井出草平の研究ノート

重回帰分析におけるBenjamini-Hochberg法

Benjamini-Hochberg法の重回帰での意義

重回帰分析においてBenjamini-Hochberg法(BH法)を適用する主な意義は、多重検定問題に対処することである。重回帰分析では複数の説明変数の係数に対して同時に仮説検定を行うため、偽陽性(第一種の過誤)が増加するリスクがある。BH法は偽発見率(FDR)を制御することで、この問題に対処する。

重回帰分析でBH法を使用する利点は以下の通りである:

  • 偽陽性の制御: 多数の変数を扱う際に、偶然による有意な結果の出現を抑制する。
  • Bonferroni法より検出力が高い: より多くの真の関連を検出できる可能性がある。
  • モデル選択の補助: 有意な変数の選択に役立つ可能性がある。

BH法を使用した場合と使用しない場合の主な違い

  • 有意と判断される変数の数: BH法を適用すると、通常、有意と判断される変数の数が減少することがある。これは偽陽性を制御する効果である。
  • p値の解釈: オリジナルのp値は個々の検定の有意性を示すが、BH法で調整したp値は全体の文脈での有意性を反映する。
  • 変数選択への影響: BH法の適用により、モデルに含める変数の選択が変わる可能性がある。これは、より保守的な変数選択につながる。
  • 結果の信頼性: BH法を適用することで、多重検定の問題に対処し、結果の信頼性が向上する。

重回帰分析をつくる

# 必要なライブラリのロード
library(AER)
library(stats)

# データのロード
data(CPS1985)

# データの概要を確認
summary(CPS1985)

# 回帰分析の実行
model <- lm(wage ~ education + experience + region + gender + union, data = CPS1985)

# 回帰係数とp値の取得
coef_summary <- summary(model)$coefficients

# p値の抽出(切片を除く)
p_values <- coef_summary[-1, "Pr(>|t|)"]

Benjamini-Hochberg法の適用

p_adjusted <- p.adjust(p_values, method = "BH")

# 結果の表示
results <- data.frame(
  Variable = rownames(coef_summary)[-1],
  Coefficient = coef_summary[-1, "Estimate"],
  Std_Error = coef_summary[-1, "Std. Error"],
  Original_P = p_values,
  Adjusted_P = p_adjusted,
  Significant_Original = p_values < 0.05,
  Significant_BH = p_adjusted < 0.05
)

print(results)

結果。

                 Variable Coefficient  Std_Error   Original_P   Adjusted_P Significant_Original Significant_BH
education       education   0.9130576 0.07907041 1.168831e-27 5.844153e-27                 TRUE           TRUE
experience     experience   0.1054496 0.01672143 6.046634e-10 1.511658e-09                 TRUE           TRUE
regionother   regionother   0.7852376 0.42667738 6.627722e-02 6.627722e-02                FALSE          FALSE
genderfemale genderfemale  -2.1699120 0.39028263 4.292549e-08 7.154248e-08                 TRUE           TRUE
unionyes         unionyes   1.3883889 0.51015930 6.713589e-03 8.391987e-03                 TRUE           TRUE

補正前と補正後のP値を比較した。

# 結果を比較しやすいようにソートして表示
results_sorted <- results[order(results$Original_P), ]

# P値の比較表を作成
comparison_table <- data.frame(
  Variable = results_sorted$Variable,
  Original_P = results_sorted$Original_P,
  Adjusted_P = results_sorted$Adjusted_P,
  Difference = results_sorted$Adjusted_P - results_sorted$Original_P,
  Original_Significant = results_sorted$Original_P < 0.05,
  BH_Significant = results_sorted$Adjusted_P < 0.05,
  Changed = results_sorted$Original_P < 0.05 & results_sorted$Adjusted_P >= 0.05
)

# 結果の表示
print(comparison_table)

大きくは変わらないようだ

      Variable   Original_P   Adjusted_P   Difference Original_Significant BH_Significant Changed
1    education 1.168831e-27 5.844153e-27 4.675323e-27                 TRUE           TRUE   FALSE
2   experience 6.046634e-10 1.511658e-09 9.069951e-10                 TRUE           TRUE   FALSE
3 genderfemale 4.292549e-08 7.154248e-08 2.861699e-08                 TRUE           TRUE   FALSE
4     unionyes 6.713589e-03 8.391987e-03 1.678397e-03                 TRUE           TRUE   FALSE
5  regionother 6.627722e-02 6.627722e-02 0.000000e+00                FALSE          FALSE   FALSE

有意性が変化した変数の数と最大の調整量を表示

# 有意性が変化した変数の数を表示
cat("\n有意性が変化した変数の数:", sum(comparison_table$Changed))

# 最大の調整量を表示
max_adjustment <- max(comparison_table$Difference)
cat("\n最大の調整量:", max_adjustment)

有意性が変化した変数の数: 0 最大の調整量: 0.001678397

子どもの発達に関する研究。スマホ育児と外遊びのメリット・デメリットとは?

wellulu.com

2歳までのスクリーンタイムが1日1時間を超えていた子どもは、4歳くらいの「コミュニケーション機能」が0.2SD※下がるという結果です。
「日常生活機能」や「社会性」も若干は下がるもののそこまで目立った差はありませんでした。

文献はこれかな?

cir.nii.ac.jp

シャルル・ルヌヴィエ評

Gunnによるシャルル・ルヌヴィエのレビューで個人的に気になった部分について、特に他の思想家との比較をまとめたものである。ルヌヴィエ自体に興味が湧くことはなかったものの、ざっくりとした理解はできた。
デュルケームが師と書き残しているように、ルヌヴィエの著作をデュルケームは熟読していたようではある。同時代性や当時の流行を今から知ることは難しいが、デュルケームがルヌヴィエのどのような部分に影響を受けたかという点については、Gunnによるレビューではよくわからなかった。


ルヌヴィエの思想は、カントの批判哲学を継承しつつも、独自の視点から発展させたものである。彼は「自由」と「人格」を中心に据えた思想を展開し、すべての知識や確信には意志の要素が関与していると主張した。彼の哲学は、個々の意志の断言が知識や信念の確立において重要な役割を果たすという点で、伝統的な理性中心の認識論とは異なる特徴を持つ。以下では、ルヌヴィエの思想と他の代表的な哲学的立場との比較を通じて、その独自性を明らかにする。

1. カントとの比較

ルヌヴィエはカントの影響を受けながらも、いくつかの重要な点で異なる立場を取った。カントは知識の成立において「純粋理性」と「カテゴリー」の役割を重視し、経験を超えた「物自体」については認識の限界を示すものとして捉えた。カントのアンチノミー論は、理性が無限や自由などの問題に直面する際に相反する命題を同時に支持することができるという理性の限界を示すものであった。これに対し、ルヌヴィエは物自体や無限数の存在を否定し、知識はあくまで意識に現れる表象に限られるべきと考えた。彼は、無限の概念を不合理で矛盾したものとみなし、カントが提示したアンチノミーは成立すべきではないと主張した。この点で、ルヌヴィエの立場はカントの批判哲学に対する一種の修正を試みたものである。

2. メーヌ・ド・ビランとの比較

ルヌヴィエの「意志」に対する強調は、メーヌ・ド・ビランの「Volo, ergo sum」(「我意志す、ゆえに我あり」)という立場と通じるところがある。ビランは、デカルトの「Cogito, ergo sum」(「我思う、ゆえに我あり」)が思考の存在確認には十分ではないとし、存在の確立には意志の行為が不可欠であると主張した。ルヌヴィエもまた、知識や信念は単なる知的な判断だけでなく、意志の働きに依存していると考えた。彼にとって、確実性は意志の断言によって初めて達成されるものであり、この点でビランの思想と共通する。ルヌヴィエは、思考する自己と存在する自己をつなぐものとして意志を見なし、意志の行為こそが自己の統合と確立に必要な「生きた火花」であるとした。

3. ヘーゲルとの比較

ヘーゲルは、カントのアンチノミーに対する解決策として弁証法を提案した。ヘーゲル弁証法は、対立する命題(テーゼとアンチテーゼ)をより高次の統合(ジンテーゼ)へと導くことで矛盾を超越しようとするものである。ヘーゲルの哲学では、矛盾や対立は発展の原動力として積極的に評価され、理性の自己展開を通じてすべての対立が統合される。この立場は、矛盾そのものが自己解決の可能性を内包していると見るものであり、ルヌヴィエの矛盾を回避するための無限の否定とは異なるアプローチである。ルヌヴィエは、無限や物自体を否定することで矛盾を回避しようとしたが、ヘーゲルはむしろ矛盾を受け入れ、それを超えていくための理性の働きを強調した。

4. プラグマティズムとの比較

ルヌヴィエの「意志が関与する知識や信念の確立」は、プラグマティズムの立場とも近い。プラグマティズムは、知識や信念の真理性をその実践的な有用性に基づいて評価する哲学であり、ウィリアム・ジェームズなどの哲学者によって発展された。プラグマティズムでは、信念は知識が実際の行動や結果において機能するかどうかによって正当化されると考えられる。ルヌヴィエも、知識や信念には感情や意志が伴うとし、それらが知識の成立にとって重要であるとした。ルヌヴィエの立場では、信念の確立は意志の決定と密接に関連しており、純粋に知的なプロセスとしてではなく、実践的な選択の結果として捉えられる。この点で、彼の思想はプラグマティストの立場と重なる部分がある。

5. 終末論とパーソナリズム

ルヌヴィエのパーソナリズムは、個々の人格や意識の尊厳を重視する立場であり、社会や倫理の問題を人格の価値を基準にして考えるべきだとする。この思想は、終末論的な要素も含んでおり、人格の価値は現世に限らず、未来や超越的な視点からも評価されるべきだとされる。これは、個人の人格が無限の可能性を持ち、物質的な制約を超えて自己実現を追求する理想を含んでいる。ルヌヴィエの終末論的な視点は、個々の人格が持つ価値を超越的に捉え、倫理的・社会的な実践の中でその価値を尊重しようとする点で、他の哲学的立場とは異なる独自の視点を提供している。

6. 現象学との比較

現象学は意識がどのように物事を経験するか、その現れ方を詳細に記述することを目指す哲学である。現象学は、意識の意図性(すべての意識は何かに向けられている)を強調し、現象が意識にどのように現れるかを探求する。このアプローチは、経験の質や主観的な視点を重視し、客観的な世界の存在を直接扱うのではなく、意識の中での現れ方に焦点を当てるものである。

ルヌヴィエの哲学と現象学は、いずれも意識に現れる現象を重要視する点で共通している。しかし、両者のアプローチには明確な違いがある。ルヌヴィエは、知識や信念は意志の行為によって確立されると主張し、意志が知識の成立において中心的な役割を果たすと考えた。一方、現象学は意識の意図性や現象の構造を記述することに専念し、意志の要素をそこまで強調しない。

また、ルヌヴィエは無限の概念や超越的な存在を否定し、認識は意識に現れる表象に限定されるべきだと考えた。これに対し、現象学は「現象そのものへ」というスローガンのもと、意識がいかに世界を経験するかの記述を通じて、物事の本質的な理解を目指す。現象学は、超越的な概念の存在を前提にするのではなく、意識の経験に忠実であろうとする点で、ルヌヴィエの厳密な実証主義的アプローチとは異なる。

このように、ルヌヴィエの意志の哲学は、意識の能動的な側面を強調し、確実性や信念が意志の決断によって支えられているとする一方で、現象学は意識の経験そのものの構造を解明しようとするアプローチを取る。その結果、ルヌヴィエは意志の重要性を強調することで独自の立場を確立しており、現象学とは異なる認識論的な視点を提供している。

7. アンチノミーと無限数についての比較

カントのアンチノミーは、理性が無限や自由などの問題に直面する際に相反する命題を同時に支持することができるという理性の限界を示すものである。カントは、無限を扱う際に発生する論理的な対立をアンチノミーとして整理し、理性が自然に導かれる矛盾を解明した。この問題は、無限の概念をどのように認識するかに深く関わっている。

ルヌヴィエは、カントのアンチノミーに対して、無限数の存在そのものを否定することで応じた。彼は、無限数は矛盾していると考え、数は有限でなければならないと主張した。ルヌヴィエは、無限の概念を取り除くことでアンチノミーの発生を避けようとしたが、このアプローチは現代の数学的理解とは異なる。現代数学では、無限数は厳密に定義され、カントール集合論などを通じて数学的整合性を持って扱われる。したがって、ルヌヴィエの無限に対する否定は、その時代的背景や実証主義的な枠組みに基づくものであり、アンチノミーに対する完全な解決策ではないとされる。

現象学においては、無限やアンチノミーは意識の経験としてどのように現れるかが問題となる。現象学は、これらの対立を単に理性的な矛盾としてではなく、意識の中での現象の現れ方として捉え、無限がどのように意識に現れるかを分析する。現象学のアプローチでは、無限は意識の中での一つの現象として扱われ、必ずしも論理的な矛盾を解決しようとするものではない。したがって、ルヌヴィエが無限を否定しようとするのとは異なり、現象学は無限を経験の一部として受け入れ、それが意識にどのように現れるかを探求する。

このように、ルヌヴィエのアンチノミーに対する立場は無限の否定を通じて矛盾を回避しようとするものだが、現象学は無限やアンチノミーを意識の経験の一部として捉え、その現れ方を重視するアプローチを取る。両者の違いは、無限に対する態度の相違だけでなく、理性や意識の役割をどのように見るかという哲学的視点の違いを反映している。


journals.sagepub.com 本稿は、デュルケムの社会学的方法論における「規準」とシャルル・ルヌヴィエの『論理学』との関係について論じたものである。デュルケムの著書の各章が、ルヌヴィエの論理学的・科学的体系の特徴を特定の方法で利用していることを明らかにしている。ルヌヴィエの『論理学』の分析によって、デュルケムの思想の謎の一部は解明され、完全に説明することはできなくとも、その謎の一部は解明される。

www.degruyter.com 本稿では、デュールケムを新カント派的社会思想家、そして感情伝染論の源として紹介する。『宗教生活の原初形態』は、デュールケムの新カント主義の典型的な事例として検証される。まず、フランスの新カント主義の知的背景と、その代表的人物であるCharles Renouvier、Émile Boutroux、Octave Hamelinについて考察する。彼らは、デュールケムの形成期に大きな影響を与えた人物である。デュルケームの『宗教生活の原初形態』における新カント主義は、Emin LaskとHans Kelsenの法哲学における新カント主義と対比される。デュルケームの歪曲と感情伝染の概念が、新カント主義への彼の主要な貢献であるという主張である。

cir.nii.ac.jp

ルヌヴィエ:その人と作品(II)

www.cambridge.org

このような記事の枠内でルヌヴィエの哲学の主な特徴を示す以上のことをするのは難しい。もちろん、彼の著作に含まれる膨大な思想や議論の詳細を論じることは不可能である。1854年以前の彼の思想の中で最も重要な作品は、百科全書派の雑誌『Encyclopedic Nouvelle』に書かれた「Philosophie」に関する論文である。この論文は、いくつかの点において、彼の思想が新批判主義の方向に発展していることを示している。『Essais de Critique』と『Science de la Morale』は、彼の全盛期の作品であり、最も重要な著作である。このうち最初の2つの論文と『Ethics』には、ルヌヴィエの教義の本質が含まれている。晩年の著作『人格主義』は、彼の最も特徴的な業績であるが、中間期の著作は、間違いなく彼の哲学への最も意義深く、最も重要な貢献である。したがって、我々は彼の論理学と心理学における教義について、いくつかの説明を試みる。

知識の問題

ルヌヴィエは、著書『Analytical History of Literature』の最終巻で自身の哲学について説明し、その目的を『Essais de Critique』の要約としてまとめている。

  1. ヒュームの現象論を、ヒュームの補足として理性の法則を回復し、カント哲学から不確定な物質と不可知の「物自体」を排除することで、カントの批判哲学と調和させること。
  2. 量としての実際の無限の可能性を明確に否定し、無限の教義の反駁の結果を明らかにした。現象には最初の始まりが必要であり、したがって創造も必要であることを確立した。ただし、創造以前の神の本質は人間の知識に属するものではない。
  3. 無限の分割可能性という観点から見た、延長、物質、運動の概念に関する新たな分析による観念論的方法の確認。
  4. 因果律の問題に関して、ヒュームの経験論とカントのアプリオリ教義を修正すること。つまり、ヒュームに対しては、因果律を精神と世界の法則として認識することであり、その基礎と典型は、観念を移動させ、保持し、決定する意志的行為にある。カントに対しては、現象の世界における自由を倫理の基礎として認識することである。「因果関係を自然法の領域から排除すること。それは、お互いの機能として予め定められている現象間の必然的なつながりに誤って適用されている。動物における内的現象の自発的行動との関連において、因果関係を正当な概念として保持すること。「カントの信念である、先験的に作用する純粋理性の形而上学と倫理を放棄すること。すべての意識的行為における感情の認識により、信念をその適切な領域に再確立すること。」

『Essais』のページをめくる読者は、ヒュームの実証主義やカントの批判哲学を想起させる雰囲気に身を置くことになるが、その違いはあまりにも深遠かつ独創的であり、ルヌヴィエの「折衷主義」に関するFouilleeの「意見の一致」を正当化することはできない。彼は折衷主義と実証主義の両方の敵であることを示したが、Cousinの思想の理想主義的な傾向については、多くの批判的な留保を付けながらも承認する用意があった。また、コントがすべての我々の知識の相対性について強調したことも好んだ。彼はヒュームの経験論の多くを承認したが、カントがヒュームに与えた回答には同意しなかった。しかしカントの哲学は、いわばヒュームの後にルヌヴィエが着手したものであり、彼の倫理的な教義はカントに多くを負っている。我々は経験論、現象論、批判、観念論の領域に身を置いている。またルヌヴィエの強調する多元論、経験論、信念と確信の教義は、ジェイムズの哲学と共通点がある。しかし彼はプラグマティストではなかった。

ルヌヴィエの実証主義は、大きな問題から懐疑的な態度で目を背けるようなものではなかった。彼は独自の視点からそれらの問題を攻撃し、カントが行ったように、それらが哲学にとって根本的なものであると信じていた。1854年に書いた『エセー』の序文で、彼は次のように述べている。「私は率直に告白しよう。私はカントの仕事を継承しており、私の目的はフランスで批判の仕事を真剣に追求することである。」 彼はヒュームの懐疑論的な立場に決して満足することはなかったが、高く評価していた。実際、ルヌヴィエの友人Pillonは、ヒュームの論文の共同翻訳の序文で、「ヒュームは批判哲学の真の始祖である」と述べ、「ルヌヴィエ氏が創始した現代の批判哲学は、カントと同様にヒュームと密接な関係がある。彼は、ヒュームとカントを和解させた。ヒュームの限定的すぎる心理学に、カテゴリーや精神法則を明確に導入し、それらの固有の名称で、かつ、それらの帰結をすべて含めて説明することで、ヒュームとカントの研究を完成させ、修正した。同時に、カントの哲学から、カント自身が払拭できなかった実体の教義に基づく形而上学の悪しき芽を根絶した。... ヒュームには「法則」という概念が欠けている。カントには「実体」という概念が余計に残っている。それは「Noumena (Ding-an-sich)」という名で残っている。ヒュームの現象論とカントのアプリオリな教えを統合する必要があった。これがルヌヴィエの成し遂げた仕事である。

彼は哲学や宗教の教義としての実証主義を容赦なく攻撃した。彼は実証主義を「野心的な思い上がり」とみなしていた。しかし、彼はコントから1つの主要な原則を受け入れていた。「私はここに宣言する」(『試論』の序文で彼はこう述べている)「すなわち、知識を現象の法則に還元するという実証主義学派の基本原則を私は受け入れる。この原則(私は常にこれを用いている)を確立するために、意識そのものを分析することに、この最初のエッセイの大部分を費やしている。そして、これはカントの方法に適合していると私は信じている。ただし、形而上学の伝統に惑わされたその哲学者は、それを明確に区別したり、その含意に従ったりすることはなかった。」

エッセイは知識の根本的な問題の考察から始まり、ルヌヴィエは論理学をこの問題の4つの側面に当てている。まず、現象を意識の要素、経験の即時データとして捉え、一般的に表現することから取り掛かる。 そこから現象の調査へと移る。 3番目で最も重要なセクションでは、意識または現象の基本法則を提示し分析し、独自のカテゴリーのリスト(カントのものとかなり異なる)を示し、知識の限界を検証し、すべての現象の唯一の統合の可能性について非常に批判的に議論して結論づけている。

すべての知識は表象である。表象を出発点とすることで、ルヌヴィエは確実で疑いの余地のない地盤に立っていると感じている。我々は「もの」についての知識を持っていると主張できるかもしれない。そのような主張に対してルヌヴィエは完全に同意するだろう。なぜなら、彼が主張する「もの」は、意識のデータとして以外には我々にとって意味も重要性も持たず、我々は意識の状態から切り離してそれらを定義しようとすることはできないからだ。「もの」は表象として意識に与えられ、それが提示される場合にのみ、私たちにとって「もの」となる。「もの」と「表象」(あるいは、好みに応じて「現象」)は同義語であり、同一である。すべての知識には主語と目的語の関係が関わっている。知る者と知られる者との間には、そうした関係がなければならない。現象、あるいは事物は意識との関係において存在しており、それ以外に存在の仕方はない。主語と目的語の一般的な関係に当てはまらないものが我々に提示されることはありえない。我々は現象についてのみ知識を持っている。カント的な物自体(Noumenon)は無意味なフェティッシュである。

しかし、現象は一定の順序で、恒久的な型や性質をもって我々に提示されていることがわかる。この恒久性はそれ自体が現象であり、そう言いたければ一般的な現象であるが、現象を超えたものではない。このような一般的な現象や順序に、我々は「Law(法則)」という名称を与える。法則とは、単に現象の一般的な分類であり、現象間の関係性を表現するものである(この場合、それはしばしば「function(関数)」という名称で呼ばれる)。知識の問題は、彼に2つの密接に関連する問いについて考察することを促した。

  1. 表現のデータの分割と分類の原則として何が考えられるか? すなわち、どのような基準に基づいてカテゴリーの体系を構築できるか?
  2. 確実性とは何か? 批評それ自体の真実性、あるいは我々の分析の正確さや我々の総合の完成度を判断する基準は何か?

近代においてカントは、新しい範疇の提唱者として著名であるが、残念ながら彼は学識者の伝統から自らを解放することはできなかった。彼の有名な『カテゴリーの演繹』は、形式論理学で用いられる用語に基づいており、彼の仕事は、このことが原因で、かなりの部分が台無しになり、機械的で不自然なトーンが与えられてしまった。もし彼が『relation』カテゴリーに、他のすべてのカテゴリーの鍵となるものを見出していたならば、このようなことは起こらなかっただろう。 カントはまた、愚かにも、彼のカテゴリーの正当性を証明し、彼が列挙したもの以外にはあり得ないことを示そうとした。彼の根拠は判断の可能な形態であり、結果は恣意的で人為的なものとなった。 空間と時間を感性における原始的な形態とみなすという彼の独特な見解は、それらをカテゴリーのリストから除外することとなった。 しかし、ここで真の誤りは、彼の意識を感性、理解、理性の3つに分割したことにある。 彼はこうして、回避できたかもしれない抽象的な雰囲気をこれらのものに与えた。感性と知性の区別は、最終性と人格のカテゴリーの研究において十分に示されるとルヌヴィエは指摘しており、それゆえ、カテゴリーは我々の経験全体を包括する法則をより完璧に表している。人格はカントの体系ではカテゴリーではなく、彼は知性の問題に関連して意志の力を軽視し、それを(意志)を実践理性に限定した。ルヌヴィエは、確実性に関する彼の考察で見るように、理論的理性の作用から意志を隔離することに賛成していない。

しかし、彼の体系には重大な欠陥があるにもかかわらず、ルヌヴィエが「最後の純粋哲学者」と呼んだカントは、カテゴリーが果たす役割を明確に述べている。カテゴリーとは、現象の不可分の根本法則であり、人間の経験が自然に当てはまる型である。新批評が修正しようとした批判哲学の欠陥のひとつは、カント(およびその後継者であるヘーゲル)が、彼自身が戦ったにもかかわらず、自身の思考を大きく支配した独断的合理主義に目を奪われ、これらの法則、規則、カテゴリーに、現象を超越した絶対的な現実性を付与してしまったことである。新批評にとって、存在するのは現象のみである。

ルヌヴィエは、彼の根本的な教義またはテーゼである「すべては相対的である」という考えから出発し、何らかの関係によって、または何らかの関係の中でしか、何も知ることができないため、すべての最も一般的な法則は関係そのものであることが明らかになる、と指摘している。したがって、関係は、他のすべてを包含する、最初の、そして最も基本的なカテゴリーである。次に、数、位置、連続、質が続く。これらに、単純なものから複合的なものへ、抽象的なものから具体的なものへと進み、経験の全データから最も簡単に抽出できるものから、より多くの、あるいはより少ない程度にすべての経験と結びついているものへと進み、最終的なカテゴリーでそれらすべてが完結する、人格という重要なカテゴリーが続く。この最後のカテゴリーは、最初のカテゴリーに劣らず、ルノヴィエの哲学において非常に重要な意味を持つ。彼が最高カテゴリーとして人格に与えた重要性は、彼の思想全体に色を添えている。

ルヌヴィエがこのように定めたカテゴリーの表は、各段階において相互に排他的な2つの用語を統合し、テーゼとアンチテーゼの提示によって一種のアンチノミーを形成している。これは、カントが定式化したものと同様である。例えば、彼は「関係」という第一範疇を、「区別」と「同一化」の統合によって導き出し、それは「決定」を構成する。「量」または「数」の範疇は、「全体」という形における「1つ」と「多数」の統合である。これらの抽象概念に惑わされやすいが、ルヌヴィエは「テーゼとアンチテーゼは、互いに切り離されたり、統合されたりしない限り、意味を持たない」と注意深く警告している。厳密に「1つ」であるものはなく、また、一方で、統一性のない多様性でもないが、各事象は全体として表現することができる。

カテゴリーは相互に排他的な用語の統合に基づいているが、これらの用語は互いに離れてはそれ自体に現実性を持たないという事実により、カテゴリーが矛盾を生み出すことはない。

知識の限界

カテゴリのリストを入手した私たちは、すぐにそれらを使って世界を実験してみたくなる。それらは宇宙を理解する手助けとなるのだろうか? もしそれらが現象のすべての基本法則を包含しているのなら、世界全体に適用したときに、すべての現象のユニークで普遍的な統合が得られると期待するのは当然ではないだろうか? この疑問について、ルヌヴィエは『Logic』の結論で論じている。カントの弟子である読者は、ルヌヴィエが体系的な哲学者の行く手を阻む「ドラゴン(アンチノミー)」と遭遇するのを待ち構えているだろう。これについてはすでにいくつかの言及がなされており、カテゴリー論自体が相互に排他的な2つの要素の統合であることが示されている。ルヌヴィエは、統合は要素よりも現実的であり、分離や抽象化された要素は無意味であると主張した。

ルヌヴィエは、彼が定義したカテゴリーを世界(または宇宙)に適用する議論を展開するにあたり、冒頭で、世界そのものが総合であることを慎重に指摘している。彼は、世界を、ある意識が経験しうる現象の総合と定義している。それは、客観的、主観的、現在、過去、あるいは未来さえも含む、表象を構成するあらゆる関係の総体であり、その総体は、その外側、前、後として区別できるものは何もないほど包括的なものである。彼は、この広大な総合に「宇宙」または「オールビーイング(全存在)」という名称を与えた。この名称には、一般的に「世界」、「宇宙」、「自然」、あるいはより威厳のある名称「神」(スピノザが使用)として理解されているものすべてが含まれる。カントによれば、私たちは理性の力によってこの全体を考えるが、ルヌヴィエは、この理性を「普遍性の法則」と呼ぶ。レヌヴィエは、彼のカテゴリーの総合において結びつけられた用語は、その総合から独立した存在ではないことを示すことで、カテゴリー体系自体に矛盾が生じることを回避している。カテゴリーそのものを全体に適用することには、より深刻な問題がある。

例えば、「関係」のカテゴリーについて考えてみよう。定義された総合体である宇宙は「関係」と呼ぶことができるが、宇宙それ自体は他の何ものとも関係していないことに注意しなければならない。なぜなら、宇宙の外側や上位に位置するものは何もないからだ。宇宙それ自体が、それ以外の何ものにも左右されない、あらゆる関係の壮大な総体なのである。さて、無条件のものについては、我々は経験を持たない。我々にとってのものはすべて相対的なものであり、他のものとの関係によって条件付けられている。したがって、宇宙はカテゴリーから外れる。なぜなら、それは我々の経験から外れるからだ。経験可能な対象としての現象の総体は、その経験を上回る。

さらに、「数」のカテゴリーに関しては、世界は全体であり、したがって、他の何かと比較したり、それ以外の何かによって測定したりすることはできない。しかし、定義された世界を自分自身に表現するとき、私たちはそれを数値で表現できる総合的なものと考える。つまり、多くの生物、多くの星々、この数は私たちには未知であり、実際には想像を絶するほど膨大であるが。すべてのカテゴリーを考慮すると、同じような困難に直面する。全体は我々の経験の外にあるため、全体には適用できない。「宇宙は未確定なまま残る。そして、その未確定さゆえに、我々は宇宙を無限の多様性、無限の空間、無限の時間、無限の種として、あるいは言い換えれば、無数、無限、持続性なし、質なし、起源、原因、終結、意識なしとして捉えることを余儀なくされる。」

しかし、別の方法で我々の主張を再構築しようと努力する中で、我々は、世界をあらゆる関係、あらゆる法則、あらゆる機能の総合体として定義したことを思い出す。世界は全体であり、複合的な性質を持つ全体は、終わりなく部分から形成されることはない。さらに、あらゆる現象は、それがどんなに大きなものであっても、いくつかの数、つまり有限の数で表現することができる。無限の数は無意味だからだ。世界は、現象の連続であり、変化し、動いている。しかし、その連続がどんなに広大であっても、最初と最後の要素を持たなければならない。何万もの画像を持つ最長の映画フィルムにも、最初と最後の画像がある。原因と結果の連続は無限ではなく、最終的な目標や目的を達成することで表現される。「創造のすべてが向かう先」であり、進歩における最終的な結果は、人格の到達と発展である。

これらの考察は明らかに前者の考察と正反対のものであるため、「一見して解決不能な矛盾の体系」が提示される。(これらの矛盾は、すでに知識として確立された総合の分解から生じるものではない。)これらは、どちらか一方を選択(オプター)しなければならない、真の命題のペアである。もしその基礎が同様に揺るぎないものであるならば、矛盾の原理は滅び、それとともに科学そのものも滅びる。

ルヌヴィエは、偉大な先人と同様に、自らに背反に直面していることに気づいた。カテゴリー体系自体に内在する一見論理的な矛盾と格闘したように、彼はこれらの宇宙論的矛盾というゴルディアスの結び目を解こうと試みた。無限という主張に対して、彼は空間と時間に制限された有限の宇宙を確立した。無限、絶対、無条件は、それ自体として同じ範疇に属し、無意味で誤解を招く用語として、人間の想像力の産物であるキメラとして退けられるべきである。したがって、「真の矛盾は存在しない」のである。ルヌヴィエの立場は、対立する概念は両立させることはできず、どちらか一方を否定しなければならないというものである。ルヌヴィエは、矛盾の法則を、思考や論理の原則の基礎であるのと同様に、自身の哲学の基礎とした。

彼は、カントの著作の非常に興味深い部分である「アンチノミー」に、この原理を厳密に適用した。彼は、アンチノミーは決して定式化されるべきではなかったと考えていた。彼がこの主張の根拠として挙げた理由は2つあり、それは矛盾の原理と数の法則である。ルヌヴィエは数学者が「無限数」と呼ぶものを信じていなかった。彼は、それは不合理で矛盾した概念であると考えていた。なぜなら、数が数であるためには、無限ではないからだ。「任意の割り当て可能な数よりも大きな数は、まったくの数ではない。」

「抽象的な方法で、割り当てられた数字よりも大きな数字を常に提示することは可能である。しかし、この無限の可能性は、現象の数値的順序に制限がないことをまったく証明していない。」 「なぜその数字なのか?」と問うことは、「なぜ現象なのか、なぜ世界が存在するのか?」という問いと同等の問いである。

これをカントのアンチノミー、例えば「空間は無限か有限か?世界には始まりがあったのか?」といった問いに適用することは興味深い。なぜなら、アレクサンダーがゴルディアスの結び目を解いたように、それらを扱うからだ。空間が無限であること、あるいは世界に始まりがなかったことを認めることは、「無限の数」を認めることになり、矛盾であり、不合理である。したがって、そのような数は完全なフィクションであるため、論理的には、空間は有限であり、世界には始まりがあり、原因の連鎖には最初の要素があるという結論に至らざるを得ない。この結論は、物事の中心に自由があることを意味する。

意識との関連でしか思考できないため、人格を離れて宇宙を考えることはできない。したがって、宇宙に関する知識、哲学、信念は「個人」の構築物である。それらは主観的で人格主義的である必要はない。なぜなら、それらは広義の人格、つまり他の人々とも共有される意味での人格を指しているからだ。これは、知識の確実性という問題にとって重要な帰結であり、ルヌヴィエはプラグマティストの立場と一定の共通点を持っている。

彼の確実性に関する議論は、自由の問題に対する彼の考えと密接に関連しているが、ここでルヌヴィエの『信念と知識』に対する姿勢について触れておきたい。この問題については、彼の友人ジュール・ルケーの研究が助けとなった。ルヌヴィエは、確実性の問題にアプローチするには、その反対である疑いを検討することが望ましいと考える。第2のエッサイの有名な一節で、彼は「我々が疑わない状況」について述べている。すなわち、「我々が『見る』とき、『知る』とき、『信じる』とき」である。我々は間違いを犯しやすい(『見る』ことさえも『信じる』ことではなく、我々は『見る』ことについてさえも頻繁に考えを変える)ため、信念は常に伴うように見える。より正確に言えば、「我々は『見る』ことを信じ、『知る』ことを信じる」のである。信念とは、動機が適切であると示される、ある特定の断言に関わる意識の状態である。確信は、反対の断言の可能性が完全に心によって拒絶されたときに生じる。したがって、確信は信念の一種として現れる。ルヌヴィエは、すべての知識には意志の断言が関わっていると主張する。「意識が反射的なあらゆる断言は、意識の中で断言するという決定に従属している。」 我々の知識、確信、信念、それを何と呼ぼうとも、それは純粋に知的ではなく、感情、とりわけ意志の要素を含む構築物である。ルヌヴィエはここでプラグマティストの立場に近づくだけでなく、Maine de Biranが想定した意志に対する態度を想起させる。Biranはデカルトの公式に代わるものとして「Volo, ergo sum.我意志す、ゆえに我あり」」を提案していた「Cogito, ergo sum我思う、ゆえに我あり」の不十分さについては、Lequierが指摘している。

もし、デカルトの普遍的な疑いから、信念や確信に到達しようとするのであれば、信念を生み出す意志に頼らなければならない。なぜなら、私たちには証拠もこれまでの真理も存在しないからだ。「Cogito, ergo sum」は、デカルトが主張したように、私たちに起点を与えてはくれない。なぜなら、「cogito」から「sum」への適切な順序はないからだ。ここでは、単に「我思う」と「我思うもの」という2つの自己があるだけである。この2つの自己を1つの完全な自己へと統合する架け橋となる生きた火花が必要であり、それは「我意志」すなわち自由意志の行為に見られる。この自由意志の行為は、思考する自己と対象となる自己を総合判断によって統合することで、自己の存在を肯定する。

確信を主張するには、人間性の3つの偉大な機能の組み合わせが必要である。私たちにとって意味のある確信、つまり人間性から切り離された単なる抽象概念や幻想ではない確信は、知性、感情、意志という3つの要素がすべて作用した結果である。ルヌヴィエは、この点を強く主張している。そして、この主張は、この思想家が極めて論理的で厳格な姿勢から予想されるよりも幅広い立場を取っていることを示している。純粋に知的な産物ではなく、感情と意志の要素はあらゆる判断に関与しており、信念の心理学において、確信と称される意識状態の構築においてそれらが果たす役割は見過ごすことができない。「私は拒否する」とルヌヴィエはLequierの言葉を引用して言う。「私のものではない知識に従うことを。私は、私が著者である確実性を認める。」「premiere verite」は、自由で人格に満ちた信仰の行為である。哲学であれ科学であれ、確実性は最終的には自由と自由の意識に依拠する。

ここで注意すべき点がある。ルヌヴィエは、知識の客観性を過小評価し、それを精神による発見ではなく精神の産物とする傾向がある。

自由

『Essais de Critique gdnerale』の第2作は、『TraiU de Psychologie rationnelle d'apres les Principes du Criticisme』というタイトルである。この著作は、より適切に「人間とその信念の研究」と表現されるべきかもしれない。ルヌヴィエは、心理学の教科書で通常見られる問題の多くを論じた上で、自由意志を持つ人間の問題を取り上げ、自由の問題から確実性の問題へと論を進め、最後に人間の神と不死に対する信念について論じている。この論文全体、特に第2巻は、ルヌヴィエの思想を研究する者にとって極めて重要であり、ルヌヴィエの思想が最もよく表れている。

この論文は『論理学の第一論文』と密接に関連している。そのことは、ルヌヴィエが『第一論文』で定式化されたカテゴリーのリストに特に言及しながら、人間とその本質について論じている最初の部分を読めばすぐにわかる。

人間はあらゆるカテゴリーの交差点である。人間の本質によって、人間が知っていること、あるいは知ることができることをすべて包含し、それらは人間の性質を構成し、人間の中には最高のカテゴリーが存在する。人格、すなわち、それらすべてが最高潮に達する。人格には因果関係と最終目的(目的)が結びついている。「したがって、人間を原因という観点から見ると、自己と自己の行動を意識する原因があり、それは意志である。人間は意志である。目的やゴールに向かって努力する人間という観点から見ると、情熱となる。人間は情熱である。意識の重複によって逸脱したかのように見える人間のさまざまな機能について考えると、理解と理性となる。人間は知性である。」1 人間は、あらゆるカテゴリーの観点から捉えることができるが、それらすべてを包含している。人間または人間性とは、「知識に属するすべての機能の機能」である。これは、第一論文の記述と並列して考えることができる。

ルヌヴィエは自由の擁護者として著名である。私たちはすでに、彼が人格というカテゴリーに置く重要性を確認している。彼にとって人格とは、自己を認識する意識、自由で合理的な調和、つまり、具現化した自由を意味する。

厳密に実証的な観点から、ルヌヴィエは自由を事実として証明することは不可能だと考えている。しかし、彼はこの問題に重要な影響を与える心理学的および道徳的性格の様々な考察を、強い真剣さをもって我々の前に提示している。この問題は、我々の行動だけでなく、我々の知識にも関わるものであると彼は主張している。この点を明確に示すために、ルヌヴィエは友人のJules Lequierの理性の自律性、あるいは理性的意志の概念に関するいくつかの考えを展開する。このようにして、彼は疑いや批判自体が自由の証であることを示し、私たちは真理の概念を自由に形成している、あるいは少なくともそれは外部の権威によって押し付けられたものではなく、自由な思考の産物であると主張する。

ルヌヴィエが「Vertige Mental(精神のめまい)」と呼ぶものを考慮すると、この問題についてより深く理解できる。これは、個人の意識の本質をなす理性的な調和や自己所有の乱れによる精神病理学的状態である。この状態は、幻覚と誤りによって特徴づけられる。これは、自己を完全に把握し、理性的に意志を行使する自己意識的で思慮深い人格とは正反対の極である。ルヌヴィエは、この2つの極端な状態の間には、意志の果たす役割が小さく、あるいは無視できるような「精神のめまい」の段階が多数存在し、私たちは習慣や傾向の犠牲者になっていることを示している。では、自由の余地はあるのだろうか? ルヌヴィエは、私たちの自由は、習慣、情熱、あるいは想像力によって駆り立てられる行動を抑制する際に、必ず現れると主張している。私たちの自由は、熟考の産物である。私たちは自由になる権利があり、より高次の動機に従って自らを決定する権利がある。この力はまさにパーソナリティが自己主張するものであり、習慣の生き物である私たち人間の本質と矛盾するものではない。私たちは新たな出発を切り開く力を備えているのだ。ルヌヴィエの厳格な連続性への不信は、ここでも明白である。私たちは人格そのものに創造の自由を認め、行動を説明するために原因を無限に遡ろうとしてはならない。連続する無限の和のようなものは存在しない。人格がそのイニシアチブを主張する、つまり新しい連続の開始の力、つまり自由を主張する意識的に意図された行為の遂行に、無限の連続する原因が影響を与えるようなことはありえない。

こうした心理学的考察を踏まえた上で、ルヌヴィエは、自由の本質を明らかにする上で同様に重要であると彼が考える道徳的な性質について、我々の注意を喚起する。この問題の本質を正しく理解するためには、「我々は実践的な理性に目を向ける必要がある。我々が必要としているのは、自由の道徳的な肯定である。実際、ルヌヴィエが主張するように、他のいかなる種類の肯定も、このことを前提としている。実践的な理由は、自らの基盤と、あらゆる真の理性の基盤を確立しなければならない。なぜなら、理性は自らに対して分裂するものではないからだ。理性は人間から離れたものではなく、人間そのものである。そして人間は、実践的、すなわち行動的であること以外にはありえないのだ。」 この観点から考えると、私たちの判断の法廷に提示されるのは、自由の事例、自由に対する事例、必然性の事例、そして必然性に対する事例の4つである。

Jules Lequierが提示したジレンマに簡潔にまとめられている。4つの可能性がある。

  1. 必然的に、必然性を肯定する。
  2. 自由意志による必然性を肯定する。
  3. 自由を必然的に肯定する。
  4. 自由を自由に肯定する。

これらの可能性を検討すると、必然性を肯定することは、必然的に、その矛盾である自由を否定することになり、同様に必要であることがわかる。自由意志で必然性を肯定しても、状況は改善しない。なぜなら、肯定されるのはやはり必然性だからだ。自由意志を必然的に肯定すれば、少しは改善するが、それでも必然性が作用していることに変わりはない(ルヌヴィエは、これが道徳の一定の基盤を与えると指摘している)。しかし、自由意志を自由に肯定することは、道徳だけでなく、知識や真理の探求の基盤にもなる。実際、私たちは「必然性か自由のどちらかの真実を認め、そのどちらか一方を選ぶことを強いられる」。必然性を肯定することは矛盾を伴う。なぜなら、自由を肯定する多くの人格が存在し、決定論者が正しいのであれば、彼らは必然的にそうするからだ。一方、自由の肯定にはそのような不条理はない。

ルヌヴィエが論理的・道徳的な考察を重ねた末に導き出した結論は、まさにこれである。彼は、決定論への信仰を覆し、自由を擁護するために、両者を組み合わせた。自由は、彼の考えでは、多元的で一元論的ではない宇宙そのもの、そして、科学(あるいは科学群)でさえも克服できない現実の始まりや不連続性を示す、人格の本質的な属性である。

科学と哲学

ルヌヴィエは著書『Histoire et Solution des Problemes me'taphysiques』で実証主義を検証し、その初期の考えは誤りであると指摘している。すなわち、哲学は科学の集合によって構成できるという考えである。 このような集合は体系を構成しないと彼は主張する。各科学にはそれぞれ独自の前提条件と独自のデータがあり、思考や知識の全体的な統一としての科学は存在しない。彼は同時に、科学の段階が最終的かつ最高の進歩であると主張する実証主義者の冷静な思い込みも攻撃している。ルヌヴィエは、この不当な独断論と最終的なものという態度に非常に苛立っている。

彼の『第二論文』の重要なセクションである『Psychologie rationnelle』では、科学の分類について論じている。ルヌヴィエは、科学をその確実性の度合いに従って分類しようとする試みは不可能であると指摘している。科学はすべて、その原則に忠実である限り、等しく確実性を示すよう努めている。ルヌヴィエは、ある種の現象の調査、事実と法則の観察、仮説の提示に忠実であることを意味していると示している。彼は論理学と物理学の間に一線を画している。彼は、この区分はデータの性質による区分であるだけでなく、方法による区分でもあると主張している。別の区分に従うと、有機体や生物を扱う科学と、そうでない科学の間に一線を画すことができる。

ルヌヴィエの線は、この点において、純粋に想像上の線ではないことを覚えておく必要がある。それは現実の線であり、現実のギャップである。彼にとって、宇宙には現実の不連続性がある。普遍的な説明、硬直した統一性と連続性というテーヌの教義は、ルヌヴィエにとっては忌まわしいものであり、「C'est la mathematisation a l'outrance(行き過ぎた数学化)」である。これは、彼が「la synthese totale(トータル・シンセシス)」の考察に費やしたページに最も顕著に表れている。

彼の著書『Traite de Logique(論理学論)』の重要なセクション(『Essai de Critique gindrale(批判総論)』の最初の部分)では、あらゆる現象の総合的な統合という問題が扱われている。ルヌヴィエは、この考え方は正当化できないものであり、実際には不可能であると主張している。科学の一般的な統合、組織化、または階層化は、物事や物事のグループ間に存在する現実の不連続性を無視できるような心だけが抱く、根拠のない希望であり、幻想である。彼は、そこには絶対と無限の偶像崇拝と汎神論の誘惑が潜んでおり、彼はそれに対して「人格主義(Personnalisme)」を対置している。彼は科学者たちに、人格こそがすべての知識に関連する偉大な要因であり、すべての知識は相対的なものであることを思い出させる。法則は法則であるが、その永続性を保証するものは法則ではない。ルヌヴィエは、現象がなぜ止まらないのかを説明するのは、なぜ始まったのかを説明することよりも容易ではないと主張する。確かに法則は存在するが、「それを肯定する意識的な人格から離れては存在しない」。科学者たちの自信に満ちた独断的な態度をさらに攻撃し、ルヌヴィエは、すべての命題を証明することは不可能であることを彼らに思い出させ、「帰納法と科学」という重要な論文で、帰納法には常に一定の「信仰」が含まれていることを指摘している。これは特異な神秘的なものではなく、人間の人格のすべての興味深い行為を彩る事実であると彼は述べている。彼は、すべての推測には疑いや不確実性の一定の係数が伴うため、真に合理的な信念となる、という点でCournotに近づく。Cournotと同様に、ルヌヴィエは自然界と道徳の世界における仮説に関連して、類似性と確率の重要性を認識している。要するに、彼は自由の問題を重要視している。

ルヌヴィエは、コントの科学の分類または「階層」を、不正確で悪意のあるものとして攻撃した。それは、方法やデータのいかなる区別にも基づいていないと彼は主張する。科学が、互いに連続的に暗示し合う順序で、または「実証的」に構成されるようになった順序で、コントによって配列されているというのは真実ではない。

彼は科学者に対して、さまざまな現象を暫定的に調整する上で必要な作業方法として、仮説の構築を正当化している。しかし、ルヌヴィエは、科学における多くの仮説や帰納法は、厳密な論理の観点からは正当化できないと指摘している。しかし、彼の主な反対意見は、これらの仮説や帰納法が、独断的で限界を超えた科学によって、確実なものとして頻繁に提示されていることである。

ルヌヴィエは、科学は絶対的な知識ではなく、相対的な理解を与えるものだと主張する。相対性理論と数法則の応用という観点から、科学者が採用する多くの姿勢を批判している。絶対的なものや無限のものに似たものには何であれ反対し、その原因についての見解はこれに基づいている。無限後退という考えを軽蔑し、さまざまな現象のクラスに現実の始まりがあることを主張している。因果関係は調和によってのみ説明できると、著書『Nouvelle Monadologie(新モナド論)』で主張している。ただし、自由の観点から、この調和はあらかじめ定められたものではないと主張している点で、ライプニッツとは異なっている。ルヌヴィエは、科学が適切な限界を認識している限り、それを恐れてはいない。科学は哲学と対立するものではなく、哲学も科学と対立するものではない。科学の進歩は、神学と形而上学の進歩も伴うと彼は考えている。

科学は、宇宙の発展を決定づけたり、その発展を左右する法則を解明する役割を担っている。しかし、未だ達成されていない理想である科学と、それ自体が非常に脆弱で不完全かつ限定的な科学との間には、一般批判、すなわち哲学が存在する余地があるとルヌヴィエは主張する。「今日、哲学は信用を失っているが、哲学は存在し得るし、存在すべきである。その目的は常に神、人間、自由、不滅、科学の基本法則の調査であった。これらの問題はすべて密接に関連し、相互に浸透しており、それらすべてが哲学の領域を構成している。」科学が不可能な場合、この不可能と思われること自体を調査しなければならず、哲学は我々の知識の「一般批判」(Critique ge"ndrale)として残る。「私が『エッセイ』のタイトルから『哲学』という言葉を排除することで示そうとしたのは、まさにこの考え方である。方法が変われば、名称も変更すべきである。」1 このようにルヌヴィエは、懐疑論独断論の中間に位置する「批判」を確立しようとし、「科学と良心」の要求、純粋理性と実践理性を同時に認識する哲学の創設を目指した。


ルヌヴィエは、その野望を完全に達成することはできず、最初の記事で指摘されているように、読者も少なく、89歳で亡くなるまで、あれほど考え、書き続けることに落胆していたかもしれない。1903年の彼の死後、彼の作品により注目が集まるようになり、過去10年間の『哲学史』には、彼に関するいくつかの段落やセクションが含まれている。ちなみに、ブリタニカ百科事典も、最新版で彼の正確な生年月日を明らかにしている。

『Essais de Critique genirale』は、彼の膨大な著作のごく一部にすぎない。「自由」と「人格」というキーワードを、彼が貢献した他の分野、すなわち倫理、社会哲学、歴史、終末論、フィクションにも持ち込んだ。(ユートピアは、ヨーロッパの歴史は別のものになっていたかもしれないことを示すために書かれたフィクションであり、人格主義は終末論以外の何物でもない。) ルヌヴィエは、かなり頑固で議論好きの哲学者であり、深刻な批判に晒されたことがないわけではない(実際、あまりにも深刻な批判であるため、このような記事の枠内では触れることができない)。しかし、英国の学生にとって、彼には注目に値する価値がある。彼の作品には、よりよく知られたフランスの思想家であるコントやベルクソンよりもはるかに深い奥行きと広がりがあり、彼をデカルト以来のフランス最大の哲学者であると主張する人もいる。偉大なドイツの哲学者とは異なっているが、彼は「フランスのカント」と称されるにふさわしいかもしれない。

ルヌヴィエその人と作品(I)

シャルル・ルヌヴィエは、19世紀における哲学界の孤独で厳格かつ不屈の活動家の一人である。彼の強力な精神、道徳的な真剣さ、知的な活力は、尊敬と注目を集め、彼を同時代の哲学者の中でも高い地位に位置づけている。彼は、同時代のイギリス人スペンサーやドイツ人ロッツェとは根本的に異なっていたが、両者ともルヌヴィエよりも注目を集めていた。彼の長く、非常に活動的な人生は、祖国の政治的・知的運命と一致する時期に分かれ、その一部を反映している。それは、ワーテルローの戦いから、1830年の革命、1848年の第二共和政第二帝政1871年の戦争とコミューン、第三共和政、そしてドレフュス事件や教育問題、現世紀初頭の廃止問題などである。

I. 彼の生涯

  1. 1815年から1851年のクーデターまで
    (初期の哲学)

1815年元旦、シャルル・ベルナール・ルヌヴィエは、地中海に面したフランス・エロー県の県庁所在地であるモンペリエで生まれた。この町は、17年前に生まれたオーギュスト・コントの故郷でもあり、ルヌヴィエは19世紀のフランス哲学界でコントと肩を並べる存在となった。コントは1815年にはすでにパリのエコール・ポリテクニークで学んでいたが、ルヌヴィエは後に彼に続くことになる。ルヌヴィエは、3人兄弟の末っ子として、ワイン生産者の裕福な家庭に生まれた。姉が1人、兄が1人おり、兄のジュールはフランス考古学への重要な貢献で記憶されている。このジュールは、後に1848年に、弟の著作を擁護するために国民議会で演説を行うことになる。ルヌヴィエの父は教養豊かな人物であり、シャルルを教育したのは彼自身であった。シャルルは、ジュ・ド・ポーム大通りの自宅で教育を受けた。興味深いことに、コンテとルヌヴィエはともにカトリックの家庭で育った。1825年、シャルル・ルヌヴィエは王立大学に入学した。そこは、10年ほど前にコントも通っていた大学である。4年後、ルヌヴィエの父親は国会議員に選出され、息子をパリに連れて行き、14歳だった息子を「年金生活者」としてロラン大学に入学させた。この大学は、その後しばらくしてベルクソンが短期間教鞭をとった大学である。ここでルヌヴィエは、後の世代の若い思想家に多大な影響を与えたフェリックス・ラヴィソンと出会った。ラヴィソンは1867年に発表した有名な論文「ラポール」で、Cousinのあいまいな感傷的観念論の優位性に一撃を加えた。確かに「支配」という表現は的を射ている。Cousinは長年にわたり公式の哲学を支配し、哲学史の研究を奨励したものの、自身の考えと相容れない学説は認めようとしなかった。Cousinの支配がRenouvierの業績の認知が遅れた理由の一つであり、Cousinの『報告書』でRavaissonが言及した以外には、Renouvierの業績は残念ながらほとんど注目されなかった。

ルヌヴィエがパリにやって来たとき、Cousinはちょうど自身のプログラムを展開していたところだったが、その時点ではルヌヴィエの興味を引くものではなかった。若く熱心な彼は、社会哲学、とりわけ1825年に亡くなる前に、社会的な教義によってフランスで注目を集め、現代社会主義の基礎を築いた思想家、サン・シモンの研究に熱中していた。ジュール・ルヌヴィエもサン・シモンの熱心な信奉者となり、彼の弟子たちは数多く、活発に活動していた。1830年、フランスではブルボン王朝復古を終わらせる革命が起こった。サン・シモニストのグループは国民議会にマニフェストを提出し、社会主義の教義に大きな関心が寄せられた。パリには4万人のサン・シモニストがいたと推定されている。彼らは、その目標のいくつかを達成していたかもしれないが、指導者であるバザールと、結婚や性問題に関する見解により事実上、党を分裂させた風変わりな人物アンファンタンとの間の不和により、その目標を達成することはできなかった。コレージュ・ロランの学生たちはサン・シモニズムに強い関心を抱いていた。パリで印刷業者兼出版業者を営んでいたピエール・ルルーは、1831年にサン・シモニストのグループに参加し、自身の新聞『Le Globe』でグループの考えを発表する場を提供した。晩年、ルヌヴィエは、この時期のことを振り返って、サン・シモンの研究に夢中になり、授業中にもこっそりと『Le Globe』を読み、哲学にはあまり関心を示さなかったと告白している。1 晩年には、 青年期の社会主義への期待の多くを失ったものの、サン・シモン精神は彼の中に残り、社会倫理への強い関心を維持し続けた。それは、彼の優れた著書『Science de la Morale』や『Philosophic analytique de I'Histoire』の数々からも明らかである。

翌年、パリでコレラが流行し、コレラの流行により、カレッジ・ロランは一時閉鎖となった。ルヌヴィエは、偉大な「エコール・ポリテクニーク」を目指していたが、同郷のコンテが高等数学の「Repetiteur」に任命されたばかりの「Ecole」への入学準備のため、カレッジ・シャルルマーニュに入学した。ルヌヴィエは、この科学と数学の偉大な教育機関への入学試験準備に2年間を費やしたが、その間、3年前に発表されたコントの『Cours de Philosophic positive』の数学的哲学に強く感銘を受けた。彼は、後にその思想家の体系を批判したにもかかわらず、この点については常にコントへの負い目を認めていた。

1834年7月、ルヌヴィエは入学試験を受け、合格した。このとき154人の学生が選抜されたようで、シャルル・ルヌヴィエは153番目にリストに載っていた。エコールで、彼は理想主義的な夢に幻滅し、サン・シモニズムを「子牛への愛」を捨てるように捨てたようだ。他の興味が芽生えていた。彼は今、コントのもとで働き、数学に熱心に取り組んでいた。彼の思想の将来の発展に少なからぬ影響を与えた出来事は、ジュール・ルケリエとの出会いと友情であった。13

1836年にコースを修了したルヌヴィエは、「Marine」での職をオファーされたが、このキャリアを断った。その後数年間は落ち着かない様子で、経済的な心配もなかったため、定住を急ぐ様子はなかった。モンマルトルに住み、ダミロンによるソルボンヌ大学の講義に時折出席していたようだ。1838年には「社交的な生活に肉体的にも精神的にも疲れ果てていた」と伝えられている。

1839年、アカデミーは「デカルト主義」に関する論文に賞を授与した。ルヌヴィエはようやく明確な目的を見出し、先ほどの診断とは矛盾するが、その仕事に精力的に取り組んだ。彼はデカルト、マレブランシュ、スピノザライプニッツの徹底的な研究に没頭した。1840年6月29日までに、彼の原稿はアカデミーの手に渡り、賞は逃したものの、名誉ある言及を受けた。1842年には、これが彼の最初の出版作品『Manuel de Philosophie moderne(近代哲学のマニュアル)』へと結実した。この時、彼は27歳となり、哲学に専念することを決意した。2年後、彼は2巻からなる補完的な著作『古代哲学概論』を出版した。その後、ピエール・ルルーとジャン・レイノーが編集した『Encyclopedic nouvelle』にいくつかの論文を寄稿した。この時期の彼の著作はすべて、彼の精神がヘーゲル的な段階を経ていたことを示しているが、しかし、そこから彼は離れることになる。

1848年、フランスでは共和国樹立の試みが2度目に行われた。ルヌヴィエの社会主義への共感は新たな息吹を得て、1848年2月24日から同年5月4日まで続いた臨時政府の運命と密接に結びついた。当初から共和国を悩ませた困難は、主に社会主義共産主義の問題に関して、公言する共和主義者たちの内部で分裂が起きたことによる。熱烈な共和主義者たちの多くは保守的な政府を望み、また、共和主義、民主主義、社会主義は互いに絡み合っており、共に歩んでいかなければならないと主張する者もいた。赤旗か三色旗のどちらを採択するかでも争いが起こった。ルイ・ブランは著書『Organization du Travail』を出版し、失業者やその他の暴徒がそのタイトルをスローガンとして掲げた。

こうした議論のさなか、ルヌヴィエは教育委員会の書記に任命された。ある日、文部大臣が、市民権や公民権について教えなければならない教師たちに渡すのにふさわしい本はないかと尋ねた。ルヌヴィエは原稿を提供し、その原稿は『Manuel republicain de I'Homme et du Citoyen(共和主義的人間と市民のマニュアル)』というタイトルで出版された。その後まもなく、教師の給与をめぐる名ばかりの討論において、ラ・ドローム選出の代議士ボンジャンが国民議会でルヌヴィエの本を激しく攻撃した。ジュール・ルヌヴィエも代議士であり、弟の著書を擁護した。この問題は、教育大臣カルノーと教育省全体にとって明確な挑戦となった。議論はルヌヴィエの著書からの長文引用を経て、不信任投票という結末を迎えた。314対303の票で可決された。大臣はその日の夜に辞任し、翌朝(1848年7月6日)、シャルル・ルヌヴィエと友人のレイノーは、それぞれ書記と委員会の会長の職を辞した。ルヌヴィエは政治に嫌気がさしたのだ。彼にはささやかな慰めがあった。その本は大きな話題となり、すぐに第2版の出版が決定した。

ルイ・ボナパルトの策謀により、彼は次の3年間でさらに失望と嫌悪感を募らせることになる。ルイ・ボナパルトは1848年12月に共和国大統領に選出された。ルイ・ボナパルトとその政策に反対し、ルヌヴィエは『リベルテ・ドゥ・パンセル』紙に痛烈な記事を執筆した。また、社会主義者の友人たちと共同で著した『Gouvernement direct el organisation communale et centrale de la Republique』では、フランス政府の地方分権化の構想を提示し、郡やコミューンを効果的な地方自治体の中心とした。

また、彼は『Revue philosophique』誌上で『Uchronie』と題する哲学小説の連載を開始したが、これは完成されることはなかった(この形では)。1851年12月2日、青天の霹靂のようにナポレオン3世によるクーデターが起こり、共和国は倒れ、君主制帝国主義、反動が台頭した。この出来事は、フランスの多くの優秀な人材(例えばヴィクトル・ユーゴー)の亡命や、他の人々(キネットやミシュレは教授職を失った)への迫害と相まって、ルヌヴィエを落胆させ、政治への即時的な関心を放棄し、途方もないエネルギーを持つその知性を哲学の研究へと向かわせた。

2. 第二帝政期、1851年から1871年

『Essais de Critique génerale』と『Ethics』の時代

パリでは仕事ができないため、「隠遁」生活に入った。36歳になった彼は、ヘーゲルよりもカントに近い独自の哲学を構築し始めていた。この時点まで、マニュエル兄弟と『Encyclopedie nouvelle』の興味深い論文「Philosophie」が、彼の哲学的な仕事のほぼすべてを占めていた。この論文は、カントの研究を支持するヘーゲル主義からの決別を意味していた。フォンテーヌブローの森の中心にある「庭と牛がいる」孤立した一軒家に居を構えた。ここで彼は、傑作『Essais de Critique』がほぼ完成(最初の形ではあるが)するまでの10年間、精力的に執筆活動を続けた。彼は時折パリを訪れ、教会や劇場に通った。また、年に2回はモンペリエを訪れ、父親に会うとともに、ルピアンにあるルノヴィエ家のブドウ園に関する業務上の用件を処理した。

『Essais de Critique』はルヌヴィエの名を世に知らしめることとなったが、残念なことに、一部の歴史家は、彼の作品を完全に無視しているわけではないにしても、その関心を彼の後の著作に限定している。 ルヌヴィエの新批判哲学の主な特徴と重要性については、本稿の後半で検討する。その前に、哲学の分野において非常に精力的かつ生産的な生涯の略歴を簡単に紹介する。

2年間の「隠遁生活」の後、ルヌヴィエは自身の記念碑的著作の第1巻を出版した。これは『Premier Essai, Analyse ginerale de la Connaissance: Bornes de la connaissance』と題された600ページを超える大著であった。この巻は論理学、知識論、および関連トピックに捧げられたものであった。その反応は非常に落胆させるもので、事実上無視された。1 1853年から1859年にかけて、ルヌヴィエは「自由と倫理」の問題に専念し、いわば「純粋理性批判」から「実践理性批判」へと移行した。この時期、彼はこれらの問題に関する論文を『Revue philosophique et religieuse』に寄稿した。

2つ目のエッセイは1859年に出版され、これもまた大著『Deuxieme Essai: L'Homme, la Raison, la Passion, la Liberte, la Certitude, la Probabilite morale』である。

森での10年間の滞在の後、ルヌヴィエはパリに戻った。3年後、彼はさらに2巻を出版し、それぞれが第3および第4の論文を構成し、論文の材料をひとまず完成させた。第3は『Les Principes de la Nature』で、第4は『Introduction a la Philosophie analytique de I'Histoire』というタイトルであった。

これらの著作は、当初の形では1854年から1864年までの10年間を占め、改訂版ではほぼ半世紀(1854年から1897年)を占めた。これらは、別途出版された『倫理学』と並んで、ルヌヴィエが哲学に与えた主な貢献である。

1867年、偉大な折衷主義の理想家であるCousinが亡くなった。ソルボンヌ大学を掌握することで、他の哲学、特にルヌヴィエの哲学が学術的にも社会的にも認知されないようにしていた。ルヌヴィエの著書は、ごく一部の友人たちにしか読まれておらず、彼を勇気づけるものはほとんどなかった。しかし、同じ年に、彼の古い学友ラヴェッソンが『Rapport sur la Philosophie en France au XIX' Siicle(19世紀フランスの哲学に関する報告書)』を出版し、その中でルヌヴィエの重要な記念碑的著書『Essais』に注目した。

また、1867年には、ルヌヴィエは自らの哲学を同胞に広めるべく、学友フランソワ・ピロンとともに月刊誌の出版に着手した。これが『L'Annee philosophique』である。この雑誌は、フランスとドイツの戦争勃発により、予定より早く終刊となったが、1890年にピロンによって再開された。ルヌヴィエにウィリアム・ジェームズの注目と友情を引き寄せたのは、この定期刊行物であった。 アメリカ人哲学者がルヌヴィエに寄せる高い評価は、いくつかの手紙や、彼の著作における献辞や言及によって裏付けられている。1 戦争の勃発は『L'Annee philosophique』の出版を停止させただけでなく、ルヌヴィエの最も偉大な著作のひとつである ルヌヴィエの最も偉大な著作のひとつである『Science de la Morale』への関心がそがれることとなった。この本は1869年に2巻本で出版されたもので、ルヌヴィエ自身が「最も優れた著作」と語っているように、彼の数ある著作の中でも「最もお気に入りの」著作である。

3. 第三共和制下、1871年から1903年。 後の哲学「Le Personnalisme(個人主義)」

1871年の悲惨な戦争の終結により、フランスで3度目の共和国が樹立された。この共和国は、多くの苦難を乗り越え、今日まで存続している。平和条約が締結され、血みどろのコミューンの戦いが終結したことにより、当時57歳になっていたルヌヴィエは、政治や公的な生活に再び戻ることは望まなかったが、相変わらず精力的に、哲学的な性格だけでなく、政治、文学、宗教的な性格も持つ週刊紙の出版という野心的な計画に着手することを決意した。彼は、その年、セダンの戦いパリ・コミューンの勃発により、人々が知的にも道徳的にも当惑していた時期に、同胞たちに語りかけたいと強く願っていた。ルノワールは、知的にも道徳的にも建設的な何かを提供できると感じており、自身の哲学から生じた政治的・宗教的信念の重要性を訴え(そして、可能であれば受け入れられるよう)強く求めた。彼は、自分の「neo-criticism」が新しい共和国の受け入れられる哲学になることを望んでいたのかもしれない。もちろん、リセではナポレオン3世の時代に廃止された哲学の授業が復活していた。この目的のためにルヌヴィエは1872年に週刊誌『La Critique philosophique』を創刊した。

その出版の告知には次のように書かれていた。「『La Critique philosophique』は、18世紀の精神とフランス革命から生まれた偉大な教義の機関であり、その原則はカントによって定められた。そして今日、当初は矛盾や誤謬によって曇らされ、その進歩を妨げていたものが、思考の法則と知識の形態の新たな分析によって復活し、 当初はそれを曇らせ、その進歩を妨げていた矛盾や誤りを排除し、思考の法則と知識の形態を新たに分析することで復活を遂げた。これにより、カントから受け取ることができなかった、真に前向きな性格、体系的な統一性、調和のとれた完全な性格を付与した。

この活気あふれる勇気ある新聞は、その発行者と同様に、1872年の創刊から1884年までは毎週、1885年からは1889年に不幸にも廃刊となるまで月刊誌として発行されていた。

フランス人寄稿者と共同編集者を除いて、ウィリアム・ジェームズはさまざまな論文を送った。『La Critique』が刊行された年、ジェームズはルヌヴィエに初めて手紙を書き、当時読んでいた『La Science de la Morale』について言及し、ルヌヴィエの研究について問い合わせた。それから8年後、ルヌヴィエとジェームズはアヴィニョンで会い、ジェームズはルヌヴィエとピロンを非常に尊敬していた。この尊敬の例として、1881年にジェイムズが『The Will to Believe』の中でルヌヴィエと彼の研究について言及していることが挙げられる。その後、ジェイムズは『心理学原理』を「親愛なる友人フランソワ・ピロンに捧ぐ。愛情の証しとして、そして『哲学批判』に私が負うものへの感謝の印として」と献辞を捧げている。さらに、ジェイムズの著書『哲学の諸問題』には、ルヌヴィエを「哲学界の偉大な人物」の一人として献辞が捧げられている。「しかし、70年代に彼が示した多元論の卓越した擁護が私に決定的な印象を与えていなければ、私は自分が育った単一論の迷信から抜け出せなかったかもしれない。つまり、この本は書かれなかったかもしれないのだ。だからこそ、私は限りない感謝の気持ちを抱きつつ、この教科書を偉大なるルヌヴィエの思い出に捧げたいと思うのだ。」 ルヌヴィエはジェイムズとのやり取りに加え、スイスの哲学者シクレタンにも興味深い手紙を書いていた。ジェイムズはシクレタンのルヌヴィエに関する注釈を読んだ後、ルヌヴィエの哲学について次のように述べた。「それは、論理的に理解可能な公式に固執するという、宇宙に対する偉大な姿勢のひとつを古典的かつ一貫した表現で表しているように思える。もしそれを超えようとするなら、公式というものを完全に放棄しなければならなくなるだろう。」 これらの書簡への言及は、ルヌヴィエとその同僚のこの時期の業績と影響について興味深い印象を与えている。

ルヌヴィエは、定期刊行物に対する情熱を失うことはなかったが、より継続的で深みのある永続的な仕事に対する情熱は衰えることはなかった。それどころか、彼は今、人生における偉大な仕事の一つに着手した。彼の最高傑作『Les Essais de Critique』は、1854年から1864年の10年間に4巻が発行された。彼は今、これらの巻を改訂し、増補し、そして実際に書き直すことを決意した。さらに5つ目のエッセイを追加することにした。この改訂と拡張の作業は、1872年の着手から1884年まで、そして1885年から1889年に不幸にも中断されるまで、毎月刊行された。

フランス人寄稿者と共同編集者を除いて、ウィリアム・ジェームズはさまざまな論文を送った。『La Critique』が刊行された年、ジェームズはルヌヴィエに初めて手紙を書き、当時読んでいた『La Science de la Morale』について言及し、ルケヴィエの研究について問い合わせた。それから8年後、ルヌヴィエとジェームズはアヴィニョンで会い、ジェームズはルヌヴィエとピロンを非常に尊敬していた。この尊敬の例として、1881年にジェイムズが『The Will to Believe』の中でルヌヴィエと彼の研究について言及していることが挙げられる。その後、ジェイムズは『Principles of Psychology』を「親愛なる友人フランソワ・ピロンに捧ぐ。愛情の証しとして、そして『La Critique philosophique』に私が負うものへの感謝の印として」と献呈している。さらに、ジェイムズの著書『Some Problems of Philosophy』には、哲学的性格の最も偉大な人物の一人としてルヌヴィエに献辞が捧げられている。「しかし、70年代に彼が卓越した多元論の擁護者として私に決定的な印象を与えてくれなかったら、私は自分が育った一元論の迷信から抜け出すことはできなかったかもしれない。つまり、本書は書かれることはなかったかもしれないのだ。だからこそ、私は限りない感謝の気持ちを抱きつつ、この教科書を偉大なるルヌヴィエの思い出に捧げたいと思う。」 ルヌヴィエはジェイムズとのやり取りに加えて、スイスの哲学者シクレタンにも興味深い手紙を書いている。1 ジェイムズはシクレタンのルヌヴィエに関する注釈を読んだ後、ルヌヴィエの哲学について次のように述べている。「それは、論理的に理解可能な公式に固執するという、宇宙に対する偉大な姿勢のひとつを古典的かつ一貫した表現で示しているように思える。もしそれを超えようとするなら、公式というものを完全に放棄しなければならなくなるだろう。」 これらの書簡への言及は、ルヌヴィエとその同僚のこの時期の業績と影響について興味深い印象を与えている。

ルヌヴィエは、定期刊行物に対する情熱を失うことはなかったが、より継続的で深遠かつ永続的な仕事に対する熱意は衰えることはなかった。それどころか、彼は今、人生における偉大な仕事の一つに着手した。彼の最高傑作『批評の試み』は、1854年から1864年の10年間に4巻が発行された。彼は今、これらの巻を改訂し、増補し、さらに書き直すことを決意した。そして、5つ目のエッセイを追加することにした。この改訂と増補の作業に、彼は25年以上を費やした(最初の巻の執筆には13年を要していた!)。改訂作業の中で、彼はタイトルを簡素化し、それが今日私たちが知る承認された形となった。1875年から1897年にかけて発行された『Essais』は13巻に及んだ。第1部と第2部の改訂版は1875年までに準備が整い、自身の新聞の印刷所から『Traite' de Logique generate et formelle』(全3巻)と『Traite de Psychologie rationnelle d'apres les Principes du Criticisme』(同じく全3巻)のタイトルで発行された。

翌年、彼はクーデター直前に連載として書き始めた非常に興味深い作品『Uchronie』を発表した。この作品は、西暦100年から800年までのヨーロッパ文明の発展について、あり得たかもしれない姿を描いたものだった。この作品の目的は、歴史における宿命論の概念を告発することだった。一方、ルヌヴィエとピロン(いわば余暇を利用して!)は、ヒュームの『Treatise on Human Nature』のフランス語訳を出版した。

ルヌヴィエの旺盛なエネルギーと毎週の『Critique philosophique』に対する熱意は、この時期の彼の人生の主な特徴である。しかし、彼の『Essais』の重要な拡張を無視することはできない。(これらの新しい議論は、1912年のArmand Colin社版では、初版から引き継がれた内容よりも小さな活字で掲載されている。)ルヌヴィエは、『Critique philosophique』においても、自分がすべきことをすべて行っているとは思っていなかった。同紙で主張された彼の政治方針は、発行された最後の年の文章に要約されている。そこには、ルヌヴィエが、厳格な共和主義の原則を支持し、シーザーや帝国主義の香りのするものすべてと戦うことを常に目的としてきたと述べている。彼の宗教的な態度は、政治的な態度と同様に明確に定義されていた。ルヌヴィエはローマ・カトリック教会、およびフランスにおける聖職者党とその権力に対して、非常に顕著な敵意を示していた。『La Critique philosophique』はプロテスタントを積極的に支持していた。彼は、自身の新聞のカトリック教徒の読者、そして真の共和主義者たち全員に、カトリック教会からプロテスタント教会へと改宗するよう強く促した。この目的を念頭に、1878年に彼は『La Critique philosophique』に補足として『La Critique religieuse』という季刊誌を付け加えた。これは宣伝目的で発行されたものである。「批判とは、哲学におけるプロテスタントのようなものだ」と彼は言った。確信とは、知性、心、意志の結晶であり、したがって権威の強制によってもたらされることは決してない。彼は、歴史の審判は権威に不利であり、宗教的な事柄における権威は将来、その地位を維持することはできないと信じていた。したがって、ルヌヴィエが神学、特に多くの哲学思想の神学的含意に強い関心を抱いていたのは、単なる思弁的な衝動によるものではなく、宗教的概念を合理的に再提示したいという実践的な願いからであったことがわかる。実際、彼は若い共和国に対してガンベッタが発した警告、「教権主義こそが敵である」を支持し、繰り返し述べた。ルヌヴィエは、宗教問題が教育問題と密接に結びついていることをよく理解していた。そのため、彼は世俗派の学校(Ecoles laiques)の熱心な支持者となり、1879年には、これらの教育機関向けの倫理に関する小冊子『Petit Traite de Morale a I'Usage des Ecoles primaires laiques』を出版した。この小冊子は1882年に増補版が出版されたが、これはフェリーが全国民を対象とした世俗的で義務的な無償教育制度を実現させた年であった。ルヌヴィエの精力的なキャンペーンは、しかしながら、彼が望んだような大きな成功を収めることはできず、彼が期待していたところから十分な支援を得られなかったと不満を漏らしている。しかし、彼の強力な反教権主義が、フランスの義務教育と廃教、すなわち「コンコルダート」の終焉と教会と国家の公式な分離を早めたことは疑いがない。この出来事は、1905年にブリアンとコンブによってようやく実現したため、彼が生きている間には実現しなかった。この方向性にやや落胆したルヌヴィエは、1885年に宗教付録の発行を中止し、『La Critique philosophique』を週刊誌から月刊誌に変更した。

数年前に『La Critique religieuse』に掲載されたいくつかの記事が書籍として発行され、2巻からなる大著『Esquisse d'une Classification systematique des Doctrines philosophiques』となった。そのうちの2番目の巻には、貴重な自伝の一部、信仰の哲学的な告白である「Comment je suis arrive a cette conclusion」が収められている。これは、1877年の『La Critique』に「Une Evolution Personnelle」としてすでに掲載された記事の再版である。

その間、ルヌヴィエはその他の関心事にも取り組み、ヨーロッパやアメリカの同時代の思想に遅れずについていき、ドイツのロッツェ、スイスのシクレタン、アメリカのジェイムズらと文通を続けていた。さらに、ルヌヴィエは『Essais de Critique』の改訂という膨大な作業を継続し、1892年には第3論文の改訂版(全2巻)が出版された。

78歳となった今も衰えぬ活力で、ルヌヴィエはヴィクトル・ユーゴーに関する優れた著作『le Poete』で文芸批評の分野でその力を示した。

第4の論文『Introduction a la Philosophic analytique de I'Histoire』は、1896年に8章が追加されて再版された。これに続き、同年には1854年から1864年にかけてのオリジナル版に追加された膨大な第5の論文の半分が出版された。この第5の論文こそが『Philosophic analytique de I'Histoire』そのものであった。1896年に2巻が刊行され、1897年にさらに2巻が刊行されたことで、Essais de Critique gene'raleの大シリーズは完結した。 理由は明らかではないが、ルヌヴィエは 『Science de la Morale』を6番目の論文、つまりシリーズ全体に不可欠な一部とはみなさなかったが、このシリーズは『Logic』、『Psychology』、『Principles of Science』、『of Sociology』、『of Ethics』をカバーするものとして、このようにみなすことも十分に可能である。

ルヌヴィエの次の著作(彼は紛れもなく働き者であった)は、友人のルイ・プラットの助力を得て出版されたもので、その思想は『Essais』とはいくつかの点で異なり、新たな局面を迎えた。 ルヌヴィエはヒュームとカントの両者から多くを学んだが、少なくとも部分的には新カント主義から新ライプニッツ主義の哲学へと転向したようである。この著作のタイトル『La nouvelle Monadologie』は、当然ながらライプニッツの哲学を想起させる。1899年の出版は、当時84歳の高齢ながら、今なお執筆を続け、自身の思想の根本的に新しい局面を展開していたこの思想家の哲学における新たな時代の幕開けとなった。

それゆえ、以下の2つの事実を喜んでお知らせしたい。『La nouvelle Monadologie』がアカデミー・デ・モラール・エ・ポリティークによるエストラードゥルクロ賞を受賞した。さらに、その同じ年に、それまで自国から公式または学術的な評価を一切受けることのなかったルヌヴィエは、85歳にして、アカデミー・デ・モラール・エ・ポリティークの選挙により、科学研究所の会員に選出された。1900年には、彼にとって2冊目となるユゴーに関する著書『Victor Hugo, le Philosophe』が、やはりアカデミー・フランセーズのクロン・ド・リセに選ばれた。

今世紀の幕開けとともに、シャルル・ルヌヴィエは86歳の誕生日を迎え、さらなる新刊の出版を計画している老齢の人物として描かれている。彼のエネルギーと鋭さは老いても衰えることなく、翌年には『Les Dilemmes de la Metaphysique pure(純粋形而上学のジレンマ)』と、その重厚な続編『Histoire et Solution des Problemes metaphysiques(形而上学の問題の歴史と解決)』という大著を出版した。しかし、彼のネオ・ライプニッツ主義の時代における最も重要な著書は、まだこれから出版される予定であった。それは『Le Personnalisme(人格主義)』という2巻本で、付録として『Etude sur la Perception et sur la Force(知覚と力についての研究)』が添えられていた。彼は88歳になっていたが、哲学や政治に対する昔からの関心を失うことはなかった。教育問題と教会解散問題は、同胞の心の中で最も重要な問題であったため、彼が最後に発表した論文は「教育の自由と修道会の自由」に捧げられ、「L'Union pour Action morale」の会報(1902年)に掲載された。『Le Personnalisme』(1903年)は彼が哲学の分野で最後に発表した著作であるが、彼は最後まで精力的に活動し、師であるカントの教義に関する大規模な批判的著作を完成させた。彼はカントと意見が異なることが多かったが、カントには多くの恩義を感じており、特に『Les Essais de Critique generale』は常に彼の主要な著作とみなされるべきである。

1903年9月、彼は(「ピレネー=オリアンタル県」のプラドで)仕事中に亡くなった。最後の数時間は、彼の献身的な友人であり弟子でもあったルイ・プラットに、彼の哲学的な信念の概要を口述することに費やされた。これは彼の死後に『Derniers Entretiens』として出版され、その後も間隔を置いて彼の他の死後作品、バークリーの翻訳、彼の『Pensdes』、シスタンとの書簡、そしてもちろん『Doctrine de Kant』が出版された。

長い生涯を振り返って、彼はこう言ったかもしれない。「これは名誉なことだ。私は誇りを持って言う。私は一生懸命働いた」。彼の仕事は偉大で高潔であり、知的問題における真実と社会問題における正義への愛と情熱に突き動かされていた。カントと同様、ルヌヴィエは鋭い知性と深い道徳的誠実さを兼ね備えていた。彼の仕事には常に鋭い論理的気質が感じられ、特に最初の2つのエッセイに顕著である。また、若い頃に学校で机の下でサンシモニストの哲学を読んでいた人物の、規律ある熱意も常に感じられる。その一方で、次のような指摘も必要だろう。読者は、彼の著作が形式もスタイルもやや重苦しいと感じるだろう。現在の著者は、ルヌヴィエの著作はフランス語以外の言語からの翻訳ではないかと感じることが多い。現代のフランスの批評家たちは、彼のスタイルを重苦しいと感じている。ベルクソンのページの優雅さとはほど遠い。しかし、鋭い分析、論証、論理の力強さという別の長所がある。また、彼の著作の量は膨大であり、そのために彼の著書に目を向けることをためらう人も多く、そのどれもが英語に翻訳されていない。教育がルヌヴィエに、より明晰な、あるいは少なくとも分量の少ない文体を達成する手助けとなったことは明らかである。彼は、フランス語の文体における巨匠であるアナトール・フランスが述べた真実を知らなかった。フランスは、長編小説よりも短編小説を擁護する中で、「簡潔さは第一の礼儀である」と述べている。もちろん、哲学においては、論旨を簡潔にまとめることは説得力を失うことなく行うことはできないが、ルヌヴィエがこれほど多くの本を書いていなければ、もっと多くの読者がいたかもしれない。そして、彼が暇人ではなく大学の教師であったなら、これほど多くの本を書いたり、それほど長い本を書いたりすることはなかっただろう。ジェイムズがルヌヴィエの死を知ったとき、「なんとまあ、人生とは!」と言ったのは、まさにその通りだった。その長さと膨大な活動量において、それは特異な生涯であった。そして、1881年に「彼の著作は、もっと広く知られるべきである」と述べたルノヴィエの意見に、我々は同意する。ルノヴィエは、欠点こそあれ、偉大なフランス人であるだけでなく、普遍的な真理の探究において、その哲学者が置かれた国家環境や時代を超越する、偉大な哲学の精神の持ち主であった。

トラウマ、移住後のストレス、メンタルヘルス:米国における難民と移民の比較分析

link.springer.com

要旨

多数の研究が、難民における移住前のトラウマと移住後のストレスが精神衛生に及ぼす影響について述べているが、難民以外の移民との関連性を調査した研究は少ない。さらに、新しい国への定住後に経験したトラウマ的体験の発生率と影響を評価した研究はほとんどない。米国在住のアジア系(n = 1637)およびラテン系(n= 1620)の難民および移民の代表サンプルを用いて、移住前後のトラウマ的出来事や移住後のストレス要因が精神疾患や苦痛とどのように関連しているかを調査した。移住前のトラウマは、アジア系難民およびラテン系移民の幅広い心理的結果にリスクをもたらした。移住後のトラウマの有害な影響は、両方の難民および移民グループで顕著であった。差別、文化適応ストレス、家族間の葛藤は、複雑な方法で、グループ全体にわたって障害や苦痛のリスクを高めた。この調査結果は、難民と認定されていない人々も含む移民集団全体において、移住前後の段階におけるトラウマとストレスを調査することの重要性を強調している。

難民とは対照的に、難民以外の移民については、移住前後の段階におけるトラウマやストレスが精神衛生に及ぼす影響については、あまり研究が進んでいない [8, 9]。 こうした限界は、外国生まれのグループや移民グループを「移民」として一括りにしたり、移民と出生国住民の格差を、移民のサブグループ間の重要な相違を考慮せずに調査したりしていることによるものである [2, 10, 11]。

社会的望ましさによる報告バイアスを評価するために、10項目の尺度で回答者の同意(0 = 偽、1 = 真)を評価した。例えば、「嫌いな人に会ったことがない」、「退屈したことがない」、「誰かに利用されても気にならない」などの項目である[33]。合計スコアは0から10の範囲であった(アジア系ではα=0.71、ヒスパニック系ではα=0.77)。

  • Zuckerman M, Michael KD, Joireman J, Teta P, Kraft M. A comparison of three structural models for personality: the big three, the big five, and the alternative five. J Pers Soc Psychol. 1993;65:757–68.

結果

アジア系の人々(表2)では、移住前のトラウマは難民の場合、うつ病性障害および心理的苦痛の可能性を高めることが分かった。また、移住前のトラウマは移民の場合、不安障害の可能性を高めることが分かった。移住後のトラウマは、難民と移民の両者において、うつ病と関連していた。難民の場合、差別は不安障害のリスクを高めることが分かった。移民の場合、差別はうつ病と不安障害、および心理的苦痛のリスクを高めることが分かった。
文化適応ストレスは、難民の場合、不安障害のリスクを低くし、心理的苦痛を高めることが分かったが、移民の場合、精神衛生とは関連していなかった。難民と移民の両者において、家族間の葛藤は、うつ病と不安障害、および心理的苦痛のリスクを高めることが分かった。最後に、近隣環境とメンタルヘルスの結果との間に関連性は認められなかった。
ラテン系住民(表3)では、移住前のトラウマが難民の心理的苦痛のリスクを高めた。移住前のトラウマは、移民の疾患および心理的苦痛の可能性を高めることと関連していた。移住後のトラウマは、難民の心理的苦痛の可能性を高めることと関連していた。移住後のトラウマは、移民のうつ病および心理的苦痛と関連していた。差別は移民のすべての結果において精神衛生状態の悪化と関連していたが、難民の精神衛生状態の結果とは関連していなかった。
文化適応ストレスは難民のうつ病の確率上昇と関連しており、移民の文化適応ストレスはうつ病と精神的な苦痛の確率上昇と関連していた。家族間の葛藤は難民のすべての結果において精神衛生状態の悪化と関連しており、移民の不安障害と精神的な苦痛と関連していた。アジア人と同様に、近隣環境はラテン系難民および移民の精神衛生状態の結果とは関連していなかった。

トラウマに関するこの調査結果は、移民が自国や移動中に直面する戦争や政治的暴力が、長期的に精神衛生に有害な影響を及ぼすことを示す先行研究と一致している [8, 9, 12]。

  • ortuna LR, Porche MV, Alegria M. Political violence, psy chosocial trauma, and the context of mental health services use among immigrant Latinos in the United States. Ethnicity Health. 2008;13(5):435–63.
  • erreira KM, Ornelas I. Painful passages: traumatic experiences and post-traumatic stress among immigrant Latino adolescents and their primary caregivers. Int Migrat Rev. 2013;47(4):976–1005.
  • ousseau C, Drapeau A. Premigration exposure to political violence among independent immigrants and its association with emotional distress. J Nerv Ment Dis. 2004;192(12):852–6.

私たちの結果は、精神症状と関連する移住前の要因として心的外傷となる出来事が最も多いことを示す難民の精神衛生に関する文献とも一致している [35]

  • Bogic M, Njoku A, Priebe S. Long-term mental health of warrefugees: a systematic literature review. BMC Int Health Hum Rights. 2015;15(29):1–41-

移住プロセスに関連するトラウマ体験は、一般的に認識されているよりも、移民の間でより一般的である可能性がある。

心的外傷後ストレス障害の治療:最新のレビュー その2

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2. PTSDの理解の進歩

従来のPTSDモデルでは、異常な恐怖神経回路、ストレス感作、神経ホルモン反応の変化に焦点が当てられていたが、最近の研究では、遺伝と幼少期の経験、トラウマの文脈的側面、維持および悪化要因の間の複雑な相互作用が強調されている。 学習、情動制御、実行機能への影響を含む脳回路と結合の研究は、この疾患が脳機能と行動の複数の側面にどのように影響するかを明らかにしている。神経生物学、神経画像、内分泌学、免疫学、ストレス生理学の研究結果から、PTSDは複雑かつ多様な全身性障害であることが明らかになっている。以下のセクションでは、遺伝的要因、ストレスと視床下部-下垂体-副腎(HPA)軸、恐怖回路とその記憶への影響、脳画像研究、脳の結合と回路、PTSDのオールスタティック負荷モデルなど、PTSDの生物学的な側面について検討する。

2.1. 遺伝的要因

遺伝およびエピジェネティックな変化が、PTSDを発症しやすい素因となる可能性がある。30年にわたる遺伝学の研究から、PTSDを発症しやすい脆弱性には多因子遺伝が関与している可能性が示唆されている。遺伝率の推定値は、女性サンプルでは20%未満から70%の範囲である[49, 132]。PTSDに関連する遺伝子は、MDD、アルコール使用障害、双極性障害統合失調症などの他の一般的な精神疾患に関連する遺伝子とかなり重複しており、HPA軸、ノルアドレナリン作動性、ドーパミン作動性、セロトニン作動性システム、BDNFなどの神経栄養因子[164, 165]に関与する遺伝子も含まれる[132, 162, 163]。PTSDに対する遺伝的脆弱性は、幼少期のストレス、小児期の外傷、および遺伝子発現を調節するその他の環境因子によって大きく左右される [165, 166]。外傷後の遺伝子発現に関するエピジェネティック研究では、グルココルチコイド受容体(GRs)、GR応答エレメント [167]、および炎症性遺伝子 [168, 169] を含むHPA軸におけるDNAメチル化および遺伝子発現の変化が示唆されている。この分野における研究では、レジリエンスのパターンを調べたものはほとんどない。しかし、低レジリエンスは免疫遺伝子およびドーパミン遺伝子の遺伝子発現パターンと関連し、高レジリエンスは炎症反応の鈍化と関連するといういくつかの証拠がある[169]。 児童虐待は、情動の調節に重要な神経回路とともに、辺縁系およびHPA軸が発達する重要な発達期間に起こる可能性がある。 したがって、そのプロセスには生得性と後天的性が織り交ざっている。PTSDの遺伝学的研究は、遺伝子の転写産物や遺伝子産物と他の細胞分子との相互作用の研究へと拡大しており、これは、外傷後の病気や回復力のバイオマーカーを見つけ、PTSDの発症と大うつ病性障害(MDD)の発症とを区別する上で重要なステップである[49, 170]。

2.2. ストレス、視床下部-下垂体-副腎軸、炎症

PTSDによるホルモンおよび免疫学的影響は、さまざまな身体的影響と関連している [171]。従来、PTSDは、初期の[172]および後期の[50]イェフーダの研究に基づいて、逆説的にコルチゾールが低く、カテコールアミン値が高い状態と関連付けられてきた。しかし、HPA軸とグルココルチコイドの関係は微妙であり、幼少期のストレス、エピジェネティックな影響、併存するうつ病の影響を受ける可能性がある[173, 174]。コルチゾールによる遺伝子調節とPTSD治療の経路に関する詳細なレビューについては、Castro-ValeおよびCarvalho(2020年)を参照のこと[175]。グルココルチコイドがGRに利用できる量を調節するGRとその結合タンパク質の遺伝的多型は、グルココルチコイドのシグナル伝達を低下させる可能性がある。コルチゾール値が低下すると、ストレスの恒常性を維持するために十分な結合がGRにできず、慢性的なカテコールアミンの上昇につながり、トラウマ記憶の過剰固定化と過般化を助長する可能性がある。これについては、第2.3項で説明する。しかし、他の研究では、HPA軸とコルチゾールの不調節の証拠があるものの、その関係は複雑であることが示されている。コルチゾール系が「過剰調節」される傾向があり、その瞬間瞬間のストレス要因、情動体験のレベル、GRの発現と感受性、MDDなどの併存疾患などの要因によって、高コルチゾール血症または低コルチゾール血症になる可能性がある[1]。また、女性はノルアドレナリン反応、扁桃体の活性化、強い否定的感情刺激に対する驚愕反応が大きいことから、性ホルモンも関係している可能性がある[176-179]。月経周期はPTSDの症状に影響を及ぼし、PTSDを持つ女性の場合、黄体中期にフラッシュバックが強くなり、消去の保持が不十分になる[180, 181]。これは、プロゲステロンからGABA作動性代謝物であるアロプレグナロンおよびプレグナロンへの変換の減少と、グルココルチコイド受容体への影響に関連している可能性がある[182]。このHPA軸機能不全の結果として生じる慢性の過覚醒は、PTSDの慢性化の重要な予測因子である[183]。また、記憶および注意の欠損[184, 185]、怒りも引き起こし、これは、PTSDを維持する回避行動と脅威の知覚をさらに悪化させる破滅的な認知評価と関連している可能性がある[186]。数多くの研究が明らかにしているように、慢性的なストレスや炎症は、他にも多くの影響を及ぼす。例えば、ドーパミン作動性機能の低下による不快気分や快感消失、セロトニン作動性機能障害による衝動性、自殺傾向、攻撃性などである。PTSDは全般的に、ガンマ・インターフェロン(IFNγ)、腫瘍壊死因子α(TNFα)、C反応性タンパク、白血球、インターロイキン1β(IL-1β)などの炎症性サイトカインや炎症性メディエーターのレベルが高いことが分かっている[189, 190]。MDDの影響はPTSDの影響と切り離して考える必要があることが示唆されているが、その理由は、両者とも炎症促進性サイトカインの増加、神経新生の減少、ミトコンドリアおよびHPA軸の機能不全、酸化ストレスと関連しているためである[171, 187]。また、うつ病エピソードは免疫炎症経路の感作にもつながる可能性がある [191]。 しかし、PTSDとMDDは、外傷や慢性的ストレスの後に起こる生理学的および免疫学的調節障害という同じスペクトラムの一部であると考えられる。 内因性カンナビノイドはグルココルチコイドの調節やストレス反応とも関連しており、カンナビノイド1型(CB1)受容体はグルココルチコイドの作用を媒介し、不快な記憶を固定化する [192-194]。また、アロプレグナロンなどの他の神経ステロイドも、ノルアドレナリンとグルココルチコイドのシグナル伝達を減少させるのに関与している可能性がある[195]。これらは、本レビューの第5部の関連セクションで議論する。

2.3. 恐怖回路と記憶

異常なストレス反応に加え、異常な恐怖条件付けと恐怖の消去、そしてそれらが心的外傷記憶に与える影響は、PTSDの最も研究されているパラダイムのひとつである。脅威的な経験をした際には、感覚入力が過去の経験と比較され、その後、2つの並列した脅威システムが活性化される。1)皮質下の感覚運動反応、2)皮質上の意識と認知評価である[196]。これらの2つのプロセスは、自動的な防御反応(方向づけ、戦闘、逃走、凍りつきなど)と、トップダウン処理によって修正された反応(例えば、被害者が動くと強盗が発砲すると脅している場合のように、逃走が有害である場合には逃走反応を無効にしてじっとするなど)が混在する、心理生理学的、感情的、行動的な反応と関連している。トラウマは、これらの自然な脅威反応を圧倒し、遂行機能、辺縁系の活性化、明示的および暗示的記憶システムの変化につながる。そのため、従来の前頭葉辺縁系モデルでは、海馬、扁桃体前頭前野が関連しているとされている。海馬は、ストレス要因の文脈に対する感情的な反応を媒介し、想起された宣言的記憶の要素を時間と空間を含めた首尾一貫した全体へと統合する。そのため、海馬は、混乱し断片化され、感覚的な性質を持つことが多い心的外傷記憶に関与している可能性があると考えられている[1]。海馬はストレスに敏感であり、構造的磁気共鳴画像法を用いた研究では、PTSD患者の海馬容積が小さいことが示されている[137, 199]。そのため、PTSDを海馬に起因する障害と捉える見方もある。しかし、これらの研究のほとんどは横断的研究であり、容積の減少がストレスによる損傷による二次的なものなのか、あるいは幼少期の逆境などの既存の要因によるものなのかについては明らかにされていない[200]。 恐怖に関連して放出されるストレスホルモンは、辺縁系を介した、外傷の際に存在した手がかりと恐怖反応との間の連想学習を促進する。 これらの記憶の再活性化は、多くの場合、些細なきっかけによって起こり、感覚的および感情的な経験の再体験を引き起こす。 それは、心身の覚醒を伴う。 自己回顧的な記憶システムへの統合が不十分であるため、現在に再び起こっているように感じられる。その結果生じる否定的な感情は、脅威に対する注意の偏りをさらに増大させる可能性もある[201]。これは恐怖と覚醒の悪循環を引き起こし、トラウマの記憶とトラウマの合図に対する連想学習を強化し、アロスタティック負荷を増大させながら、慢性的なストレス反応につながる可能性がある。さらに、迫り来る逃れられない脅威に対する反応として、意識状態の変化やオピオイドの放出が関与していると考えられているフリーズ反応は、記憶想起を悪化させたり、さらに変化させたり、無力感や無能力感といった主観的な体験を悪化させる可能性がある [197]。 これらすべてが、実行機能障害や情動調節障害の一因となる。 しかし、重要な点ではあるが、PTSDの原因となるトラウマ体験のなかには、恐怖が主たる要因ではなく、切断され腐敗する死体を目撃するような恐怖、嫌悪、嫌悪感など、感情の連鎖が原因となっているものもあるという事実を、恐怖回路モデルは見逃している。恐怖を引き起こす多くの出来事は、こうした感情的な側面だけでなく、怒り、罪悪感、羞恥心なども含んでいる。こうした出来事に関する研究はほとんど行われておらず、強い恐怖を伴う出来事とどのように区別されるかもわかっていない。恐怖と同様に、これらの「道徳的感情」は扁桃体前頭前野(PFC)、島皮質の活性化と関連しており [202] 、自己意識に影響を及ぼすことから、後述するプレクニウスが何らかの役割を果たしていることが示唆される。これらの感情や感作による累積ストレスの増幅効果に関する知識は [203, 204] 、まだ十分に理解されていない。そのため、動物や臨床前研究の知見は、臨床ケアにそのまま適用できるとは限らない。

しかし、過去25年間の記憶研究は、記憶の再固定化が文脈によってどのように影響を受けるかについて、より深い理解をもたらしており、治療にも影響を与えている。記憶の再固定化理論では、ある出来事を思い出すと、記憶痕跡が安定状態から不安定状態へと移行するとされている。いったん不安定化すると、タンパク質合成に依存する記憶の再固定化プロセスによって再安定化する前に、薬理学的または新たな経験によって変化する可能性がある[205]。これにより、生物は、その後の経験に基づいて長期記憶を必要に応じて更新することができる。古い記憶を変化させるには、想起だけでは不十分であり、不安定化が起こるためには、想起時に新しい情報が存在していなければならない。最近のデータによると、心的外傷的な記憶が想起された際には、期待と実際に起こったこととの間に不一致(予測エラー)が存在しなければならないことが示唆されている[206, 207]。これは薬理学的介入のタイミングや、特定の心理療法介入の実施方法にも影響を及ぼす可能性がある。再固定化プロセスは複雑であり、N-メチル-D-アスパラギン酸(NMDA)グルタミン酸受容体(NMDAR)、代謝グルタミン酸受容体(mGluR)、β-アドレナリン受容体、マイトジェン活性化プロテインキナーゼキナーゼ(NMDARによって活性化される)、哺乳類ラパマイシン標的タンパク質(mGluRによって活性化される)、γ-アミノ酪酸(GABA)受容体、カンナビノイド受容体タイプ1(CB1)、セロトニン受容体などが関与し、 AR)、哺乳類ラパマイシン標的蛋白(mGluR によって活性化)、グルタミン酸受容体(GR)、γ-アミノ酪酸(GABA)受容体、カンナビノイド受容体タイプ1(CB1)、セロトニン受容体など、シナプス再構築に必要なタンパク質合成に下流の影響を及ぼすものも関与している。 総説については、Raut ら[205]を参照のこと。 これらは、第5.3項「新たな薬理学的治療」でさらに詳しく説明する。

2.4. 脳画像研究

PTSDは、脳画像研究の進展により、構造画像から機能画像へと、その概念が覆された。その中でも、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)と陽電子放射断層撮影(PET)は、多くの新たな洞察をもたらした。20年前には、この障害は主に、構造画像研究に基づいて海馬を基盤とする障害と見なされていた。スクリプト駆動型パラダイムを含む新たなfMRIとPETの手法により、PTSDは情動制御の障害と見なされる可能性がある[1]。PTSDには、海馬、扁桃体、海馬傍回などの辺縁系領域と前頭前野を強調する従来の辺縁系モデルに加え、相互に関連する広範な脳領域が関与していることが現在では認識されている。扁桃体および背外側前頭前皮質(dACC)の過剰活性化、腹内側前頭前皮質(vmPFC)の低活性化、海馬の萎縮は、PTSDにおける最も確かな所見である。海馬体積の減少とも関連するMDDと比較すると、PTSDは脳全体の体積減少と関連している [208-210]。 注意と情動の制御に関連する島皮質の過活動および島皮質、mPFC、前帯状皮質の体積減少も、他の所見として挙げられる [209, 210]。恐怖条件付けと消去に関するfMRI研究では、a) 条件付け中の前部海馬(扁桃体まで広がる)およびmPFC、b) 消去学習中の前部海馬-扁桃体領域、c) 消去想起中の前部海馬-扁桃体およびmPFC領域における活性化の増加、および視床における活性化の減少が報告されている[211]。文脈処理能力の低下は、安全と脅威の区別を困難にし、vmPFC、海馬、視床が関与している可能性がある。このことから、PTSDは、顕著性と脅威に関連する領域の活性化の増加、視床(皮質下の領域間の主要な中継ハブ)とvmPFCの活性化の低下[211]、条件付けられた恐怖反応の抑制の失敗によって特徴づけられることが示唆される。

楔前部および島は、自己認識や脅威に関連する情報を含む、脳の情報統合のメカニズムを理解する上で重要な領域である。楔前部は、記憶の想起、創造性、自己認識、および視点取得や自己決定感、意識などの関連プロセスに関与していると考えられている[212-216]。楔前部と密接に関連する島は、顕著性の検出、身体的および感情的な痛み、内受容、自律神経の調節、共感、感情および自己認識、感情の価値に関連する神経統合ハブである [202, 217-219]。島は、内部および外部環境を監視するために必要な情報を統合し、強化学習、感情制御、意思決定において役割を果たしている[202, 220]。最近、島は動物モデルにおいて、末梢免疫反応の位置と性質を記憶し、再活性化されると病気が再発することが示され[221]、全身性免疫システムとの関連性が示された。

もう一つの興味深い分野は、古典的PTSDとは対照的に、PTSD-DTにおける脳の活性化の違いである。前述の通り、古典的PTSDでは、恐怖を誘発する課題中に、vmPFCの顕著な不活性化と、扁桃体、島、前帯状皮質の過剰活性化が認められ、これは過覚醒症状と一致する。しかし、PTSD-DTの患者は、手がかりへの曝露時にその逆の反応を示す。すなわち、vmPFCの過活動と、辺縁系の抑制の増加と一致する、扁桃体および島皮質の活動の低下である[208, 222]。PTSD-DTはまた、古典的PTSDと比較して、扁桃体前頭前野、および意識、認識、自己認識に関与する頭頂葉領域との間の機能的結合がより強いことも関連している[208, 223]。これは、古典的PTSDでは情動反応の過剰活性化と制御不全が関与しているという考えを裏付けるものであり、一方で解離性の亜型ではその逆である可能性を示唆しており、解離性および感覚鈍麻の症状を説明できるかもしれない[222]。

一般的に、PTSD患者のほとんどは、ある程度、両極端な状態を経験している。このような変動を説明するモデルが提案されており、その中には、行動や症状を予測する扁桃体とvmPFCの相互抑制による注意バイアスの変化が含まれている[224]。相互抑制モデルでは、扁桃体が優位な場合、患者は情動の調節不全状態に入り、脅威に対する注意バイアスを示し、再体験症状が現れると予測される。対照的に、vmPFCが優位な場合、患者は情動過剰調節状態に入り、脅威から注意をそらすバイアスを示し、扁桃体の活動低下に関連する回避症状が現れると予測される。中脳水道周囲灰白質の役割は、解離を含む能動的および受動的な脅威反応の調節にも関与していると考えられている[197]。症状の測定に対する潜在的な影響を考慮すると、解離状態の役割は、今後のPTSD治療研究において考慮されなければならない。

また、PTSDの素因となるストレスに敏感な脳構造に特定の影響を及ぼす、幼少期の逆境体験(ACEs)の種類、時期、重症度、慢性化の影響も注目されている。扁桃体と海馬の容積は、思春期前期から思春期前期にかけてのACEsの重症度と関連しており、これはネグレクトの重症度によるものかもしれない[225, 226]。PTSDはまた、左右の海馬をつなぐ構造である脳梁の白質が分断されていることとも関連している[227, 228]。しかし、この関連性は、小児期のトラウマ、併存するうつ病、外傷性脳損傷の既往歴、現在のアルコール依存症またはアルコール乱用、向精神薬の使用を考慮した後でも持続している[227]。外傷の状況と年齢を考慮した分析では、これらの白質変化は外傷体験の種類によって異なり、情動および認知処理に関連する脳回路の変化と関連していることが示唆された[229]。小児期の虐待に関連するPTSDに関するメタ分析では、虐待に関連するPTSD患者では、脳梁、全脳容積、小脳、海馬、扁桃体のサイズが有意に小さいことが報告されている[228]。また、幼少期に虐待を受けた人々では、帯状回、楔前部、島皮質のネットワーク中心性が変化していることも分かっている [230]。 指摘されている限界としては、縦断的研究の不足、精神医学的併存障害や虐待の深刻さの混同、および不十分な能力などがある [228]。 しかし、これらの知見は、PTSDの病態生理学的発症は、その指標となる外傷的な出来事よりもむしろ、その出来事よりも先に起こる可能性があることを示している。

さらに、解離性および非解離性PTSDにおける大脳皮質の活性化の差異パターンにおける脳幹の役割も、最近、研究により示されている[231]。前庭および中脳水道周囲灰白質の活性化は、大脳皮質の活動パターンの重要な推進力であり、大脳皮質ネットワークの関与における脳幹の覚醒の役割を強調している[232]。これは、PTSDの中核的要素として、内部および外部の知覚と情報処理の変化したパターンを反映している[233]。

2.5. 脳の結合性、シナプス可塑性、および回路

脳画像診断における最新の取り組みは、脳の結合性に関する研究である。PTSD前頭葉辺縁系モデルは、メノンのトリプルネットワークモデルに基づくトリプルネットワークモデルに取って代わられた。トリプルネットワークモデルでは、3つの主要な神経認知ネットワーク、すなわちデフォルトモード・ネットワーク(DMN)、中央実行ネットワーク(CEN)、およびサリエンス・ネットワーク(SN)が、さまざまな精神疾患に関与していることが提案されている[208, 234]。これらのネットワークにおけるPTSDの中核構造、脳画像診断による所見、および示唆については表1を参照のこと[235-240]。PTSDにおける脳の状態の変化は、これらの回路内の活動の変化によって説明できる可能性がある。PTSDは一般的に、SNの過剰活性化とDMNおよびCENの低活性化と関連している[208, 235]。SNは、脅威と恒常性維持に関連する刺激の両方、内受容体、自律神経機能、および報酬処理の刺激検出に関与しており、大規模な皮質下および辺縁系の接続性を有する。SNは島皮質を介して、課題に応じてCENとDMNの切り替えを調節していると考えられている。PTSDでは前部島皮質とdACCが過剰に活性化しており、SNがPTSDにおける脅威の過剰な検出と自律神経機能障害に関与していることを示唆している。SNによるDMNとCENの調節機能の低下は、辺縁系の調節機能の低下にもつながる可能性がある。さらに、感覚外傷の記憶の活性化による感覚野の過剰活性化は、前頭前野を圧倒し、CENをさらに混乱させる可能性がある[235]。DMNは自己言及的な思考や内省に関与している[236]。PTSD患者では自己言及的な処理の変化、DMN構造の変化、および両者の間の接続性の低下が認められている。PTSDにおけるDMNの変化は、慢性的な外傷および過覚醒と解離症状の両方と関連している[235, 241]。通常、扁桃体はDMNの状態とは関連しないが、過覚醒および警戒過剰のPTSD状態では、DMNは扁桃体とのDMN機能的結合の変化を示す[235]。同様に、CENの結合性の低下もPTSDと関連しており、これが作業記憶の変化や情動制御の低下の根底にある可能性があると考えられている[235]。衝動性、易刺激性、情動調節障害、集中力欠如などの情動調節の障害は、したがって、記憶の再活性化によって引き起こされる強い情動、注意および実行機能の変化、自己参照処理に関連する領域の活動など、複数の要因の結果である可能性がある。

しかし、このモデルは不完全である可能性が高い。DMNは背側注意ネットワークと負の相関があると一般的に考えられているが、そうではない可能性もあり、反射的行動と社会的・物理的環境の制約のバランスを保つ、より微妙な関係が存在する可能性もある[236]。PTSDの影響を受けるネットワークと社会的認知のネットワークとの間に重複があることを指摘している研究者もいる。社会的認知のネットワークには、a) 精神化能力、共感、道徳、内省に関連するDMN、b) 行動の識別、顔の表情やボディランゲージの符号化に関連するミラーニューロンシステムが含まれ、注意および前頭頭頂制御ネットワークと重複している[239]。さらに、vmPFCと眼窩前頭皮質は、感覚および内臓運動の情報を皮質下の領域に伝えるネットワークに関与しており、この情報を社会的行動、気分制御、および動機付けに関与する領域にリンクさせる可能性がある[236]。さらに、DMNは、心的シミュレーション、計画、評価の際に記憶の再生と密接に関連していることが提案されており、記憶の固定、学習、将来の構想や予測に重要な意味を持つと考えられている[236, 238]。したがって、PTSDへの影響の理解は、今後も進化し続けるであろう。

重要なのは、これらの脳ネットワークは慢性的ストレス、ストレス感受性、炎症の影響を受けることである。これらは興奮毒性、グルタミン酸神経伝達の変化、NMDA受容体およびα-アミノ-3-ヒドロキシ-5-メチル-4-イソキサゾールプロピオン酸受容体(AMPA受容体)、BDNFレベルの低下、前頭前皮質および海馬におけるシナプスの損失と関連している[242]。文献では、神経炎症、酸化ストレス、脳の構造変化に関連する患者の一部において、臨床症状の悪化と並行してPTSDの神経学的進行の可能性が示唆されている。神経変性は、症状が悪化したり、長期間にわたって高い強度で維持されたりする患者の一部と特に関連している可能性があり、前頭葉の進行性変化(縮小)や神経認知機能、身体的、心理的、社会的、環境的機能の悪化を伴う [243]。 次のセクションでは、アロスタティック負荷という関連概念について検討する。

2.6. PTSDのアロスタティック負荷モデル

ストレス因子への曝露と健康状態の関連をよりよく理解するために、アロスタシス(allostasis)のモデルが役立つことが分かっている。アロスタシス、キンドリング、感作は、外傷への曝露後に起こる進行性の調節障害と症状による苦痛を概念化するのに役立つ概念であり、PTSDの発症と経過につながるものである[244]。感作とは、環境的な誘因が時間の経過とともに反応の振幅を徐々に大きくし、反応の振幅が持続的に増大していくことを指す[245]。感作は、PTSDの基礎となるさまざまな生物学的システムで起こり、生理学的システムのストレスに対する反応の振幅が大きくなることで明らかになる。 関連する概念である「キンドリング」は、PTSDにおける進行性の辺縁系の異常の発生における基礎となる病態生理学的メカニズムを特徴づけるために用いられてきた。 さらに、感作とキンドリングは、PTSDの最初のエピソードに続く二次的なプロセスを説明し、その後のエピソードのリスクが高まることを予測するためにも用いられる。要するに、PTSDにおけるストレス感作、恐怖条件付け、消去の失敗の相互関係が、その発症と維持の中心となっているのである[246, 247]。

アロスタティック負荷とは、生物学的負担の累積を測定する尺度であり、個体がストレスにさらされた後に安定性を維持する能力に挑戦する、繰り返されるストレス曝露の累積コストを意味する[248]。これは、極度のストレスに直面した際に活性化され、その後は抑制されるシステムによって生物学的恒常性が維持されることを必要とし、適応の成否を支える。要するに、アロスタティック負荷とは、アロスタシスの繰り返しサイクル(すなわち、脅威に対する適応)の結果である。アロスタティック負荷モデルは、ストレス疾患に関する文献の見直しに用いられ、複数の生物学的システムが、繰り返されるストレスや環境中の誘因への曝露による一時的な機能障害の連鎖に対して脆弱であることを強調している[204]。 さらに、これらの進行性の機能障害は、症状の進行と慢性化のさまざまな可能性のある経過の出現につながる。アロスタティック負荷モデルの本質は、ストレスの多い状況下で身体が繰り返し活性化されることで消耗していくというものである [249]。 これには、質の悪い睡眠や概日リズムの乱れ、運動不足、喫煙、アルコール摂取、不健康な食事など、健康を損なう行動による生理学的影響が含まれる。環境的な困難が個人の対処能力を超えると、ストレス反応システムが繰り返し活性化され、緩衝因子が不十分な極端な状態へと移行し、アロスタティック負荷過多となる [250]。 これらのストレスや脅威は、複数の神経ホルモン、炎症、神経系の活性化を開始することで、ホメオスタシスを乱す。

生物学的マーカーを通じてアロスタティック負荷を特定しようとする研究がいくつかある。 アロスタティック負荷のバッテリーモデルを定義するアプローチもある。 例えば、Seeman らは、アロスタティック負荷反応における一次、二次、三次バイオマーカー、および追加のバイオマーカーを特定している [251] (表2)。内的または外的要因による脅威や逆境に適応する神経内分泌系および免疫系がある。a) 視床下部-下垂体-副腎軸はアロスタティック負荷の病態生理学において重要な役割を果たす。b) 脳の構造および神経化学的機能はゲノムおよびノンゲノムのメカニズムの両方に影響を受ける。 c) 免疫システム(白血球、サイトカイン、炎症など)の調整が起こり、長期的には免疫抑制効果をもたらす。d) 心血管系や消化器系、内分泌代謝バランス、睡眠を含む身体機能の変化が起こる可能性がある[250]。

要約すると、アロスタティック負荷とは、ストレス系への外傷的出来事の累積的曝露とその不調節の増大の結果として生じる症状である [252]。これは、アロスタシスの定義、すなわち生物が変化を通じて安定性を達成する能力、および健康な機能には内部生理学的環境の継続的な調整が必要であるという見解に由来する。したがって、PTSDのさまざまな形態と、それらの精神および身体の併存疾患を概念化する一つのアプローチとして、ストレスが長期間にわたって個人の適応と調節障害に及ぼす影響を特徴づけるために、アロスタティック負荷モデルが用いられる。アロスタティック負荷モデルは、PTSDの症状が現れ始めた後に継続的な曝露が生じた場合、症状の重症化と治療による予後の悪化のリスクを説明するものである [253]。