自死について


死とは暴力である。


自死の場合、自分自身の体に傷を付けることによってその行為は達成させる。これは自身による自身の殺害であって、自身による自身への暴力である。


本人にとっては死ぬかどうか迷うことというのは、2つの状態を天秤にかけていることだと捉えられる。つまり、生きることに付随してつきまとう苦痛や暴力と、死ぬことの暴力との天秤である。そして主観的に、生きることに付随してつきまとう苦痛に耐えられないと判断して死を選択している。ひとまずはそのように考えられる。


死なないという選択をとっても、暴力的な環境に置かれつづけることに変わりはない。死ぬという行為は苦痛をもたらすが、死なないという選択も、苦痛を味わい続けることになる。つまり「死ぬという選択」とともに「死なないという選択」もまた暴力なのである。


重要なのは自己にとっての自死だけではない。他者にとっての自死も重要である。つまり、自死を他者はどのように受け取るかということである。


自分の大事な人が死んでしまうという状態を想定してみると、一番に想像できるのは「喪失感を味わうだろう」ということでろう。しかし、実際には「怒り」の感情がまず現れる。喪失感というものは、ある程度落ち着いてからくるものであって、「なぜ死んだんだ!」という怒りが何にも先んじて現れる。


自死によってダメージを被るのは本人だけではない。その人を取り巻き、その人を大事に思っている人にも暴力を振るうことになる。


自死とは他者への暴力でもあるのだ。


従って、今、自死を選ぼうとしている人に対して、自分がそのような暴力を受ける謂われはないのであって、そういう暴力は非常に困る。そのように異議申し立てをすることは可能である。


しかし、一方で、その自死を阻むということは、その人にとって苦痛に充ちた人生を続けさせることを強制させることでもある。自分に降りかかる暴力がいやだから、やめてくれと異議申し立てをすることは、相手を苦痛の充ちた環境に置き続けることにもなる。自分への暴力を拒絶する代わりに、相手へ降りかかる暴力を甘んじて受けろと相手に言っていることになる。


このように言うことは「間違い」なのだろうか? 「間違い」だと即断することは出来ないにしても、少なくとも「正しい」とは言えないのではないだろうか。


そのような場面に出くわすことがないのが一番であろうが、そううまくもいかない。そういう時にどうするか?


正しい答えはなく、何を選ぼうが間違った答えになる。そういう状況では、何を選んでも間違いであるというある種の自由はある。しかし、そのような自由は倫理を要求する。


ここで問うべきは「いかなる暴力であれば許容できるか」というものである。幾つかの選択肢の中で、暴力の質として許容できるものがあればいい。例えば、財布をなくすか、命をなくすかという選択であれば、ほとんどの人が財布を失うことを選択するだろう。しかし、このような明確な差が無く、どれを選んでも同様に暴力的な結果になるならば、どうしたらいいのだろうか?


ひとつは、どれが「正しい」という基準ではなく、実質的にどういう枠組みであれば、ダメージが一番少ないかという功利的な考え方が必要である。例えば、事態の帰責*1を自分ではなく他者にもちらすこと=責任逃れをすることである。責任を一番取らなければいけないような状況、そのような責任を履行するために一番必要なものは、逆に責任をいかに被らないかという思考である。


もう一つは「納得」をもたらす枠組みについて考えなければならない。つまり「死」を因果的に説明する言葉である。言葉によって代理表象させることによって体験は整理される。このことによって、「死」という荒ぶる神のような存在を鎮めることが幾ばくかは可能である。神を鎮めることによって、体験を整理することが可能になる。


このことを考えた上で、取るべき選択肢は、再帰的に近代のロジックの復権であろう。決定不可能な状態で、不決定に陥るのではなく、そして他者への無限の責任を今一度隠蔽するために、近代的なロジックを再帰的に再導入すること。つまり、「自己決定」のできない状態であっても、そこにあえて「自己決定」をする状況を作り出すことである。


この方法は結果を顧みないことになるのかもしれないし、自身の感情を放棄して事態と向き合うことになるのかもしれない。しかし、この方法以外に自分が出せた答えは今のところ無い。

*1:事態は違うが、殺人事件ならば殺した相手を憎むことができる。つまり、感情のはけ口があり、その感情を吐くことによって、残された者は自責の念からはある程度救われることになる。もちろん、救われるといっても程度の差であるが、この程度の差が意外に重要である