぎ先がだいたい決まっていて、大部分は日本橋にある海苔店へ行った。「山本山」という海苔店があるが、そういったところである。出稼ぎ者の大部分はそこで奉公して帰ってくるが、なかには手代になり、番頭になり、暖簾分けしてもらって江戸で海苔の小売店を始めた者もいた。面白いことに、東京で海苔店を捜すと「五味」という姓をもつ家がかなり多い。これは横内村の人に五味姓が多いというところからきている。(p75-6)


地方から都会へ出る際には出稼ぎ先がだいたい決まっていたそうだ。諏訪の横内村からは海苔屋になった者が多いという。



 大規模な世帯というのはどういうものかというと、親夫婦、子夫婦、兄弟夫婦、あるいは叔父、甥、姪、従兄弟や、彼ら親戚夫婦などがいっしょに住んでいる世帯である。家族社会学の用語では、そういうタイプの世帯を「合同家族世帯」と呼ぶが、それがかなりあったのが、ばらばらに分解していくのである。極端な場合は一夫婦と子供、用語としては「核家族世帯」にまで進むが、普通はそれに祖父と祖母、あるいはそのどちらかが加わった三世代の家族、用語としては「直系家族世帯」になっていった。すなわち、この時期に合同家族が直系家族ないしは核家族へと分解していった。
 もちろん直系家族、核家族も同時に存在していたが、享保五(一七二〇)年くらいまで存在した合同家族が、寛政十二(一八〇〇)年、嘉永三(一八五〇)年と時代が下るとほとんどいなくなってしまった。だから、世帯規模の分布をとっていくと、いちばん多いときには三十人世帯などというものもあって、分布が幅広く拡がっていたのが、だんだん縮小しながら、四人世帯、五人世帯、六人世帯というところに集中してくる。すなわち、合同家族世帯から直系家族ないしは核家族世帯へという構造の変化を伴いながら、規模が縮小していくということがわかってきた。そのことがいちばんよくわかるのが横内村のデータであった。
 こうして大規模な家族が小規模な家族になるに伴い結婚率が上がり、みなが結婚するようになって(大規模な家族だと結婚しない者もたくさんいた)出生率が上がることにより、「人口爆発」が起こった。
(p77-8)


世帯規模について。
18世紀初めから中頃にかけて、世帯規模がぐんぐんと減っている。これは核家族・直系家族化が進んでいると判断して良い。19世紀中頃になると、多人数の家族である「合同家族」が消失する。これとともに婚姻率が上がっていると速水は言う。



人口爆発」が起こったとき、それに耕地の増加が十分に伴ったのだろうか。同じ諏訪を私は四つの地域に分けてみたのだが、新田開発がどんどん進むところというのは、八ヶ岳山麓地帯だった。いままではほとんど原野だったようなところは、開墾によって人口扶養力が高まり、人口増加率がいちばん高くなって幕末近くまで増加する。一方、十七世紀中は増大するが十八世紀に入るやいなや停滞するようなところは、すでに開発の限界にまで来ていたのだろう。肥料をたくさん使うとか、深く耕すとかの工夫で増産をはかる余地はあったかもしれないが、耕地面積を増やすということはもう限界まで来ていたに違いない。
 人口増大は、グラフにしてみると、ある日からとつぜん増大するわけではなく、最初はゆるく、中途で急になり、まただんだんゆるくなっていく。このような変動の描く線を「ロジスティック・カープ」と呼んでいる。寛文十(一六七〇)年のころはこのカーブの中間あたりで、増加の勢いがいちばん盛んだった。逆算すると、ちょうど慶長五(一六〇〇)年から元和六(一六二〇)年のころから徐々に変化が始まったことになる。
 では、そのころ何があったのかというと、とりもなおさず江戸時代が始まったのである。それが何を意味するかといえば、江戸時代以前というのは戦国時代で、兵農分離がなく、武士は農村に住んで、いざというときに一族郎党を引き連れて戦争に行った。しかし、江戸時代というのはそうではなくて、兵農分離が実施され、都市=城下町ができる。城下町というのは、その内部ではものをつくらないから、農村から城下町向けの生産が起こる。いわゆる需要創出であり、もう少しいえば、いまから四百年前に、有効需要の創出によって景気を回復させるというケインズ理論が日本で実行されたともいえる。

 都市で需要がつくられ、それに対応して農村がその都市に住む人のために市場向けの生産を始める。伝統的な農業というのは、そういう市場向けの生産はいっさい考えず、自給(自分で食うため)と年貢のために生産をしていた。自給と年貢は強制であり、働かなかったら飢え死にするか罰せられる。しかし、こんどの市場向け生産というのは、働けばカネになって戻ってくるわけで、そこで一挙に状況が変わった。
 そうすると、どうすれば能率がいい生産ができるか、あの方法よりこの方法のほうが能率がいいという競争が起こり、結局、日本では農業生産形態のなかで小規模の家族経営がいちばんいいということになった。それはなぜかというと地形の問題がある。水田は水平でなければいけない。水平でなかったら水が流れ出してしまい、農業にならないから、真っ平らにしなければいけないのである。そうすると、広い面積を真っ平らにするのは難しいので、どうしても一つの単位が狭くなり、狭い面積のところを耕作するようになる。ヨーロッパやアメリカに行くと、畑というのは勾配があろうがなかろうが、ずっと長く畝が続いている。しかし水田耕作というのはそうはいかない。だから単位は小さい。
 しかも、労働力が家族であるならば、朝から晩まで働く。働いて得たカネが家族に返ってくるからである。そういう条件の下では人間は一生懸命働く。大経営のなかには、家族ではない、中世以来の隷属的な地位にある下人とか譜代と呼ばれる人たちがいたが、彼らは結婚せず生涯独身である。主人の末っ子とか三男坊もそうだったが、彼らは結局強制で働いていた。農業は広い場所で作業が行われるから、遠くから見てサボっているのか働いているのかわからない。だからこそ社会主義では農業は失敗してしまう。農業は計画生産がいちばん難しいということなのだ。農業は自然依存度が高く、広い場所で生産が行われる上、人間はなるべく働くまいとする傾向があるから、極端にいえば一人の労働者に一人の監督がついて、サボった者は鞭打たなければ働かない。しかし、労働が家族ということになると状況は変わるのである。(p78-81)


生産が上がれば、それだけ田畑が余るわけだから、次男、三男にそこを任せるということも起こったはずである。そのために、世帯数が増え、核家族化が起こったと考えられる。人口爆発核家族化の背後には、新田開発と農業革命があったとかんがえられるのである。


また、速水は水田経営は経営単位小さく、生産単位を少なくする方が合理的であることも指摘している。
さて、この生産単位とともに、起こったのは、農業を支える「もの」の変化である。

その結果わかったのは、人の数と家畜(ここはほとんど馬)の数の比率が大きく変化したことである。つまり、人口は増えるが馬の数は減っている。十七世紀には平均して人口二十人あたり一頭、それが十九世紀には人口百人あたり一頭になった。二十人あたり一頭というと、四世帯に一頭くらいである。百人あたり一頭なら、二十世帯に一頭になる。
 ヨーロッパ型の農業発展は、人口に対して家畜の数が増えていく。そこで、いちばん初めに土地を掘り起こす翠は、一頭が曳いていたものが増え十二頭曳きまでいく。十二頭曳きにするのに、その十二頭の力が全部均等にかかるようにしなければならないなどのいろいろな技術改良が行われ、また、深く土地を掘り起こすために、大型化も必要であった。
 しかし日本では、とうとう一頭曳きのものしかできなかった。しかも、日本は家畜を増やさず、だんだん農業に家畜を使わなくなっていく。つまり、人口百人に馬が一頭しかいないという状態では、どんなに回り持ちして何軒かの家で使ったとしても、耕作には使えない。そういう場合はたぶん、乗ってどこかへ行くとか運搬するとかのために飼っていたのだと思う。
 家畜数が減少したということば、それまで家畜のやっていた仕事を人間がやるようになったことを意味する。当時の馬は小さいから、馬一頭でも一馬力は出なかっただろうが、とにかく、馬を耕作に使う場合には、馬が犂を曳いて土地を掘り起こしていき、人間は倒れないように犂を支える。ところがそのようなかたちはなくなり、人間が響いていくやりかた、夫が引っ張り、妻が後ろで支える方法に変わっていく。そのタイプのスキというのは翠ではなくて鋤になる。すなわち、家畜がいなくなってその仕事を人間がやる、畜力から人力へというエネルギーの代替が起こるわけである。
 この変化は、ヨーロッパ型の農業発展とはまったく逆である。ヨーロッパは家畜をどんどん入れて、多大の外部エネルギーを導入する。これが工業で実現したのが産業革命である。日本はエネルギー源はマンパワーによるのであり、外部エネルギーではない。(p95-6)

 さて、何度も述べるように、調査の残る百二十五年間で全国人口にはそれほど大きな変動はない。二千六百万人プラスマイナス百万人くらいのところでずっと推移する。だから歴史家は人口にあまり興味を示さなかった。やはり何か変動がないと面白くないのである。私にとっては必ずしもそうではなくて、変動がないということもーつの発見であり、歴史的な事実であって面白い。しかし、変動はあまりないが、いま述べたような分けかたをしてやると、平常年と危機年とで日本の地図ががらりと変わる。
 また、日本には六十六の「国」があったが、国ごとでは小さすぎるので、たとえば日本を十四の地域(東北地方の東側と西側、関束地方の南と北、北陸、東山、東海など)にまとめて、地域ごとの人口変動を見る。そうすると、百二十五年間にはっきり人口が増えているところ、減っているところ、増えもしないし減りもしないところ、というように大きな違いが出てくる。
 増えたのは、北陸および西日本の四国、山陽、山陰、九州といった地域である。減っているのは、東北地方、関東地方。とくにいちばん減ったのが関東地方の北部、いまでいえば群馬、栃木、茨城で、残りがあまり変化のなかったところである。(p62)


江戸時代中期から後期にかけての人口変動は一定であった。しかし、地域ごとに見てみると、四国・山陽・山陰・九州といった今では「過疎」に苦しむ場所で人口増加がみられ、東北・北関東で人口が減少している。

 日本全体の傾向としては、ほとんど人口変動がなかったが、危機年だけをとると、例外なく全国人口は減っている。つまり、危機を免れた場所はまずないといっていい。しかし逆に平常年だけとると、二地域を除いて人口はだいたい増えている。その人口の増えなかった地域はどこかというと、関東地方と近畿地方である。
 これはひじょうに興味深い。なぜかというと、関東地方には江戸があり、近畿地方には京都、大坂があった。江戸の人口は百万といわれているし、京都と大坂もそれぞれ四、五十万だから、両方足すと百万近くになる。江戸時代の日本は、江戸という百万都市、京・大坂を足すと百万近い都市という、二つの人口密集地をもっていたわけだ。人口百万という都市は、現在でも相当な規模で、世界にそれほど多くはない。この二つの百万都市をもっているにもかかわらず、その地域を含む関東や近畿で人口が減っているのである。これは一見不思議なことで、そういう巨大な都市があれば、その周辺の地域では、都市に物資を供給する産業、すなわち手工業や市場向け農業生産が盛んになって、経済的に発展し、その結果人口も増えるだろうと常識的には考えてしまう。ところが、そういうところで平常年の人口が減っているのである。これには説明が必要となる。
 そこで私は、自分の造語であるが「都市アリ地獄説」を掟起した。つまり都市というのはアリ地獄のようなもので、引きつけておいては高い死亡率で人を(やって来た人だけではないが)殺してしまう。だから地域全体としては人口は増えなくなる。江戸っ子は三代もたないという俗説があるが、これは、江戸は住んでいる人にとっては健康なところでなく、農村から健康な血を入れないと人口の維持ができないということを意味している。


今度は、飢饉などの年度を除外して平常年だけをとってみると、関東・近畿で人口減少をしてることがわかったそうだ。速水氏は「都市アリ地獄説」を提唱している。確かに興味深い説明である。


 全国国別人口調査が行われた享保六(一七二一)年から弘化三(一八四六)年のあいだに、日本には三回の人口危機、すなわち大きな飢饉、凶作、もしくは疫病の流行があった。
 最初は享保の飢饉といわれるもので、享保十七、十八年にあたる。この飢饉の原因はウンカの大発生で、最近の研究によると、ウンカは風に乗って中国大陸から飛んでくるのだという。
中国で発生したウンカが、特異な気象条件のもとで東シナ海を越えて九州へ舞い降り、その後にまた大発生して、日本各地(主に西日本)に拡がっていくという。
 この飢饉のときはたしかに西日本が凶作にやられた。そのため、佐賀や広島などコメの値段の記録が残っているところの史料を見ると、その価格がはね上がっている。ところが東日本ではあまり上がっていない。だから凶作はだいたいは西日本で起こったということになり、当然その地域の人口も減ったものと思われる。餓死者が出たかどうかはわからないが、病人が出て、体の弱っている者は死ぬし、さらには出生率が低くなるというようなことも重なって、このとき西日本の人口は減った。(p58-9)

飢饉で餓死者が出たかどうかは分からないという。歴史の資料集には飢饉の図が載せられ、供養の塔が立っているところもあるので、餓死者が続出したイメージがあるが、確認はできない。飢饉の時に人口が減ったからと言って、それが「餓死」を意味するわけではないというのは重要な点だろう。

 家族復元の結果、結婚した者の平均初婚年齢は、男は二十八歳、女は二十・五歳であった。それから結婚の継続期間だが、その分布を見ると、わずか一年というのがいちばん多くて、全体の七%。それからずっと下がっていって、いわゆる銀婚式(二十五年間路婚が続く)というのは全体の二、三%くらいで、金婚式(五十年)まで続くのほほんの〇・五%でしかない。これは死亡時期が早いということもあるが、わりと離婚が多かったからでもある。結婚後一〜三年での結婚解消がいちばん多いというようなこともわかってきた。

男性の結婚年齢は28歳。江戸時代は10代でみんな結婚していたイメージがあるが、現在とあんまり変わらない。また、1〜3年での離婚件数が多いというのもまったく同じである。


 なかでも、出稼ぎ奉公に注目をして、いったいどれくらいの人がこの村から出稼ぎ奉公に出ているのかということを計算してみた。出稼ぎ奉公を数量的にどうやって計算するかというともちろん 「宗門改帳」に出てくる千八百八十六人のうち、何人に出稼ぎ経験があるかということは簡単に出る。

小作層は出稼ぎをよく行い、逆に地主層は出稼ぎに行かないようだ。農村にとどまっていても食い扶持がないと言うこともあるのだろう。全員行かないのは、長男は出稼ぎに行くことが少なかったからだろうし、出稼ぎに行かない女性は長男の嫁になっていたのではないかと思われる(まったくの推測)。


小作層では1800年までと1800年からの動向はあまり変わらないが、地主層では19世紀になると出稼ぎ奉公という行動パターンほとんど取らなくなっている。

 では、いったい何歳くらいで出稼ぎ奉公を始めたのだろうか。ここで出稼ぎ奉公という言葉を使ったが、「出稼ぎ」という言葉にはもともと、いつかはその地へ帰ってくるという意味が含まれている。しかし実際には帰ってこない者がたくさんいた。ただし江戸時代にも法令があって、制度的には移動できない。とくに領主が違うところへはなおさらである。そこで、その規制をかい潜るために出稼ぎという言葉を使った。出稼ぎということなら、いつかは帰ることが前提だからかまわないという理屈が成り立つのである。

教科書に載ってるような「歴史」は法令が定められていたら、庶民はみんなきっちりと守ったと言わんばかりだが、そんなことはないということがわかる。


 西条村から出稼ぎ奉公に出た者は、男女合わせて三百九十四人いた。その三百九十四人のうち、最終年(明治二年の「宗門改帳」)でも奉公が継続しているのは六十五人。そうすると残りは三百二十九人になる。ところが二百二十九人のうち、だいたい三分の一にあたる百二十六人は奉公先で死亡しており、その百二十六人のうち九十六人は都市や町場、三十人が農村である。そうしてみると、やはり都市に出た者はその都市で死ぬことが多かったようである。都市の場合、商家に奉公すると屋根裏部屋にすし詰め状態になって住むことになり、健康であるわけがない。病気が流行ればたちまちうつってしまう。都市への奉公というのは同時にそういう危険もはらんでいた。
 さらに、それとほぼ同数の者が、いったん西条村に帰っても、すぐ結婚や養子のために近隣の村へ行ってしまう。結局、出稼ぎ奉公先からとにかく西条村へ戻って「宗門改帳」に載った者は、二割強の八十七人にすぎない。

農村から奉公にでて、また農村に帰ってくるのは2割だそうだ。5割から6割の人間が農村から流出していて、そのうち2割しか戻ってこないとすると、農村に生まれた者は45%ほどは別の土地に行ってることになる。江戸時代は「鍛冶屋の息子は鍛冶屋」であり、移動の自由がなかったと言われているが、実際には、半分弱の人間が移動していたのである。

 さらにオランダ以外でも、中国の船が長崎へやってきて貿易をやっている。中国の船といってもなかにはインドシナからの商船もあった。それから薩摩藩琉球を通じて商品を外国へ輸出したり輸入したり、外国貿易をやっている。また、対馬藩対馬・朝鮮ルートで貿易をやっている。公式に認められたものだけでもこれだけある。そうすると、どうも「鎖国」というイメージは強すぎるというか、訂正しなければならないのではないかというふうになってきてい
る。
 多少脱線するが、私は、鎖国令が出てキリスト教が禁止されたということの裏に、じつは日本の中華世界秩序からの自立という側面があったのではないかと考えている。日本は、海を隔ててはいるが、中国のすぐ傍にあり、いわゆる中国文化圏の一員だった。そして、その中国(中華世界)は、自分たち(漢民族)こそ世界の中心にいて、その周辺にいるのは全部未開人だとし、彼らに北秋、東夷、南蛮、西戎などの蔑称をつけて、彼らを文明開化するのが自分たちの役割だというふうに考えていた。したがって、彼らに貢ぎ物をもってやって来させ、そうして朝貢に来た者にはそれ以上の土産を与え、中国でつくった暦を渡して使わせるということによって、中華世界をつくっていたのである。
 日本も、少なくとも室町時代まではよき中華世界秩序の一員だった。だから、足利将軍は明の皇帝からお前を日本国主にするといって任命されている。世界秩序の頂点に皇帝がいて、皇帝の下に国王がいるのであり、それを認めることはすなわち、自分が中国皇帝の下にいるということを認めることになるわけである。足利時代までは、潜在的であれ、そういう関係が続いていた。ただし日本は他の国と違って地続きではないから、中国と一歩距離を置いていたことは確かだったとしても。
 そうすると、この鎖国令というのは、ヨーロッパあるいはキリスト教を拒否することを楯にしながら、じつは中華世界秩序から抜け出して独立することを意味したのではないだろうか。さらに一歩進めていえば、日本を中心におく世界秩序をつくったことを意味している。(45-7)


鎖国を中華支配からの隔絶という解釈をしめしている。これは、確かに一理ある。日本は鎖国をして世界の潮流から取り残されたという解釈が一般に流通しているが、その解釈が間違っていることは確かだ。他に、金銀の交換比率が日本と他国では異なり、日本から金が大量に流出していたことを防ぐために鎖国が行われたという説もある。こちらも説得力がある。